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016

 五階。それは、学院の最上階。普段は訪れることのない階段の終着点。 

 見上げると、八角形の円蓋に、星形の珊瑚礁を敷き詰めたような、鍾乳石飾りが施されている。舞い振る雪が空中で静止したような、あるいは霜で出来た氷柱が何層にも重なりあっているような、壮麗な空間が開けていた。透かし彫りの窓から入る淡い光が、この装飾を仄かに照らすことで、その幻想さを一層引き立てている。

 本来なら三年生のいるフロアになるが、彼らが首都で研修中ということもあり、今は誰もいない。

 姫月は、ファムの後ろについて、そのまま白大理石の廊下を進んで行った。

 この廊下は、片側が一面存在しない。正確には、透過する壁で出来ており、外から見るとただの石壁でも、中から見ると、外の世界を一望できるようになっている。最上階からの眺めは最高で、今日のように霧が深く、下界の森がすっぽりと覆われているような日は、まるで空の上にいるような気分になる。

 まだ日は高いが、これが夕暮れともなれば、霧も雲も廊下も、今見渡せる全てが琥珀色に包まれて、さぞ綺麗だろう。


「姫月さん、着きましたよ」

 気付けば、廊下の突き当りにある、一番奥の部屋の前まで来ていた。

 ファムがポケットから鍵を取り出し、鍵穴に入れる。

「マリア先生に頼んで……使われてない教室を貸してもらったんです」

 中に入ると、一対のソファーとテーブル、そしてその上に置かれた紙の箱が目についた。文様の入った赤いカーペットが敷かれているところをみると、昔は応接室か何かだったのだろう。部屋の隅に、使われなくなった甲冑や、武具、取り外された絵画などが追いやられており、今では物置と化していることがわかる。

「ここは、三年生の溜まり場として使わているみたいなんですが……今はいませんし、遠慮することないですよ。お茶を淹れるので、どうぞ座って下さい」

 ファムが呪文を唱えると、ティーポットが宙に浮かび、また唱えると、今度はポットの中に水が満たされる。そして、さらに唱えると、空中に浮かんだまま炎で熱せられ始めた。その状態で放置したまま、お茶の葉を探すため、部屋の棚を漁りだす。相変わらず見事なものだと感心した。

 ソファーに座り、辺りを見渡すと、埃が溜まっている様子がない。普段からそれなりに掃除をしているようだ。

「ファムとシェリーは、ここが初めてじゃないの?」

「私は二回目なんですが……、シェリーさんは勝手に利用していたみたいです……その……人が来ないので……」

 シェリーに化けたフォックスがデートに利用していたのか、それともフォックスが活動している間、シェリーが隠れるために利用していたのか、前者だとするとあまり想像したくない。

「で、でも……今回はちゃんと許可を取ってますから……安心して下さい」

 紅茶を作り終えたファムは、向かい合って座ると、ティーカップを姫月に差し出して、テーブルの上に置かれた箱を開ける。

 中には、アップルパイが入っていた。まるで出来立てのように艶やかで香ばしい。

「美味しそうね。これ、どうしたの?」

「これは……シェリーさんが、今日のパーティー用に所望されたので……私が頑張って作りました」

 ファムは苦笑いして見せた。恐らく放課後、魔法で作り、魔法で保存していたのだろう。

「すごいわ。とても真似できない」

「姫月さんに褒められると……照れてしまいます。姫月さんは……私の憧れですから……。運動ができて……格好よくて……それに強いです……心も……体も……」

 ファムは、はにかんだ。照れるのはこちらの方だと思いつつ、紅茶に手を伸ばす。つられてファムも紅茶に手を伸ばした。

 互いになぜか気恥ずかしく、会話が弾まない。

「シェリー、中々来ないわね」

「……そ、そうですね……」

 しかし、来るはずがない。姫月にはそれがわかっていた。それは、単にギルメロイをジェイド先生に引き渡して、すぐ返してもらえるはずがない、というだけの理由ではなかった。

「仕方がないわね。先に二人で始めてましょうか」

「じゃあ、私が切りますね……」

 ファムはミスリルダガーを取り出すと、炎で消毒してから、アップルパイに切り込みを入れる。

「ねぇ、ファム。事件は全て解決したと思う?」

 姫月は口に運んだカップを、テーブルの上に戻した。

「え……どういう意味ですか? 解決……しましたよね?」

 ファムは不思議そうに小首を傾げた。

「ギルメロイが失踪事件に関わっているとは、とても思えない」

「それは……そうかもしれませんけど、そもそも窃盗事件と失踪事件は無関係な気がします……」

「それは違うわ」

 姫月は、確信に満ちた眼差しを向ける。

「……聞かせて下さい。姫月さんの考えを」

 ファムは、切り分けたアップルパイを姫月に差し出す。姫月は、それをフォークで崩しながら語り出した。

「恐らくだけど、ギルメロイが盗んだ媚薬の量は、無くなった量に及ばないはず。他にも盗んだ人がいたはずよ。そもそも、普通の生徒にジェイド先生の結界を破ることなんてできるはずがないもの。だから、こう考えてみてはどうかしら。ギルメロイが盗むことができたのは、既に結界が破られた後だったから」

「外部……いえ、先生の中に犯人がいると?」

「そのことについては後で、述べるわ」

「……」

「失踪事件と魔獣惨殺事件を解決するに当たって、私達は先入観を捨てないといけない。私たちは最初に媚薬って聞いていたから、人間に対して使うものだと思い込んでいたけど、あの精神を支配する力は、人間以外にも使えるんじゃないかしら。そう、例えば……」

「魔獣……ですか?」

「ええ、そうよ。魔獣を支配する薬。だとすれば非常に強力な武器になる。だから、犯人は実験してみたのよ。魔獣を実際に操れるかどうか」

「面白い推理ですね……でも、そう簡単に実験はできませんよ。学院の周りに魔獣が出ること自体、稀なことですから……。偶然目の前まで魔獣が来てくれたっていうんですか?」

「それについては、あなたが以前、推理していたでしょう。偶然現れたんじゃなくて、誰かが召喚したんじゃないかって」

「……そう言えば、そうですね。だとすれば、失踪があったあの夜。デバイスが魔法の干渉を受けたことも説明がつく……というわけですね」

「いえ、違うわ」

 否定されたことに対して、ファムの体が驚きを示した。理解できない様子で、姫月を見つめ返す。

「どう違うんですか? デバイスは魔法の干渉を受けたんじゃないんですか?」

「それを説明する前に、失踪事件の方を明らかにしないといけないわ。犯人は、薬の効果を試すために魔獣を召喚しようと考えた。強力すぎる魔物は危険だし、何よりも準備が足りない。かといって弱い魔物を召喚しても、薬の効果が確認できない。そこで、その中間ぐらいで折り合いをつけたのでしょう。そして、召喚には供物を用いる場合がある……。授業で習ったわよね。ある程度の力を持った魔物の召喚ともなれば猶更必要になるはずよ」

「……まさか……いなくなった男の子って……生け贄にされたんですか?」

「召喚があった日に消えた。ということはつまり、そういうことでしょう」

「酷過ぎます……」

 ファムは辛そうに顔をしかめる。

「多分、その男子にも薬を飲ませていたはず。だから、全てが上手くいった」

「なるほど……。あ……で、でも、ちょっと待って下さい。薬は変ですよ。だって、あの夜……そんな様子じゃなかったですよ?」

「ねぇ、ファム。あの夜のこと、どの位覚えてる?」

「男の子達が言い争っていたこと……ぐらいでしょうか……」

「そうね。確かにそう聞こえた。でも、それは嘘。もしかしたら本当に言い争いがあったかもしれないけど、多分あれは後から作られたものだわ。ジェイド先生が言っていたように信用できない」

「……でも、何のために偽造したのか、理由がわからないって……」

「この事件の核が魔獣の召喚にあるのなら、簡単なことよ。アリバイ作りと、捜査の攪乱。これしかないわ。犯人は男子生徒が言い争っている、という誤認をさせるためにあの声を作った。さらに、自分には犯行が不可能であったことを演出するために、時刻をずらして声を流した」

「どうしてアリバイが必要なんです? こっそりと実行するだけで済むのに……」

 ファムは納得できない様子で、紅茶をかき混ぜる。

「召喚魔法を行ったことが、ばれたときのためでしょう。人間を生け贄とした召喚魔法は禁呪の指定を受けている。行使しただけで死刑もあり得る。何より、これほど高度な魔法が使える可能性がある者は、ごく少数しかこの学院には存在しない」

「……誰ですか?」

 姫月はファムの質問に答えず続けた。

「だから、犯人はアリバイを作るためにデバイスで呼びかけ続けた。応答が無いなら無いで諦めたかもしれない。でも、私が反応してしまった……。後は犯人の思い描いた通りに進む。誤算だったのは、ジェイド先生が生徒全員を異端審問にかけるという暴挙に出ようとしたこと。このままでは自分もばれてしまうかもしれない。そこで、媚薬を使い、犯人をでっち上げることにした。まぁ、でもギルメロイが実際に盗んでいたのか、犯人に命じられて役割を演じたのかはわからない。シェリーがギルメロイに自白させていたから、本当に犯人だったのかもしれない。結界が何者かによって解かれていたところ、たまたま私との戦闘で傷を負ったギルメロイが、棚から薬をくすねた。そして、保健室利用者が呼び出されたあと、ジェイド先生の説明によって、自分が盗んだ薬が媚薬だと知った。可能性は十分にあるわ。とにかく肝心なことは……ギルメロイを自白させたシェリーも、犯人によって操られていたということ。その証拠に、いくら待ってもシェリーは来ない。自分からこの部屋を指定していたのにね……。シェリーとギルメロイは、まだ職員室にすら辿り着けていないんじゃない?」

 ファムは黙ったまま、反応を示さなかった。暗く俯いたまま、うな垂れている。

「ファム……犯人はあなたね。この紅茶の中に薬を入れてるんでしょう? それにアップルパイにも」 

「へ、変なことを言わないで下さいよ……。なんで私が……姫月さんに薬を飲ませないといけないんですか?」

「私を魔獣召喚の生け贄に使うために。そして、この絨毯の下には既に魔法陣が用意されていて、いつでも私を生け贄にできるよう準備が整えられている。違う? 違うのなら、私の紅茶を飲んでみて」

 姫月は、ファムに紅茶を差し出した。しかし、ファムは、じっとしたまま動こうとしない。何かを考えているのは、よくわかる。それは、良からぬことかもしれない。姫月は、内心緊張していた。ファムが犯人だという確信はある。だが、犯人だとわかったところで、これからどう展開するかは予測できない。最悪……、ファムと殺し合いを演じることになる。

 ファムは、ゆっくりと息を吐いた。それは長い長い息だった。体の中に溜まったものを全て吐き出すような息だった。

「姫月さんには……ばれてる気がしてました。だって……全然、紅茶の量が減ってないんだもん……」 

 寂しげに笑ってみせる。見ているこちらが痛々しい、精一杯の無理した笑顔。

「なぜ、私を生け贄に選んだのか教えてくれる?」

 姫月は、じっとファムの目を見た。いつもは目を反らすファムも、その時だけは姫月を見ていた。

「姫月さんは……自分が思っている以上に、魔力に満ちた存在です。……いえ、ちょっと違うかも……まるで、魔力を溜めるための器みたい。そう……決して満たされることのない大きな器……」

 なのに、魔法が苦手なんて勿体ないですよ、と微笑んだ。褒めてくれているのだろう。しかし、今の姫月にとって大事なことは別にある。どうしても、これだけは確認しないといけない。

「ファム……これからどうするの? 私を殺す? それとも、出頭する?」

「異端審問会に……出頭したら……どうなると思いますか?」

 言わなくても、分かること。拷問にかけられて殺されるだけ。

「マリア先生や、ジェイド先生に頼めば、もしかしたら……」

 ファムは、ゆっくりと首を横に振った。

「姫月さん……。マリア先生もジェイド先生も、信用しない方がいいですよ……」

 そう言い終えた瞬間、部屋の中で突風が舞った。轟音の中、机も椅子も棚もカーペットも、部屋の中の物が一切合切、天井に巻き上げられ、旋回をしている。

 姫月は、椅子が浮かんだ衝撃で、後方にひっくり返された。身動きが取れぬまま、そのまま身を低くして事態を見守ることしかできない。

「ファム! 何をする気!」

 床に隠されていた魔法陣が、赤黒い光を放ち、雷にも似た閃光が部屋の中を駆け巡る。

 ファムはそんな状況を意に返さない様子で、悠然と静かに歩く。魔法陣の中央で止まり、ミスリルダガーを高く掲げた。眩い光がダガーに集まっていく。

 ファムは何かをしゃべっているようだった。しかし、嵐のような風の音に遮られ、口を動かしている様子しか見て取れない。

 呪文を唱えているようでいて、姫月に何かを懇願しているような、悲しみの表情。

「ファム! やめて!」

 聞こえないとわかっていても、叫ぶことしかできない。

 互いに声無き口を開きあっていた、丁度その時、世界から音が消えた。消えた気がした。

 こんなにも荒れ狂う、野分き立った状況で、聞こえるはずのないファムの声が聞こえたからだ。

「姫月さん……助けて……お願い……」

 涙を浮かべ、こちらに手を伸ばす。あまりにも遠く、掴むことのできない手。ファムはこちらに歩み寄ろうとするが、その場で躓くように倒れてしまう。どうやら、魔法陣に拘束されているらしい。その場から這って出ようと必死にもがいている。

 姫月も助けてやりたかった。立っていられない程の強風の中、無理に身を起こし、無駄だとわかっていても手を伸ばす。前へ進む。旋回する何かが、姫月の顔面を強打するが痛がっている暇はない。口の中に溜まった血を吐き出すと、再び前進を試みる。しかし、もはや手遅れだった。

「おべがび…びめづぎ……ざん」

 顔の形が歪に曲がり、もはや原型を留めていない。

 手足があり得ない方向に曲がり始め、砕ける骨の音が聞こえてくるようだった。

 普通なら目を背けたくなる光景。だが、逸らすわけにはいかない。苦しんでいるファムの姿から逃げるわけにはいかなかった。ファムの名を呼び、なお、手を伸ばし続ける。

「ダズゲ……ゲェ」

 ファムは、口から緑色の液体を大量に吐き出すと、白目を剥いて反り返る。そして、痙攣を繰り返しながら、体を何倍にも膨らませ……破裂した。

 破裂した瞬間、泥の塊のような醜い生物が姿を現した。体には数百とも思える無数の目を宿し、その中央には、人間を丸呑みできる巨大な口がある。そして、鞭のように長く撓った触手を彼方此方に生やしていた。

―これが、召喚魔法……。

 考える間もなく、化け物は耳をつんざく奇声を上げ、突然暴れ出す。部屋の床が捲り上がるように崩れ落ち、姫月は化け物と一緒に落下した。

 部屋の真下にあるのは、全校生徒が入れるだけの広さを持った礼拝堂。一階から四階までの空間を惜しみなく使った学院最大の部屋。五階相当の高さから一階まで落ちれば、当然無事では済まない。落ち行く姫月の目には、入口から主祭壇まで伸びる長い通路、そしてその両脇を埋め尽つくした長椅子、主祭壇にある説教のための演台に、その背後に聳えるパイプオルガン、さらにはこの空間を支えている六本の巨大な柱、この礼拝堂の全てが映っていた。


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