002
ニコルは、男子寮を出た後、校舎の校門で人を待っていた。短く整えた緑の髪を掻き揚げ、黒縁の伊達眼鏡の位置を人差し指で直すと、花束をその手に持ち替える。
白を基調としたブレザータイプの制服。青いラインが入っているのが現二年生にあたる。といっても、この校舎には一年生と三年生は存在しない。
一年生は、導入教育のため、そして三年生は実習のため、来季まで聖教会のある首都キエフにいる。そのために、教員も最低限しか残っておらず、二年生にとってもっとも羽を伸ばせる季節だった。
首都からやや離れた山奥にあるこの学院は、鬱蒼とした暗い森に囲まれている。巨大に聳え立った常緑樹の隙間を縫うように、濃霧の帳が下ろされており、学園を白き闇の鳥籠と評することもある。しかし、校舎と寄宿舎のある小高い山頂部分は、蒼空が開け、下界から隔絶された澄み切った空気に満ちていた。
灰色がかった乳白色の石壁に、八角形の円蓋を備えたエメラルドグリーンの屋根。一際目立つ、大きな鐘を掲げた塔を中心に形成された、聖教会のための一大教育機関。それが、この聖アルビオン学院である。
「ニコル様。御機嫌よう」
金髪の毛を軽くカールさせた少女が話しかけてくる。彼女の後ろに控えた、水色の髪をお下げにしている、背の低い少女も、目線を合わせぬまま頭を下げた。
「これはマチルダさん、おはようございます。今日もお綺麗ですね。ファムさんもお元気そうで何よりです」
マチルダは司教科、そのルームメイトのファムは異端審問科に所属している。
「相変わらずお上手ですね。あら……?」
マチルダはニコルが背に隠した花束を見逃さなかった。
「どうか……されましたか?」
「まぁ、素敵なお花。婚約者であるこのわたくしにプレゼントですの?」
「え……ば、ばれてしまいましたか。あなたの美しさには叶いませんが、受け取って頂けますか?」
ニコルは若干目を泳がせた後、気を取り直して跪き、花束を差し出した。
「喜んで」
マチルダはスカートの両端を摘まむと、軽く膝を曲げて微笑んだ。
やむを得ず、花束を渡したニコルに対して、ファムがそっと呟いた。
「…姫月さん……実用的な物の方が……喜びますよ……」
考えを見透かされたあげく、相変わらず目を合わそうとしないファムに対して、多少屈辱的な感情を抱いたが、助言は助言として素直に受け取ることにした。
将を射らんと欲すれば先ず馬を射よ、の言葉通り外堀を埋めることが肝心。友人達の評価というのも、大事にしなくてはならない。
「ファム。何をしているの。早くいらっしゃい」
マチルダはニコルに深々とお辞儀をし、ファムを連れて校舎へ入っていった。
遠目にその様子を見ていた姫月は、視界に入っていたというだけで特に気に止めるでもなく、そのまま通り過ぎるつもりで歩いていた。
「姫月さん、おはようございます。今日はお一人ですか」
「ええ、おはようニコル。シェリーは寝坊よ。夜更かししたせいでしょうね」
「夜更かしですか。なるほど、確か異端審問科は、今日から実技の訓練でしたね。興奮して眠れなかったのでしょう」
「だと思うわ。全く子供なんだから」
姫月は、やれやれと言わんばかりに呆れた顔をしてみせた。
「ところで、姫月さん……」
ニコルが質問をしようとしたとき、姫月の背後に立った男が、姫月のスカートをめくり上げた。
「相変わらず貧相なケツをしているな。しかも一昨日と同じ下着じゃないか。金がないのか? 恵んでやってもいいぞ」
髪を逆立て、制服を着崩し、胸元を開けたその男子生徒に対して、姫月は特に動じる様子もなく、振り返ってから手を出した。
「……くれると言うならもらっとくけど」
差し出した手の平を、閉じたり開いたりしながら催促する。
「お、お前にはプライドってもんがねぇのかよ」
「こんな奴を相手にするのはやめて下さい姫月さん。パンティなら僕が買ってプレゼントしますから」
「女にパンツ買ってやるなんて、どんだけ変態なんだよ、お前は」
「君には言われたくないな。自分が品性の欠片もないことに、気づいてないのかな」
姫月は半分冗談のつもりだったのだが、思いのほか男性陣の反応が良くなかった。
それどころか、下着を見られた当人を他所に、二人で言い合いの喧嘩を始める始末。
互いの胸元をつかみ合い、罵り合いの内容も、姫月とは無関係の方向へ進んでいた。
「随分な言いぐさじゃないか、臆病者のニコル君。自分の立場が分かってないんじゃないのか」
「それは、どういう意味でしょう? 野蛮なギルメロイ君」
「だって、そうだろ。騎士科なんて、実戦に出る勇気のない臆病者が行く場所だ。儀礼用の剣を持って、教会の片隅に突っ立ってるだけの仕事をしたいなんて甘ちゃんが、前線で命を張ろうっていう俺様に対して、生意気な口を利いてるんだ。そう思われても仕方がないだろう」
「……実戦に出たこともない君が、もう一人前のつもりですか。笑えますね」
「何だと……」
「いい加減にして!」
ギルメロイの表情が険しくなったところで、制止した。
「ギルメロイ。毎度毎度、私の邪魔をするけど、それも今日で終わりにしてもらいたいものだわ」
二人の喧嘩の原因が、いまいちよくわからなかった。売り言葉に買い言葉で、エスカレートした程度のものなのか、いい加減うんざりさせられる。
「よし、いいだろう、姫月。お前に突っかかるのは、今日で終わりにしてやる」
「本当? 嬉しいわー」
姫月は、無表情で答えると、そのまま校舎に入ろうとした。
「おいっ! ちょっと待て! 話はまだ終わってない!」
ギルメロイが慌てて、姫月の肩を掴んだ。そのことにニコルが抗議の声を上げていたが、兎に角さっさと終わりにして欲しい。
「いいか、姫月。異端審問官の世界は実力主義だ。今日の実技で、勝った方が負けた方の言うことを聞くってことでどうだ?」
「……面白そうね。私が勝ったら、あなたは私に、ちょっかいを出さない。そういうことね?」
「その通り。で、俺が勝ったら……」
ギルメロイは、少し言葉を詰まらせた後、鼻を掻きつつ明後日の方向を向きながら言葉を続けた。
「俺が勝ったら…………主従契約を結んで貰う」
横目で、姫月の表情を確認する。姫月は小首を傾げていた。
「……私が主で、あなたが従者?」
「違う!! 俺が主に決まってるだろ!!」
ギルメロイが全力で否定した。
「冗談よ。別にそれでいいわ。約束ね」
事も無げに安請け合いをしたような口ぶりだった。
「ほ、本当にいいんだな。あ、後で撤回できねぇぞ。もう決まりだからな!!」
言うだけ言うと、ギルメロイは走り去る。
ようやく解放されたことに、溜息を零すも、まだ、横には石化したように硬直したままのニコルが残っていた。
「本気ですか? 今からでも遅くはありません。試合を取り消して下さい! 主従契約なんて、ただの奴隷契約ですよ! 何を命令されても文句は言えません。わかっているのですか?」
正気に戻ったニコルは、姫月の両肩を揺さぶりながら、必死に懇願する。
「そうです! 今のうちに僕と主従契約を結ぶといい。そうすれば僕らの契約が優先されて、後から結ぶ契約は無効になります。名案だ」
ニコルは、姫月に同意を求めるように、自分で何度も頷いてみせた。
「それは、私にあなたの奴隷になれって意味かしら?」
皮肉交じりに冷たく言い放つ。
「そんな訳がない! もちろん、試合が終わったら契約を解除しますから」
「本気で言ってるの? 主人の方からしか解除できないのに、あなたとのそんな口約束が信用できると思う?」
「……僕を信じられないんですか? 僕はあなたのためをおも……」
最後まで言い終える前に、姫月の質問が飛ぶ。
「ねぇ、貴族のあなたには、確か二人の主従契約者がいたわよね。なぜ、彼らを解放してあげないの?」
「それは……」
ニコルは返答に詰まった。考えてもみなかったが、考えるまでもないこと。自分の財産を手放す算段をする意味はない。
しかし、姫月にそう答えるわけには、いかない気がした。
「ありがとうニコル。今のは冗談よ。あなたの気持ちは嬉しいわ。でも大丈夫。私には秘策があるの」
「秘策……ですか?」
「ええ」
姫月は微笑むと、踵を返して教室に向かった。




