第9話 風の来訪
2月2日
午前
その朝、町は白い靄に包まれていた。
冷え込みは強かったが、空の奥にかすかな明るさがあった。
まるで、遠くから新しい風が近づいてくるのを町全体が感じ取っているようだった。
広海は、庁舎の玄関前に立っていた。
手には来庁者用の名札と、小さな花束。
隣の水野が笑う。
「田嶋さん、まるで式典の受付みたいですよ。」
「いや、今日はちょっと特別です。」
玄関の自動ドアが開き、タクシーが止まった。
白いマフラーを巻いた女性が降りてくる。
林 明里。
深呼吸をひとつして、庁舎を見上げた。
「ようこそ。」
広海が歩み寄り、丁寧に頭を下げ花束を渡す。
「遠いところをありがとうございます。」
「いえ、こちらこそ。嬉しいお持て成しもありがとうございます。」と微笑む。
「……ここは空気が違いますね。音が少ない。」
「音が少ない、ですか?」
「はい。東京では、風の音が聞こえないんです。」
その言葉に、水野がふっと笑った。
「なるほど。ここは『風の聴こえる町』ですね。」
*
第2会議室。
机の上には「生涯共生信託モデル」第1次試案。
財務、福祉、建設など、プロジェクトチームの若手職員たちが顔を揃えていた。
林が入室すると、空気が一段引き締まる。
水野が前に出て言った。
「本日はお忙しい中ありがとうございます。
この町で進めている『ひきこもりの町構想』について、ご意見を伺えればと。」
林は一礼し、柔らかい声で答えた。
「こちらこそ。私はNPO『つながりの灯』の林 明里と申します。
東京で、ひきこもりや障がいを持つ方と一緒にカフェを運営しています。
支援というより、『関わり』を大切にしています。」
その一言で、会議室の緊張がふっ……とほどけた。
彼女の言葉には温度があった。
「この町の構想を聞いて、すぐに来ようと思いました。
仕組みづくりを『制度』ではなく『文化』として捉えている。
それが、とても珍しくて、素晴らしいことだと思います。」
「ありがとうございます。」
広海が答えた。
「ただ、現実には、信託や寄付の管理、運営の拠点など課題が山積みで……」
「拠点なら、空き家を使うのがいいですね。」
建設課の高瀬がメモを取りながら言った。
「町の地域おこし協力隊に、空き家改修の専門がいます。
そのチームにお願いすれば、費用も抑えられます。」
「なるほど。」と林が頷く。
「ただ、建物だけでは人は集まりません。
心が落ち着く『空気』を作る必要があります。」
「空気……ですか。」
「ええ。人が息をしやすい場所。
誰かの声や気配が自然に届くような。
それがあれば、制度は後からついてきます。」
林の言葉に、会議室の若手たちが静かに聞き入った。
その中で、広海がゆっくりと口を開く。
「……『空気』を作る場所。
風が通って、閉じこもらない家。
そういう場所を作れたら……」
彼は言いながら、ふと笑った。
「……『風の通る家』。
そんな名前が似合うかもしれません。」
その瞬間、会議室の空気が少し揺れた。
水野がマーカーを手に取り、ホワイトボードに書く。
【風の通る家(仮称)】
目的:孤立を防ぐ関係の居場所
運営:町・NPO連携
財源:生涯共生信託モデル(寄付・運用益)
林がその文字を見て、静かに微笑んだ。
「風は見えないけれど、確かに通りますね。」
*
会議が終わるころ、庁舎の外は薄曇りの午後。
林が玄関を出ると、玄関脇の木々が小さく揺れた。
「いい町ですね。」
「本当に、何もない町ですよ。」と広海。
「『何もない』ところに、いちばん風が通るんです。」
そこへ、庁舎の中から町長・大迫が姿を現した。
分厚いコートに手を突っ込み、2人の前で立ち止まる。
「君が林さんか。話は聞いている。」
「はい。林 明里と申します。」
「遠くから、わざわざ来てくれてありがとう。
今、若いのが頑張ってる。
俺もな、もう少し風を入れてみようと思う。」
「……風を?」
大迫は遠くの空を見ながら言った。
「臨時議会で、この『ひきこもりの町構想』を正式に説明する。
俺たちの町に、風を通してみせる。」
林は少し目を見開き、そして微笑んだ。
「その風は、きっと通ります。必ず。」
大迫は軽く頷き、庁舎の中へ戻っていった。
残された2人の間を、静かな風が通り抜ける。
「……本当に通ると思いますか?」
広海がつぶやくと、林は笑った。
「風は、人の心が動いたときにしか吹きません。
もう、吹き始めてますよ。」
*
その夜。
役場の屋上から見える町は静かだった。
広海は手すりに寄りかかり、遠くの灯を眺めた。
冷たい空気の中、ゆっくりと風が頬を撫でた。
……風の通る家。
その言葉が、胸の奥でやさしく響いていた。
町の空気は、もう変わり始めている。




