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ジェイド先生とタクマ先生の会話通り、クラスでは男子が一人欠席していた。マリア先生は、朝礼に遅刻した姫月とシェリーを叱る以外に、特段何も言わなかったが、既に失踪の噂は広まっていた。仮に脱走したとしても、あの広大な森を一人で抜けるのは自殺行為。寮生活からの逃亡が偶にあることだとしても、現実的とは思えない。何よりも昨日の言い争い。何かトラブルがあったのは事実だろう。もし、喧嘩の片割れが失踪に関与しているというのなら、その犯人がこのクラスの中にいることになる。そう考えると、授業に集中できるはずもない。しかし、そんな時に限って、今日のジェイド先生の講義はやけに熱が入っていた。自分の専門分野の箇所だけ、やたら張り切る教師というのは、どこにでもいるものだが、ジェイド先生の専門はそもそも歴史ではない。魔法技術に関する何かである。単に好きなのだろうか、と姫月は思った。生徒達にとって迷惑以外の何者でもなく、普段怠けている人間が張り切ると、ろくなことがないという実例のようであった。
その講義内容は、東方征伐。今から十数年前に起きた大規模な戦乱。神の名の下に行われた宗教戦争。この国の神とは違う神を信仰している、ただ、それだけの理由で行われた戦い。もっとも、兵士たちの略奪と、占領後に行われた東方の豊富な資源を巡る有力者達の綱引きを見れば、それがただの名目であったことは明らかだった。この真実が正式な歴史として教えられるのに、後幾年の月日を待てばいいのか。破壊が進んだ東の地では、今なお戦争の傷跡が癒えることなく残され、貧困と圧政、そしていわれなき差別に喘いでいるというのに。
かくいう姫月自身、詳しくは聞かされていないものの、その戦争孤児だった。自分が拾われた時期的にそう推測できる。だからといって、今更、本当の父と母を探す気はなく、取り立てて東方に興味があるわけでもない。自分の母はアルテナ院長。それだけで十分だった。しかし、あえてそのことを意識するということは、やはり心のどこかに引っかかる物を持っているのか、と思えなくもない。
今日はやけに気が散る日だが、ジェイド先生の講義はそんな姫月を置いてどんどん進んでいく。
「この東の地は、シャーマンが治める国だった。巫女と呼ばれたシャーマンは、その身に異教の神を宿して、時には雨を降らし、そして時には戦場を駆け巡ったそうだ」
「あの……それは……召喚魔法とは違うのでしょうか……」
見ると、ファムが申し訳なさそうに挙手をして、質問をしていた。いつも目立たないようにしているファムにしては、珍しい光景だ。
「いい質問だ。さすが魔術科目成績トップのことだけはある。目の付け所が違う」
ジェイド先生の褒め言葉に、背の低いファムはますます縮んでいくようだった。
「召喚魔法というのは、基本的に人非ざる者を異界から呼び寄せるものだ。術者が自ら使役するために呼ぶ。場合によっては供物を捧げなければならない。これに対し、巫女と呼ばれるシャーマンは、その身に神を下ろすのだそうだ」
神という言葉に、一部の生徒が反応し、教室がざわついた。
「神といっても、我々の神とは異なる。要するに異端者の信仰する何かだ。特に、東の地では万物に神が宿ると考えられており、人の標準から離れた存在であれば何でも神として崇めていた節がある」
この発言に教室に笑いが起きた。あまりにも稚拙な考え。そう思ったのだろう。姫月は、そのことに対して評価を下せるわけもなく、ただその様子を冷静に眺めていた。
「いずれにせよ、異端者であることには違いない。先代の巫女は、首を刎ねられ、三日三晩城外に晒されたそうだ」
教室の笑いがやむことは無かった。都会に住む者と田舎にいた自分の差だろうか。それとも、自分の環境だけ違ったのか。アルテナ院長は異端審問官であった割に、信仰に対する教育がそれほど熱心ではなかった。院長が、東方征伐の責任者を務めるほど、深くその信仰の維持に関わっていたというのなら、猶更不思議なことのように思える。クラスの様子を見ていると、シェリーやファムのように笑わない者も幾人かおり、姫月は自分一人でないことに安心を覚えた。クラスの雰囲気に一人だけ取り残されていたとしたら、それはちょっとした恐怖だろう。
「先生。その巫女と同じ力を持った者は、もう存在しないんですか?」
生徒の誰かが質問した。
「なんでも、結婚すると巫女の力を失うらしい。先代が未だ巫女であったということは、子がいなかったということの証左である。よって完全に失われた力だ。非常に残念だよ。調べたいことが山程あったからね」
「先生は、実際に東の国に行ったことはあるんですか?」
また、別の生徒が質問する。
「もちろんだとも。この巫女に会ったことだってある」
再び教室がざわついた。今度は歓声にも似た驚きの声だった。
「どんな人だったんですか?」
「そうだな……年齢的には君たちとそう変わらないぐらいだろう。それでも幼さは感じなかった。地位は人を作るというが、あの若さで国を治めていたことに敬意を覚えたものだ」
タクマ先生と話をしていたときは、東方を蔑んでいるような態度だったが、授業ではそれを感じさせない。ジェイド先生は、それからもいくつか生徒と質疑を重ね、ついに教室を揺るがす発言をする。
「授業とは関係ないんだが……」
そう前置きし、先生は最後の審判を下した。少なくとも、そう感じた生徒は存在した。
「実は、私の大事な私物が盗まれてしまってね。急いで解決しないと、色々不味い事態になる。そこで、手っ取り早く、近日中に諸君ら全員を異端審問にかける。といっても、正式なものではなく簡易的なものだ。何しろ、信仰に関する問題ではないのだから。騎士科の生徒から開始し、この異端審問科は最後になる。このクラスは三日後位になるだろう。魔法と薬を使って徹底的に自白させる。諸君らの抱える諸々の秘密が全て明るみに出るだろうが、心配することはない。私は口が堅い方だからね。そうそう、マリア先生の了解は既にとってあるから安心するように」
クラス中が静まり返った。あまりにも唐突な出来事に声が出ない。越権行為といっても過言ではないのに、誰一人として抗議の声を上げなかった。
それは、やましいところがあると思われることを、恐れてのことだったのかもしれない。誰かが先陣を切れば、全員後に続いただろう。しかし、そうすることは真っ先に疑えというようなもの。奇しくも異端審問の恐ろしさを実感させられる。
犯人でなくとも、人に知られたくない秘密の一つや二つ、あるものだ。クラスにいる誰もが、心の中を全て覗かれることに恐怖した。
「というわけで、嫌ならばすぐ返却するように」
ジェイド先生は、終了の鐘が鳴る前に、教室から出て行ってしまった。




