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 姫月は考えた。現状を打開する方法を。自分一人では勝てない……どうすれば……どうすれば勝てるのか……。

 あのマリア先生ですら敵わなかったのだ。まして、魔獣に負わされた傷を思えば、コンディションは最悪。

―いえ、待って……魔獣……。

 ふと、考えが浮かんだ。あまりに虫がいい考え。それでも、なりふり構っていられる状況ではない。 

 姫月は、先ほど倒した魔獣に寄り縋り叫んだ。 

「起き上がって! 私と一緒に戦って!」

 もしかしたら、魔獣はまだ死んでいないのかもしれない。異常なまでの生命力を帯びた生物。可能性はある。先ほどから動かないのは、薬の効果がまだ持続しているからかもしれない。一縷の望みを賭け、姫月はお願いし続けた。

 しかし、魔獣は既に死んでいた。息絶えていた。姫月の命令通り自死していた。姫月に殺されたのだ。

 その肉体は、もはや姫月の願いを叶えることはできない。どんなに強力に精神を支配しても、死体を操ることはできない。それには別の魔法が必要だ。

「ようやく貴様を殺せるな。姫月……アルテナ!」

 気づくと、背後にタクマが立っていた。マリア先生の血に塗れた真紅の騎士。マリアに勝ったことで気持ちが昂っているのか、その眼光と口元に狂気が宿っている。

 一歩、一歩、瓦礫を踏み分けながら進んできた。その足跡を残すように、巨大な大剣から、血が滴り落ちている。

「お願い! 私に力を貸して!」

 この時の姫月には、心臓の鼓動のような何かが聞こえていた。

 魔獣の亡骸から発せられる、強い想いのようなもの。事実、魔獣は姫月の声に応えようとしていた。それは、薬の効果によるものだったのかもしれない。魔獣の精神だけは、死してなお、立ち上がろうとしていた。

 受動性が高まる中、姫月の意識が、次第に遠のいていく。自我が消え、虚無に入り込む。

 辛うじて残された意識が、闇の奥へ潜っていく感覚を味わっていた。不思議と怖くない。暗く暗く沈んだ先に咲く燈火。そこへ、吸い寄せられていく。

 そこで姫月は、幼い赤子のように愛おしげな存在を見つけた。今にも掻き消えそうな僅かな光の中で、姫月を呼んでいる。

―マ……マ……。マ…マ……。

 無垢な声。必死に泣きすがってくる魂を、姫月は受け止めた。両手を広げ、体全体でしっかりと優しく抱きしめる。その魂が姫月と共鳴する。


 強烈な光。姫月の体が神々しく輝き、隣に横たわる魔獣から流れ出る何かを吸収していく。それを取り込めば取り込むほど、光輪が増し、いつしか姫月の肉体は、下から上昇する気流に乗って浮遊していた。姫月は、目を閉じたまま、恍惚と佇み、漂っている。


 タクマは呆然と立ち尽くした。目の前で起きていることが信じられない。二度と……二度と見ることはないと思った、あの光景が今、この場で起きているのだから。

「そんな……馬鹿な……。これは……これはまるで……神下ろしではないか!」

 失われた東方の秘術。国を治めた巫女にのみ伝わる一子相伝の力。

「ありえん! ありえん! ありえん!! カンナ様は亡くなったのだ!」

 タクマが仕えた亡国の巫女。途絶えたはずの血筋。まさか、まさかと、思考にならぬ思考が、頭の中で空転する。


 ゆっくりと、姫月の目が開いた。残された右目からは、まるで生気を感じられない。

 殺気はおろか、存在感すら無い。まるで幻のようである。タクマが反応できないのは、無理からぬことだった。

 姫月は、タクマが立っていたその場所で拳を振りぬいていた。下からみぞおちを突き上げられ、軽々と体が浮かぶ。体を貫かれたような激痛により、自身が攻撃を受けたことを知った。鎧は粉々に砕け散り、その場に膝をつく。

「ぐぬぬぬぅぅぅ!」

 タクマは、地面に手を置いたまま、顔をしかめた。そして、後ろに飛び退き、体勢を立て直す。

―決して追えぬ速さではない! 落ち着くのだ!

 自身に言い聞かせる。正面から来る二打目を、体を斜めに反らして避けた。

 やはり先ほどの一撃は偶然。突然のことに動揺していたから躱せなかったのだ。と、己の未熟さを恥じたのも束の間、既に姫月の姿を見失っていた。

「どこだ!」

 後ろを振り返るが姿はない。やはり気配を微塵も感じない。だが、長年の経験から来る直感のようなものが、背後に何かを感じ取っていた。

 咄嗟に低く身を屈める。短剣がタクマの髪を掠めていった。

「小癪なぁああ!」

 タクマは、振り向きざまに、大きく大剣を振りかぶった。手応えなく、虚空が振動するばかり。

 既に姫月は、後方に引いている。

 互いに向き合ったまま剣を構えた。

「貴様は何者だ! その力は一体なんだ!」

 姫月は答えない。その耳にタクマの声が届いている素振りさえ見せない。姿形こそ人のそれだが、果たしてあれは人間と思っていいのか。得体の知れぬ巨躯の魔獣と向き合っていることに気づいていない、哀れな人間。それは自分ではないかと、生唾を呑み込んだ。

 解せないことは多い。あれはまさしく神下ろしの力。

―……この娘は、カンナ様の……。

 いや、それはあり得ない。魔獣を取り込むなど聞いたことがない。似て非なる力だ。

 タクマはそう考えた。それを認めては、己の不義を認めることになる。敬愛する姫の忘れ形見に剣を向けるなど、決してあってはならぬこと……。


 再び姫月が迫る。断ち切れぬ迷いの中、タクマはその斬撃を受け流す。

 金属と金属の弾かれ合う音が、礼拝堂の中で響き続ける。そして、一際大きい金属音が室内に反響した。

 互いの力と力を賭けた鍔迫り合い。

―なんという力だ……私が押されているだと!?

 か細い一人の少女が、その手にした短い剣で、大剣を携えた屈強な男をねじ伏せていく。

「ぬおぉぉぉ!!」

 タクマが、顔を歪ませて押し返した時、姫月が力を抜いた。いや、姫月が目の前から消えたのだ。行き場を失った剣ごと、タクマの姿勢が前のめりになる。

―しまった!

 躓く寸前のところで、体勢を戻し、顔を上げる。姫月の姿が目に入った。

―このままでは不味い!

 咄嗟に後ろに飛び退く。姫月が逃すまいと追ってくるが、問題ない。所詮、短剣の間合い。たかが知れている。

 しかし、後方に下がりながら、目にした光景は、タクマの予想を大きく裏切るものだった。

 姫月が振りかざしているのは、ミスリルダガーではない。ミスリルソード。短剣ではなく長剣だった。

―あれはマリアの!!

 完全に姫月の間合いの中にいる。迫る剣。タクマは、自分の大剣が手首ごと離れていくのを、ただ眺めることしかできなった。


「これで……終わり……です……」

 姫月は、タクマの首に剣を突きつける。不思議と意識が戻っていた。自分が何をしていたのか、辛うじて覚えている。

 長い間呼吸を止めていたような息苦しさの中で、突然自我を取り戻していた。

 本来なら終わりではない。たかが手首の一つ切り落としたところで、自分との戦力差が縮まるわけではない。先ほどのような感覚で、再びタクマと剣を交える自信は無かった。今度は、姫月が一方的に蹂躙されるだろう。それこそ、赤子の手を捻るように。 

 姫月は、剣が震えるのを抑えるのがやっとだった。

 しかし、タクマにそのつもりはなかった。

「私の負けだ……」

 両膝を付いたまま、まるで亡霊でも見るような顔で、姫月の顔を覗き込んでいる。

 姫月は、己の弱い心を悟られまいと、毅然と睨み返した。

 その姫月を見て、タクマは目を潤ませる。そして、口を開いた。

「姫様……。姫様……。私の姫様……。ようやく……お会いできました……」



 血と泥に塗れた、姫月の漆黒の髪。想起させるのは、自分の仕えるべき本当の主の姿。在りし日の姫の姿。

「カンナ様……」

 側にいる姫月にも聞こえないような小さな声で、呟いた。

 忘れることができるはずもない、あの日の悪夢が蘇る。幾度も幾度も呪い続けたあの日。己の不甲斐なさと力不足に嘆いたあの日。

 美しき姫と最後に会った、あの日のことを思い出す。果たせなかったあの日の想いが溢れ出す。


 今は焼け落ち、無くなった王宮の祭壇。巫女装束に身を包んだ姫様と、簾越しに言葉を交わした最後の夜。

「タクマ。あなたは、そのまま潜入を続けなさい。これは命令です」

「しかし、姫様。この国が無くなっては、意味がありません。どうかお側に! このタクマ。命にかえても姫様をお守り致します」

「なりません。敵国の騎士団長にまで上り詰めたあなたは、私達の切り札。民達の希望となるべき存在。ここで失うわけにはいかないのです。あなたも騎士を名乗るのなら、最後までその役目を全うしなさい」

「姫様!」

「それに……ですよ。何を心配することがあるのです。私には神の力があるではありませんか。例え、異教と罵られようと、私達にとっては紛れもない力。私が先陣で戦うその姿を、向こう側からしっかりと焼きつけなさい。必ず勝利してみせます」

 姫様の力は、私がよく知っていた。神をその身に下ろしたカンナ様は無敵。まさに鬼神の如く、獅子奮迅の活躍をなさるだろう。しかし、数が違う。圧倒的戦力差。どう足掻いても埋めることのできない壁。籠城という道しかない状況で、戦況をひっくり返すことなどできはしない。

「恐れながら……」

 カンナ様は、私の言葉を手で止めた。

「タクマ。あなたは私にとって幼き頃を共に過ごした家族。家族にこのようなことを言うのは、変かもしれません。しかし、言わせて下さい。今までありがとう、と。後を頼みます」

 返す言葉がない。何も言えなくなってしまった。姫様は全てをご存じだ。私が今更のように述べることを知らないはずがない。この方は神に愛された方なのだから。

―神よ。どうか、姫様をお守り下さい。姫様をお守り下さるのでしたら、私はどうなっても構いません。

 私の一方的な神との契約。それが果たされることを、心の底から願うことしかできなかった。

 しかし、私の願い虚しく。いや、それ以上の呆気なさで戦いは幕を閉じた。一瞬にして、国土は蹂躙され、姫様のお姿を見ることさえ叶わなかった。

 逃げ延びた祖国の兵から聞いた言葉に、私は耳を疑った。

 姫様は戦われなかったと。皆のために戦われなかったと言ったのだ。彼は姫様に、そして神に見放されたと嘆いた。

 あの姫様が民を見捨てるなど、あり得るのだろうか、それは無いと断言できる。では、なぜか。戦えなかったのだ。そう、既に、巫女としての力を失っていたに違いない。

 憎きサリア=アルテナの報告では、異端の力を宿したカンナ様と激戦の末、これを破ったことになっていた。嘘つきめ。そこまで名誉が欲しいか! 一方的に、何の力も持たぬ、ただの姫を、虐殺したのだ。そして死体を辱めた。城外に吊るし、皆の前に晒した! これほどの怒りがあるか! 復讐以外に何があるというのか!

 単に自分と違うというだけで排斥したお前らを、私は決して許しはしない。

 しかし、なぜだ。なぜ、姫様は力を失われていたのか。長くわからなかった。わかりたくもなかった。

 それでも、その答えが、今、目の前にある。

―姫様は、お子を産んでおられたのか……。

 その瞬間、全ての疑問が解消した。はっきりと理解できる。

 そうか、サリア=アルテナは、姫月を。いや、姫月様を自分の子として引き取ったのか。私の国を、姫様の国を亡ぼしておいて、幼い赤子だけは殺さなかったというのか。

 何があったのか、カンナ様とアルテナの間に何があったのか。取引があったのか、それとも、城に残された赤子に情けをかけたのか、わからぬ。わからぬ、が、アルテナ! 貴様に、貴様に感謝しよう! 姫月様を救ってくれたことに感謝しよう。今だけは、全ての憎しみを忘れてそう言える。ああ、何と美しいのか! カンナ様、あなた様の御子は美しい。カンナ様のお若い時と瓜二つではないか!



 姫月は驚いた。先ほどまで自分に憎しみを向け、殺しにかかってきた相手が、まるで少年に戻ったような純朴さを取り戻し、くしゃくしゃになりながら泣いている。大の大人が声を上げ、生き別れの家族に会ったように泣いている。その泣き声が、やけに心を打った。

 それは、その涙が自分に向けられていたからかもしれない。姫月のことを想ってくれる涙。姫月のための涙。私に本当の家族がいたら、出会った時、こんな風に泣いてくれたのではないか。そんな気さえした。


 姫月は、剣を向けていられなくなった。姫月が、剣をタクマの首から地面へと下げた、まさにその時、タクマの目に映ったのは、姫月を狙った何者かの弾丸だった。

「姫様!!」

 考えるより先に、体が動いていた。咄嗟に姫月を庇い、凶弾に倒れる。

 腹部に開いた大きな風穴が、姫月との別れを物語っていた。

「なぜ、私を!?」

 タクマを抱き起し、無駄だと分かっていても回復魔法をかける。

 姫月は、本来ならば次の攻撃に備えるべきだったのかもしれない。しかし、タクマから目を離すことができなかった。

 縋るような目で、何かを伝えようとしているこの男を一人にできなかった。

 朦朧と消えゆく意識の中で、タクマは必至に口を動かす。

 あの時、言えなかったことを、今度こそ伝えなくてはならない。もう二度と、同じ思いはしたくない。

「姫様……お慕え申し上げております……永遠に……永遠に。どこまでも……お伴いたします……。今度こそ、今度こそ……共に生きることを……お許し……頂けますか……?」

 姫月は、タクマの言う意味がわからなかった。わかるはずもなかった。しかし、口から血を吐く中で、ようやく絞り出せた今際の言葉。戯言のはずがない。タクマの心の叫びだとわかっていた。

「ええ、タクマ。今までありがとう。本当にありがとう。これからはずっと一緒よ」

 なぜかそんな台詞が出た。別に求められた言葉を選んだわけではない。それこそ誰かが自分に乗り移っているように、自然と出た言葉だった。

 タクマは再び泣き顔を作った。喜びの顔だ。もう声を出すことはできそうにない。それでも、積年の想いを果たし終え、幸せを噛みしめているのがわかる。

 願いが叶ったのだ。これ以上、一体何を望めばいいというのか。そんな満足げな表情になっている。

―約束……ですよ……。

 そう聞こえた気がした。だから返事をした。

「ええ、約束ね」

 タクマは微笑みながら、ゆっくりと目を閉じていった。

―これほど最高の人生はない。仕えるべき主君の下で。敬愛する姫様の胸の中で…………生を全うできたのだから。

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