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その後は、阿鼻叫喚だった。時には互いの胸の内を曝け出し合い、罵り合い、嘲笑し合い、また時には誤解を解き合いながら、必死に思考をコントロールしようと誰もが必死になった。救いといえば、デバイスを通した会話は、方向性が掴めず、しかも音がこもっており、誰の声かわかりにくいこと。全員が同時にしゃべっていることもあり、録音される恐れがなければ、意図的に悪口を混ぜらすのは簡単だったが、それよりも本音が漏れてしまうことに、生徒達は戦々恐々としていた。
教室に戻っても、その様子は変わらず、保健室から帰ってきたギルメロイとファムもリンクに加わり、賑わいを一層増してゆく。
あまりの煩さに軽い眩暈を覚えた姫月は、やれやれとばかりに席について、辺りを見渡した。
教室の中は、目の前の教壇が見やすいよう、片側がすり鉢状になっており、半円が積み重なる形で机が設けられている。生徒の学習意欲を高めるという名目で、天井から、魔物の剥製がいくつも吊り下げられており、手足が十本以上ある人型の狼、蝙蝠の翼が生えた巨大な猿といった異形の生物が数多く展示されていた。これは異端審問科の教室だけで、すこぶる評判が悪い。中には今にも動き出しそうに、首をもたげて生徒を睨む双頭の蟷螂もおり、封印が解けかかっていると専らの噂だった。唯一、下半身が蛸のようになっている人間の顔立ちをした髪の長い女が男子生徒に好評で、ニコルを始め、他の学科の男子も見に来たことがある。もっとも、シェリー曰く、ニコルは他の物を見に来たらしいが、姫月に心当たりはなかった。
普段は気が散るだけの魔物達も、こうやって授業が始まるまでの暇つぶしに眺める分には悪くない。そんなことを考えながら、姫月は教室が静まるのを待っていた。
しかし、授業が始まっても一向に収まる気配がない。
ジェイド先生の聖教会史の授業は、本人のやる気のなさも手伝って、退屈との呼び声が高く、表面的には静かな授業の風景でも、脳の中では学級崩壊を引き起こしていた。
正確には、やる気がないように見える先生だったことが災いしていた。教壇の椅子に座ったまま、教科書を朗読するだけの授業。しかも、自分自身は、全く別の書物に目を通しながら、教科書の内容を暗誦するという無駄に高度な技を披露している。恐らく、自分の研究時間が授業に取られるのが嫌なのだろう。それに、ビジュアルも良くなかった。白いローブを着用するだけならまだしも、フードを被ったまま、顔には、怪しげな文様の入った白い面を付けている。首都にある王立魔術アカデミーの客員教授を務めているらしいが、声の感じから若い男性教員とわかる位で、マリア先生以上に一切が謎だった。
「……今でこそ市民権を得ることになった魔法だが、当時の聖教会は、これを認めず、魔女狩りが横行した結果、無実の者も含む多くの市民が虐殺された。異端審問官は、その歴史を忘れることなく職務に努め……」
先生の声は、全く頭に入らない。ボリュームという点で言えば、頭に直接響く、皆の雑談の方が上だろう。
ファムは一番前の列、姫月は真ん中、シェリーは最後列と分かれていたが、姫月も、シェリーに話しかけたり、ファムに服を直して貰ったお礼を言ったりしながら、色々試すことで大分、コツを掴んできた。
その一つは、特定の人間を意識すればその人とだけ会話ができ、他の人には聞かれずに済むことだ。
シェリーはそのことを利用して、マリア先生に届かないよう注意しながら、声色を装って卑猥な発言を繰り返し、困惑する男子達を見て楽しんでいた。
姫月が発言の主をシェリーだと特定できたのは、普段の行いと、必死に笑いを堪えるシェリーの姿を視認したからで、やはり、誰の声なのか、どこから聞こえるのかを特定するのは難しいことだった。
関わるだけ面倒なので、シェリーのことは放っておくしか無かったが、姫月はファムに聞きたいことがあった。タクマ先生のことだ。
―姫月だけど、聞こえる? ファムは、今日赴任してきたタクマ先生と、知り合い何ですってね。
―え!? え!? なんで……ご存じなんですか……?
ファムは目を丸くしてこちらを向いた。
―本人から直接聞いたの。タクマ先生ってどんな方?
正直、あまり良い印象を持っていなかったので、確認しておきたかった。
―き……厳しいけど……良い方ですよ……。王都が誇る円卓十二騎士団の一つ、炎聖騎士団団長を任されていて、とっても凄い方なんです……。
―尊敬しているのね。
―はい……。
尊敬しているのは本当のことのようだったが、気恥ずかしさとも違う、萎縮した表情を浮かべているのが気になった。戦災孤児という点では自分と共通するも、自分とアルテナ院長のような関係を、二人が構築しているとは思えない。
―残念ね。
姫月は誰にも伝わらぬよう、心の中に感情を仕舞い込んだ。ファムを通しても、タクマの評価を変えられなかったことが、率直に残念だった。他人に対する負の評価を抱え込むことは自身にとっても負担だった。こんなことをアルテナ院長に言えば、人として未熟と怒られてしまうだろう。行き場のない、もやもやとした感情が胸にわだかまる中、ふとした疑問が頭をよぎる。
炎聖騎士団は、円卓十二騎士団の中でも、武闘派で知られた騎士団。戦乱での実績こそ他の騎士団に劣るが、迫害を受ける異民族や経済的弱者に対する支援を積極的に行う、評判のすこぶる良い組織。その騎士団長が、わざわざ学院に教師として赴任することなどあり得るのだろうか。しかし、姫月にそれ以上、思考を続ける余裕は無かった。
「諸君。当時行われていた、魔女裁判の方法を知っているかね」
誰も授業を聞いていないことに嫌気が指したのか、唐突に教科書以外からの話題を出した。
皆の会話が自然に止む。
「よく行われた方法の一つに、手足を縛って水に沈めるというものがある。浮かんできたら魔女なので死刑。沈んだら、魔女ではないが、そのまま溺死……というわけだ。ファム君……どう思う?」
ファムは、どぎまぎと答えた。
「……ひ……酷いと……思います」
「その通り。現在では理不尽に感じるだろう。だが、これは決して過去の物ではない。現在も裁判実務で問題となっているのは自白の問題だ。魔女かどうか自白するまで拷問を続け、自白すれば死刑。自白しなければ死ぬまで拷問が続けられる。それは諸君らが目指す異端審問官に、特別な地位が認められていることの弊害でもある。では、なぜ自白が問題になるのかね、ギルメロイ君」
「自白だけで有罪が決定され、そして、一度下された判決。つまり神判は、決して覆してはならないからです」
ギルメロイは頬杖を突いたまま、けだるそうに答えた。
「正解だ。正確に言うなら、神の名の下に下される判決に誤りがあるはずはなく、したがって同一議題での裁判は認められない、ということになる。この点は、結婚とよく似ている。神に永遠の愛を誓い、神の名の下に婚姻を確定した以上、離婚が許されないことと」
ジェイド先生は開いていた本を閉じた。
「話を戻すが、現在、魔法の使用自体は禁止されていない。だが、一部の魔術師との確執は根深く、異端者によるテロ活動も、当時の魔女狩りに起因すると言われる。その根拠は、何かなシェリー君」
「……ひ、ひゃい! 高度な召喚魔術が使われているからです」
悪戯を続けていたシェリーは、飛び跳ねそうになりながら、無駄に手を上げて答えた。
「その通り。召喚魔術は本来学校で教えるものではない。特に、人間を供物に捧げて、魔獣や魔物を召喚する儀式は、禁呪に指定されており、魔法を古来より扱ってきた一族でなければ習得する機会はないだろう。知っての通り、現在行われるテロ行為は、聖教会関連施設で魔獣を召喚し、無差別に暴れさせるというものだ」
ジェイド先生は、被ったその仮面のせいで、視線がどこに向いているのか分からない。次は誰が指されるのか、否が応でも緊張させられる。
「テロの理由は、今まで不当な迫害を受けてきたことにあると考えられているわけだが……。さぁ、もう一度だ、ファム君。そんな彼らを処罰することに正義があると考えるか?」
「一般市民を巻き込むテロは……いけないことだと思います。ただ……何が正義かは、迫害した側か、迫害を受けた側に立つかで違うと思います……」
ファムの言葉に、姫月は驚いた。場合によっては、異端の烙印を押されかけない発言。思っていたとしても、口に出してはいけない言葉。
「果たしてそうだろうか? 君は最初、魔女狩りの水刑を酷いと述べた。これは正義に反するからだろう。互いの立場を超えて、客観的に存在する基準に照らしてそう思ったのではないかな。当時の異端審問官の立場に立って、正義と評価することには抵抗を覚えるだろう。そうだとすれば、本来、正義とは、立場に左右されることのない絶対的な概念ということになる。立場によって、正義か正義でないかが変わるとすれば、それは本当の正義とは呼べないのではないか?」
ジェイド先生は、特にファムの発言を問題視することがなかったので、姫月は胸を撫で下ろした。
「諸君らに言っておく。今のは私の考えというわけではない。これから異端審問官になるであろう君たちが、常に自問自答すべきことだ。一つの結論に辿りついたときに、思考は終わるのではない。それが正しいかを常に検証する気持ちを忘れてはならない。それを知っておいて欲しいということだ」
そのとき丁度、授業の終わりを告げる鐘が鳴り響いた。
「明日は、東方征伐の内容を扱う。今日の残りの範囲については各自教科書を読んでおくように……。そうそう、言い忘れるところだった。ギルメロイ君とファム君。両名は後で職員室に来なさい」
そう言い残すと、ジェイド先生はローブを引きずりながら教室を出ていった。




