008
翌朝、姫月は寮の入り口でファムを待っていた。
寮の周りは木々に囲まれており、この木を使って宿舎を建てたらしい。麓にある巨木の森ほどではないにしろ、三階建ての寮を優に越した立木に育っている。
この陽光遮る深緑の天蓋によって、穴道のような幽暗とした道が伸びていた。
纏わりつく腐葉土の匂いと、鳥の囀りに紛れ込んだ獣の慟哭。学院までの僅かな行路とはいえ、嫌う女生徒は少なくない。
しかし、決して真っ暗というわけではなく、葉傘の合間を縫って地表を目指す木洩れ日が、真っ直ぐな光の線となり、幾重にも降り注いで道々を照らしていた。
満天の星々を掲げる夜ともなれば、この木々の隙間から空を覗き込むと、樹木の枝が風に揺れるたびに、葉擦れの囁きに合わせて星が瞬いてみえる。視界に入る全ての星々が、オルゴールにある無数の金属を弾くように、リズミカルに動き出す。
姫月がそれを見たのは、確か外泊を繰り返すシェリーを追って外に出た時だった。あの時ほど、シェリーの軽薄さに感謝したことはない。
「お待たせしました。姫月さん」
急がなくてもいいところを、ファムが足をもつれさせそうになりながら駆けてくる。
「寮長先生から、デバイスは返してもらえた?」
「はい、この通りです」
ファムは、姫月と異なる紋章の彫られたミスリルダガーを呈示する。
「で、結局。昨日のは何だったの?」
「それが……何も教えて下さらなくて……。もしかしたら、昨夜、眠りを妨げられたことに怒ってらっしゃったのかも……」
「……ごめんなさい。ファムには悪いことをしたわ」
「や、やめて下さい……姫月さんは何も悪くありません……」
「ファム。また待たせてしまったかしら? あら? 姫月さんじゃありませんの。珍しいですわね」
「マチルダ。ご一緒してもいい?」
「ええ、喜んで」
マチルダが加わったことで、姫月はファムと昨日の一件を話すことができなくなってしまった。胸騒ぎを覚えた出来事だっただけに、逸る気持ちを抑え難かったが、マチルダには不向きな話題だと思い、取り止めもない話題に終始した。
そう思っていたのは、マチルダが姫月にとって女性らしい女性だったからだ。孤児院で男女関係なく混じり合いながら育った姫月は、女性らしく振舞う、ということが苦手だった。今ではそれなりに克服したつもりでいても、穏やかな環境の中で育ったであろうマチルダを見ると、自分が違った存在であることを認識させられる。
マチルダは、名家の出身。比べることも、女性の代表のように扱うことも間違いかもしれない。それでも、女としての自分に求められるのは、こういう存在なのではないかと思わされる。淑やかで従順。そして多少の愛嬌。社会がそうであれと押し付けた枠組み。
幼き日、泥だらけになりながら野山を駆けた後、アルテナ院長に言われた言葉。
―あなたは女性であることを忘れてはなりません。
今ならその言葉の意味がわかる気がする。
姫月は、決して憧れていたわけではない。しかし、敬意を持っていた。
女性としての自分を顧みるための鏡。マチルダはそんな存在だった。それは皮肉ではなく、自己を認識するために必要な物差しとして、姫月の欲するものだった。
「姫月さん? 聞いてますの?」
マチルダが顔を覗き込んでいた。
「ええ、聞いてるわ」
「で、ニコル様の事なんですが……」
永遠に続く、恋の話。理解できずとも、悪い気はしなかった。
校門の前まで来るとニコルが待っていた。
「マチルダさんにファムさん、それに姫月さん、おはようございます」
ニコルは姫月を意識するあまり、一番最後に名前を呼んだのだが、一番先に呼ばれたマチルダは殊の外嬉しそうに笑顔を見せた。
「御機嫌よう、ニコル様。あら?」
皆で挨拶を交わし合う中、マチルダがニコルの手にある紙包みに気づく。
「今日はこれをわたくしに? 先日のお礼もまだですのに……」
「い、いえお気になさらず。たまたま昨日、男子寮で菓子作りが流行りまして、お裾分けです」
それって一体どんな状況ですよ、と言わんばかりのファムの目つきに、みなまで言うなと表情で返すニコル。
ニコルが紙包みを開けると、バニラエッセンスの甘い香りと共に、こんがりと焼けたクッキーが姿を現した。
「もぅニコル様たら。わたくし達は、媚薬盗難事件の容疑者として扱われてますのよ。そんなときに食べ物のプレゼントなんて……」
マチルダは、頬っぺたを膨らまし、少し意地悪気に微笑む。
「あ、そ、そうでした……。これは配慮が足らず申し訳ありません」
「わたくしだから良いようなものを、他の方にでしたら、誤解されてしまいましてよ」
そう言うと、クッキーをひょいと摘み上げて、口に入れた。
「わたくしに対して、媚薬が必要ないことは、ニコル様が一番ご存じでしょうけど。既に恋の魔法にかかってますもの」
軽くウィンクして、意味もなくその場で一回転をする。スカートがふんわりと宙に舞った。
姫月は、マチルダに異常が無いことを確認してから、クッキーに手を伸ばした。少し固めだったが、味は悪くない。手作りらしい控えめな甘さで、焦げ目にも癖になる独特の苦みがある。味はいかがですか、との問いに、美味しいわ、と短く答え、姫月は気になっていたことを聞いた。
「ところで、ニコル。昨夜、男子寮で何か無かった?」
「何か……ですか?」ニコルは思案する風でいて、悩む様子もなく「魔獣の死骸が一匹見つかったぐらいです」と答えた。
「魔獣の死骸?」
意外な答えに姫月は聞き返す。
「ええ、手が六本、足が8本の蜘蛛みたいな魔獣だったそうです。大方、生徒の誰かが、デバイスの試し切りに使ったんでしょう。見るも無残なメッタ刺しで、内臓がそこらじゅうに散らばっていたとか。うちの寮長はかんかんに怒っていました」
ファムはリアルにその様子を想像してしまったのか、吐き気を堪えるように口を押えた。マチルダの笑顔も引きつっている。女性陣の反応が良くないことに気付いたニコルは、慌てて「そんなに切り刻んだら、掃除が大変ですよね」と、的外れなフォローをした。
それにしても、生徒の言い争いと、魔獣の惨殺。あまりしっくりとくる組み合わせではない。
ファムも、腑に落ちない表情で姫月を見る。二人で顔を見合わせていた丁度そのとき、ギルメロイが無言で背後を通り過ぎていった。
「そう言えば、姫月さん。ギルメロイ君に勝ったんですよね。おめでとうございます。あの日は本当に気が気がでなく、胃痛を起こした程心配したんですよ。でも、良かった。彼はしっかりと約束を守っているようですし、これで安心ですね」
ニコルはギルメロイをからかいに行きたそうな様子で、彼の後姿を見つめていた。
「なんの話ですの?」
蚊帳の外に置かれたマチルダが、不満げにニコルと姫月を見比べる。ファムは、慌てて全員に促した。
「は、早くしないと遅刻になってしまいますよ……」
それでも渋るマチルダを、ファムは後で詳しく話しますからと宥め、学院の中へ押し込んで行った。
「姫月さんも……早く……」
「私はここでシェリーが来るのを待ってるから、先に行ってて」
ファムにそう告げ、三人を見送りながら一人校門の前に立つ。
生徒の言い争いは別にして、昨日の血のついたシェリーと魔獣の惨殺なら、あり得る組み合わせ。直接聞くわけには行かないにしても、登校の様子を確認しておきたかった。




