007
その日は、シェリーに文句を言われないため、夕方の内に短剣の手入れを終え、早めに就寝した。
構造上、気にする必要は全くないのだが、砂埃が金属の隙間に入り込んでおり、新品同然に戻すのは、中々骨の折れる作業だった。姫月は、どちらかというと真面目な部類に入ると自認していたので、手間のかかる子ほど可愛いという理屈に、些か抵抗があったが、接する機会が増えれば増えるほど、それなりに愛着が湧くということか、などと思ってみたりもした。
この短剣はミスリルと呼ばれる特殊な魔法合金で出来ており、この短剣自体は、ミスリルダガーと呼ばれる。種類は様々あり、ミスリルデバイスと総称されるものの一つとなっている。姫月の物は、学生向けの単純な機構しか備えていないが、それでもこの学院の生徒にならなければ手に入れることのできない貴重品。個人で買おうとすれば、王都に住居を構える位の金がかかってしまう。異端審問官に任官された場合、各人が自由に作り直すの通常なのだが、姫月は、一生このミスリルダガーを使い続けるつもりでいた。
名前を付けて可愛がりたいところだったが、自分のネーミングセンスに自信のない姫月は、鞘に入れた状態で、添い寝をするだけで我慢した。
本来ならば至福の時間。しかし、その日の夜はやけに寝苦しかった。昼間の興奮が残っていたのか、眠っているのか、起きているのか、自分でもわからない妙な感覚に意識を漂わせていた。
なので、最初は、夢を見ているのかと思った。
―やめ……たす……。
妙な声。耳元で誰かが囁いている。シェリーの声とは違っていた。
―ほん……は……ころ……。
複数の人間の会話。一人ではない。今は自分の部屋で寝ているはずなのに、近くで誰かが言い争っている。異常な事態にようやく理性が働き出した。
―え? 誰?
目を開けて薄暗い部屋の中を見渡した。青白い月の光が、僅かに窓の隙間から差し込んでいる。
やはり夢かと思ったが、耳を澄ませていると、また頭の中に直接響いてきた。
―な……おれ……んだ……。
壊れた蓄音機が発するような声。ノイズが混じりこみ、内容はもとより誰の声かすらわからない。
―ぼく……ため……しん……。
誰かが、別の誰かに迫っているような様子。喧嘩をしているのか、不穏な空気を出している。
―どうしたの? あなたたちは何をしているの?
デバイスを使い通信を試みてみるが、自分の声が相手に届いているのかわからない。
―…アア……アアア……アア。
遠い向こうから、こもった悲鳴が断続的に聞こえてくる。何かが起こったらしい。
「シェリー! あなたも聞こえた?」
姫月はベッドから飛び起き、相方のベッドを揺さぶろうとしたが、隣には誰もいなかった。
「こんな時に!」
部屋から勝手に抜け出したシェリーのことを、気にかけている余裕はない。廊下へ出てみると、同じようにファムも駆け出してきていた。
「姫月さんも……聞こえたの?」
「ええ、聞こえたわ」
「男の子達が喧嘩をしていたみたい……男子寮だと思うけど……どうする?」
どうする? ファムの言葉に冷静さを取り戻した。男子寮は校舎を挟んで反対側。今から行っても間に合わない。それどころか夜中に寮を抜け出すこと自体が厳罰の対象だ。
悩んでいる姫月にファムが言った。
「私のデバイスに男の子達の会話を録音したから、それを寮長先生に提出して……あとは先生方に任せるっていうので……いいかな?」
「……そうね。そうしましょう」
姫月は自分を恥じた。ファムの適確な対応。受け取ったばかりのデバイスを使いこなし、状況に合わせて行動している。もし、この事態に気づいたのが自分一人だけだったとしら、一体何ができたというのだろう。姫月は普段から、ファムの知識・魔法技術を高く評価していたが、それでもなお、ファムの全てを見ていなかったことに気づかされた。
「じゃあ……後は、私一人で大丈夫だから……姫月さんは、部屋に戻って……」
「いえ、私も付いていく」
「大丈夫だって……私に任せて……」
いつもは引っ込み思案なファムが、今日はやけに頼もしい。
「……わかった。頼むわね」
「うん……」
ファムは、木の廊下を走り、闇に消えていった。
彼女を見送り、部屋に戻ると、シェリーが服を脱ぎ、寝間着に着替えていた。窓が開けられ、夜風が部屋に吹き込んでいる。カーテンが揺らぎ、月影を舞わせていた。
「あれ? 姫月どうしたの? こんな夜中に」
「どうしたのじゃないわよ。あなたは声を聞かなかったの?」
「へ!?」
シェリーは、思いのほか間の抜けた顔をしている。
「リンクしてなかったの? 誰かが助けを求めていたでしょう」
「リンクって、もう夜中だよ。そんなの切ってるに決まってるじゃん。で、何があったのよ」
「わからないわ。さっきファムと相談して、後は先生に任せることにしたの」
「そう、じゃあ。明日になったらわかるかもね」
事態を知らないシェリーは、状況の緊迫性を全く理解できていない様子だった。
その時、月が雲の間から顔を覗かせ、部屋の中が徐々に陰影を取り戻していった。そして、脱ぎ捨てられた服に付いた泥の跡、そしてシェリーの口回りについた血のような跡を照らしていく。
「ん? 何? また夜遊びのこと怒ってるの?」
「当たり前でしょ……」
姫月は気づかない振りをしてベッドに戻った。




