001
静かなる吐息が、蝋燭の光を揺らめかせる。
少女は、鏡面のように磨き上げられた白銀の短剣を、両手でそっと抱きしめた。
柄の宝飾を優しく撫でながら、黒く長い自身の髪と、茶色の瞳を反射させるその剣先を眺め続ける。
「姫月……ヒ~メ~ヅ~キ~ってば!」
「え!? シェリー、どうかしたの?」
「どうかしたのじゃないわよ。もう寝たいんだから、いい加減、明かりを消してくれない? 嬉しいのはわかるけど、ルームメイトの存在を忘れてもらっちゃ困るわ」
埃臭い部屋の片隅に置かれた木のベッド。その中から、呆れた声が聞こえてくる。
「ああ、御免なさい。でも、もう少し待って」
姫月は、同居人に背を向けたまま、眠れるわけがない、と心の中で呟いた。
この剣を受け取って、まだ半日も経っていない。
「明日から、実技を始めます」
授業の終わりに、そう告げたのは、黒い修道服に身を包んだ担任のマリア先生だった。待ちに待った訓練の開始。
配られた短剣には一人一人の名前と、それぞれの印章が刻印されていた。
聖教会付属のこの学院は、大きく三つのクラスに分かれている。一つは、教会の騎士となるための騎士科。もう一つは、教会の教えを広めるための司教科、そして、その二つの中間に位置づけられる異端審問科。姫月とシェリーが所属するのは、この異端審問科だった。
異端審問科は、聖教会と相容れないものを排斥する、異端審問官になるためのクラス。だが、敵は異教徒だけではない。神に仇なす異形の存在を抹殺することも目的としている。
姫月は、どちらかというと信仰心がある方ではなかった。それでも、この異端審問科へ進んだのには理由がある。
姫月=アルテナは、孤児院の出だった。爵位を持たぬ者にとって、聖教会内の役職につくことができる唯一の道。それは異端審問官になること。
ここでの学業の成果。特にこれから始まる実技の成績が、人生の全てを左右することになる。少なくとも、姫月はそう考えていた。
姫月は、短剣を脇に置くと、机の引き出しから一通の手紙を取り出した。差出人は、自身にとって親同然の存在である、孤児院のアルテナ院長。
月に一度送られてくるその手紙を、何度も眺めるのが日課だった。
泣き虫のサリサが一人で服を着られるようになったとか、弱虫のヨハンが木に登ったまま降りられなくなったとか、そんな他愛もないことばかり。
励ましの言葉も健康を気遣う言葉も載っていない、事務報告的な内容。それでもアルテナ院長や兄弟姉妹達の愛情が伝わってくる。
古い手紙と読み比べれば、一緒に過ごしていた頃のように、彼らの成長が手に取るようにわかった。
最近、気になったことと言えば、幼い頃から何かと姫月にちょっかいを出していた勉強嫌いのリビー=ヴァイアス。彼がこの学院への入学のために、必死に勉強をしていることだ。
よくアルテナ院長に、好きな子にちょっかいを出すと大人になってから後悔するわよ、と嗜められ、顔を真っ赤にして暴れ狂っていた。
そんな彼が、幼い子供たちの面倒を見ながら、寝る間を惜しんで勉強しているなんて、想像できないことだ。
何が彼をそうさせるのか、不思議に思いつつ、自分は自分、彼は彼と言い聞かせ、机の下から短剣を磨くための『初めての魔法合金研磨セット』を取り出した。
この日のために、予め町で買っておいたもの。お金のない姫月にとって、唯一に近い私物である。
―これであなたもピッカピカ!
意味不明な商品のキャッチコピーを反芻しつつ、鼻歌でも歌い出しそうな嬉々とした手つきで、道具を一つずつ取り分けていく。新品なので磨く必要は全くないのだが、買っておいた以上、どうしても使って見たかった。
「イイ加減ニシロ……」
怒りを通りこしたような、地を這う声。姫月の眼前に白みを帯びた金色の糸が、天井から降り注いでいた。顔を上げ、よくよく見ると、いつの間にかベッドから這い出したシェリーが、姫月の横から頭を垂れて、充血した目を見開いたまま覗き込んでいる。青いはずの瞳からは光が失われ、黒い感情を宿していた。
「あらシェリー。どうかしたの?」
姫月は微笑んだ。
「ドウカシタノ……じゃないわよ!!」
シェリーは、姫月の両脇から腕を滑り込ませると、後ろから胸を鷲掴みにした。指先で先端を探りつつ、両手で波打つように揉みしだく。
「ひゃっ、え、ちょ、やめてよ」
突然のことに驚くも、両手は二種類の研石で埋まっている。せっかく買った道具を、ここで落として割ってしまうわけにはいかない。
姫月は両手を掲げたまま、顔を紅潮させて必死に耐える。体を小刻みにくねらせ、ささやかな抵抗をするのが精々のこと。ほとんど無抵抗に近い形で、されるがままにしていた。
「罰金よ! 罰金! 金がないならその体で払って貰おうじゃないの!」
「や、やめ、やめてって……」
人肌の温かさを服越しに感じつつ、姫月の吐息に合わせて、弾力を産んでいく。
「いいじゃないの、減るもんじゃないし。どうせ私たち神の御子は結婚できないんだから、こうやって同性同士で楽しまないとね」
「なんで、そうなるのよ!」
「えー、でも、この前、騎士科の男の子達が撫で合いながら、草叢でくんずほぐれつ最後までしてたよ」
シェリーは、姫月の肩に頭を乗せ、頬を擦り付けた。
「最後までって、どこまでよ!」
「ええい、それを私の口から言わせる気ね!」
再び、シェリーの手に力がこもる。もはや握力のトレーニングを始めたとしか思えない程の高速運動だった。
「言わなくていいから、手をどけて!!!」
姫月が、砥石をようやく置き終える頃には、二人とも体力の限界を迎えていた。激しいマット運動を終えた後のような脱力感。
息も絶え絶え机に突っ伏した姫月の上に、シェリーはぐったりと覆い被さった。
「……フフ、朝まで……寝かさない……ぞ」
「おかげ様で……もぅ、いつでも寝れる位疲れたわよ」
シェリーは、寄り添いながら、机の上に伸ばされた姫月の手を見つめていた。
下にいる姫月が呼吸をする度に、体が持ち上げられるようで心地良かった。自然と二人の息が重なっていく。
シェリーは、その白い人差し指で、姫月の首筋をゆっくり撫でる。首の前まで進んでみると、細身な体の骨ばった薄皮へ行き当たった。吸い付くような肌の滑らかさと鎖骨部分の強張りを、確認するかのように、何度も指を往復させる。そして、最後の往復と同時に、服の隙間から、腕ごと膨よかな胸元へ滑り込ませた。先ほどの運動のせいか、服の中は熱気に包まれており、肌に纏わるしっとりとした汗が、その温もりを奪っていく。
「美味しそう……。本当に……食べたくなってきちゃった」
「好きなだけ食べていいわよ~」
姫月は、ほとんど投げやりな気分になっていた。剣を受領した興奮はどこへやら。ベッドが恋しくて仕方ない。シェリーの作戦勝ちになってしまったような、どうにも釈然としない気分だった。
「じゃあ、頂きます」
姫月の、さらりとした艶やかな黒髪を掬っては、脇に垂らしていく。そんな動作を何度か続けて、うなじを顕わにさせた。
そして、舌を伸ばし、徐々に近づける。舌の先端が、柔肌に触れた瞬間、むしゃぶりつくように一気に舐め上げた。
姫月は言葉にならない叫びを上げると、体を起こした。
「今の何!?」
湿り気を帯びた、ざらついた感触。首筋にまだ熱が残っている。
「何でもないって」
シェリーは再び、姫月を机の上に押し付けると。音を立てながら、舌で首筋を舐め始めた。汗ばんだ肌の味。静謐な室内に舌を転がす音だけが響いている。
「変なことしないでよ」
「わかってるって、食べるだけだから」
不明瞭な応答に溜息をつきつつ、姫月はふと、粗雑に転がった剣を見た。そして、悪寒が走った。剣に映ったシェリーの目。暗闇の中で、シェリーの瞳が獣のように鋭い光芒を放っている。
「シェ……」
振り返ろうとしたその時、先ほど以上の悪寒が背筋を凍らせた。
それは、遠くで聞こえた、ほんの僅かな物音だったかもしれない。しかし、殺気といえるほどの気配が、確かに放たれていた。
シェリーと共に、互いのベッドへ急いで飛び込む。
廊下の奥から、床の軋みが近づいてきた。
一歩、また一歩。その音は段々と大きくなり、二人の部屋の扉の前で止まった。
鍵穴を荒らす不快な調べ。扉がゆっくりと開いていった。
二人は息を殺して、立ち去るのを待っているのに、それは部屋の中に入ってきたまま動かない。
様子のわからないベッドの中では、気配だけが頼りだった。しかし、そこに立っているという存在感があるだけで、実際のところはわからない。もう立ち去っているのではないかと疑心暗鬼になりかけたとき、ようやく扉の閉まる音が聞こえた。
足音が遠ざかるのを確認してから、シェリーが口を開く。
「もぅ、姫月のせいで寮長先生に怒られるところだったじゃない」
「どの口が言うのよ! あなたが、あんなことをするからでしょう」
「姫月がさっさと寝てくれれば、問題なかったと思うなぁー」
言われてみると、自分自身にも非があったかもしれない。ただ、やはり釈然としないものがある。
何よりも、迷惑をかけている回数で言えば、シェリーの方が明らかに多い。
「あなたが、普段部屋を空けているとき、誰が誤魔化しているのか忘れているようね」
自分の存在というありがたみを噛みしめて欲しい、とまでは言わないが、少なくともお互い様のラインまで持っていきたい。
「だって、デートとか色々することあるしー」
「さっき結婚がどうとか言ってたのは、どこのどなたかしら」
シェリーに、姫月の意図が伝わる様子は無かった。
「神の御子じゃなくなれば結婚できるから、問題無し! この学院、貴族のボンボンとか多いから狙ってる子多いと思うよ。元修道女って肩書きが使えるのよね」
「呆れて物も言えないわ……」
「何? 妬いてるの?」
「……ばか」
姫月は、自分の手で首筋を拭った。先ほど見たシェリーの目のことを思い出す。しかし、所詮は薄暗い部屋でのこと。何かの見間違いに違いない。そんなことを考えている内に、意識が暗澹とした澱みの中へと引きずり込まれていった。




