第5話 止まった家
1月18日
午前8時
3日後の朝。
町の空は曇りがちで、風が冷たい。地面には溶けずに残っている雪がちらほら見える。
広海は、ごみ収集車の助手席に乗り込みながら、胸ポケットの上からお守りにそっと触れた。
その柔らかな感触が、呼吸を静かに整えてくれる。
まるで、誰かが「大丈夫」と囁いてくれているようだった。
「今日は北の住宅地からですね。」
運転席の同僚・小林がつぶやく。
三十代半ば、信頼できる相棒だ。
冬の曇天を映すような灰色の街並みを、収集車は静かに走り出した。
広海は窓の外を見つめながら、町長・大迫からの「宿題」を思い返していた。
……風が止まった場所を探せ。
それは命令ではなく、挑戦だった。
そして、彼にとっても痛みを伴う挑戦であった。
「田嶋さん、凄かったみたいですね。」
小林が軽く笑う。
「この前の会議、定員の埋め合わせで呼ばれたんでしょ? 噂になってますよ。」
「え?」
「『ゴミ収集員の田嶋が町長を黙らせた』って。俺、最初冗談かと思いましたよ。」
広海は苦笑した。
「……黙らせたわけじゃない。ただ、言葉を届けたかっただけさ。」
「へぇ。なんか、らしいっすね。」
小林が軽くアクセルを踏む。
エンジン音の中で、朝の町がゆっくり動き始めていた。
通学路では黄色い帽子の子どもたちが列を作り、コンビニの前では新聞配達の若者が缶コーヒーを飲んでいる。
一見、何も変わらない日常……。
だが広海には、その裏にある「見えない静けさ」が気になっていた。
*
午前9時を回ったころ、広海たちは町外れの住宅地に入った。
道幅が狭く、古い家が多い。
屋根瓦はところどころ褪せ、庭木は伸び放題。
どの家も、冬の風を遮るようにカーテンが固く閉じられていた。
「……ここ、家主の女性が亡くなって、少し前から空き家になってる家ですね。」
小林が指差した家の前で車を止める。
門柱には風雨に晒された表札。郵便受けには紙が詰まっている。
だが、門の内側に、ごみ袋が一つだけ置かれていた。
小林が眉をひそめた。
「あれ? ここ、もう誰もいないはずなのに……おかしいな。」
広海はフロントガラス越しにその家を見つめた。
庭の木々は枝を伸ばし放題で、地面には枯葉が積もっている。
けれど、玄関の前の雪だけは、誰かが踏みしめたようにわずかに凹んでいた。
「……待って。」
広海の声が低くなる。
庭に入り窓ガラスに耳を付ける。
音がある。
微かな「きしみ」。
……室内で床が軋むような、ゆっくりとした動きの音。
それに混じって、何かが擦れるような小さな音が続いた。
まるで、布が床を引きずられているかのような。
「田嶋さん?」
「……少し、待っててください。」
玄関に鍵は掛かっていなかった。
中に足を踏み入れると、冷たい空気が肌を刺した。
外よりもずっと冷えている。
だが、その冷気の奥に、人の呼吸のような「わずかな温もり」が混じっていた。
「すみません、役場の者です! ごみの件で……!」
返事はない。
けれど、奥のほうで布が擦れるような音がした。
生き物の動きにしか聞こえない。
広海は靴を脱ぎ廊下をゆっくり進み、居間の戸を開けた。
そこにいたのは、毛布にくるまった男性だった。
やせ細り、頬はこけ、目の焦点は曖昧。
隣のテーブルには、食べかけのパンとペットボトルの水、一通の封筒が置かれていた。
古びた茶封筒。
表には、震える字で「お母さんへ」とだけ書かれている。
だが、その母親は……もうこの世にはいない。
広海は息を呑み、遠目に封筒を見つめた。
まるで、時間がそこで止まってしまったかのようだった。
封筒の表面には、滲んだインクの跡がいくつもある。
水ではなく、涙の跡のように見えた。
「……大丈夫ですか?」
男がゆっくり顔を上げた。
乾いた唇がかすかに動く。
「……誰?」
「町の者です。助けを呼びます。」
広海はすぐに携帯を取り出し、救急と福祉課へ連絡を入れた。
声を震わせながらも、冷静に住所と状況を告げる。
男が意識はあるが極度に衰弱していること。
数分後、遠くから救急車のサイレンが近づいてきた。
やがて赤い光が玄関先を照らす。
救急隊員たちが迅速に担架を運び込み、
その後ろから警察官が一人、現場確認のため同行していた。
玄関先でその光景を見守りながら、
広海は胸ポケットにそっと手を当てた。
布越しに伝わる、お守りのやわらかな温もり。
その感触が、冷え切った指先から伝わり、体の奥へと広がっていく。
……もう、見過ごさない。
心の奥で、静かにそうつぶやいた。
冷たい風が頬を撫でたが、その奥に確かな熱が宿っていた。
……また、偶然だった。
3年前と同じように、自分がたまたま通りかかったから、助かっただけ。
ほんの数時間ずれていたら、この人はもう……。
風は、まだ通っていない。
けれど胸の奥で、確かな風が生まれようとしていた。
*
一連の対応を終えて、役場に戻ったのは正午を過ぎていた。
水野が資料室で待っていた。
机の上には、彼女がまとめた「生涯共生信託モデル構想(試案)」と書かれた書類の束。
「遅かったですね。……顔、赤いですよ。」
「少し、外で風に当たってきました。」
「風?」
「はい。」
広海は笑おうとしたが、口元がうまく動かなかった。
「町長の『宿題』……見つけました。」
水野の表情が固まる。
「……また、ですか。」
「ええ。3年前と同じような家でした。
そして今回も、僕が偶然気づいたから助けられた。それだけです。」
沈黙。
広海は机の上の書類に目を落とし、静かに言葉を続けた。
「運が良かった、なんて言いたくない。
でも、今のままじゃ、それ以外の言葉が見つからない。
だからこそ、この『ひきこもりの町構想』を進めなければいけない。
偶然じゃなく、仕組みで人を救える町に……。」
水野は、小さく頷いた。
彼の言葉の奥にある痛みを感じ取っていた。
「……はい。制度として、風を通す。
それが、私たちの仕事ですね。」
広海はゆっくりと息を吐き、机の上の書類を手に取った。
表紙に記された文字を見つめながら、小さくつぶやく。
「……もう2度と『偶然』に任せたくない。」
窓の外で、午後の風が役場の庁舎を撫でていく。
その風はまだ冷たい。
けれど、その奥に、確かに小さな灯がともっていた。




