第4話 応接室の灯
1月15日
午後7時
夜の役場は、昼の顔をすっかり変えていた。
昼間のざわめきも笑い声も消え、時々廊下に響くのは蛍光灯のジジッという乾いた溜息だけ。
窓の外では、街灯に照らされた雪が舞っていた。
午後7時。田嶋広海は、約束の時間より5分早く応接室の前に立った。
扉の向こうには明かりが漏れている。
静かにノックすると、中から低い声が返ってきた。
「入れ。」
町長・大迫はソファの奥に座り、湯気の立つ湯呑を手にしていた。
昼のような豪快な笑いはない。
机の上には、誰かが用意した分厚い資料の束。
そして、灰皿には火の消えかけたタバコが一本。
「座れ。」
短い言葉に従い、広海は少し腰をかけた。
背筋を伸ばし、深呼吸を一つ。
「……昼間の話だがな。」
大迫は湯呑を置き、しばらく黙ったまま広海を見ていた。
その目には、いつもの圧はなく、何かを測るような静けさがあった。
「お前の話を聞いて、頭に浮かんだんだ。」
「はい。」
「昔、俺がまだ企画課の係長だったころ、似たような出来事があった。」
広海は意外そうに目を瞬かせた。
「当時、うちの町はバブルの残り香で浮かれていてな。
大型の商業施設を誘致する話が持ち上がった。
町の発展だと皆が言ってたが、反対する住民もいた。
『静かな生活が壊れる』と。
俺は若かった。『発展のためだ』と押し切った。」
大迫は、苦い笑みを浮かべた。
「その後、施設はできた。だが、その周囲の商店街は潰れた。
結局、10年も経たずに施設も撤退した。
……あのとき、俺は『風』を止めたんだ。」
広海は、ただ黙って聞いていた。
言葉の端々に、昼間の「豪胆な町長」の面影はなかった。
「お前の話を聞いて、思い出した。
『人を増やす』ってのは、数字を足すことじゃない。
『生きてる人の風を守ること』が重要なのかもしれんな。」
「……ありがとうございます。」
広海は小さく頭を下げた。
「だがな。」
大迫の声が、再び太くなる。
「理想を語るのは簡単だ。だが実際にやるとなれば、金も、人も、法も絡む。
信託だの寄付だの、そう簡単には動かんぞ。」
「分かっています。」
広海は落ち着いた声で応えた。
「でも、まずは形にしたいんです。水野さんが手伝ってくれると言ってくれました。
企画書を作ります。数字も、仕組みも、少しずつ整えていきます。」
「……水野?」
大迫の眉がぴくりと動く。
「結衣か。あいつは優秀だが真面目すぎて損をするタイプだ。」
「はい。でも、あの人がいなければ僕はこの話を続けられません。」
一瞬、沈黙が流れた。
大迫は机の上の書類を一枚手に取り、タバコを一口吸う。
「お前、現場で人の生活を見てるんだな。」
「ええ。毎日、町の裏側を歩いています。」
「……なら、俺の代わりに一つ見てこい。」
「見てこい?」
「風が止まった場所を、もう一度探せ。
あの話のような家が、今も町にあるはずだ。
俺は町長としてそこに踏み込めないが、お前ならできる。
『ひきこもりの町』って言葉が本物かどうか……確かめてこい。」
広海は息をのんだ。
「町長……それは、許可をいただけるということですか?」
「許可じゃない。」
大迫は湯呑を手に取り、視線を窓の外に向けた。
「ただの『宿題』だ。お前が本気なら、結果を見せろ。
それ次第で、俺も動く。」
言葉のあと、長い沈黙。
外の雪が街灯の下を舞い、光の粒になって窓に映る。
広海はゆっくりと立ち上がり、頭を下げた。
「……ありがとうございます。必ず、風が止まった場所を探してきます。」
「……ふん。」
大迫は短く鼻を鳴らし、書類の山に目を落とした。
「行け。雪の夜道は滑るぞ。」
応接室を出た瞬間、広海はようやく息を吐いた。
廊下に出ると、役場の中はすでに真っ暗で、非常灯だけが足元を照らしていた。
遠くから声が聞こえる。
「田嶋さん、どうでした?」
振り返ると、水野が紙の束を抱えて立っていた。
「町長に、宿題をもらいました。」
「宿題?」
「はい。『風が止まった場所を探せ』と。」
水野は驚いたように目を見開いたが、すぐに口元を引き締めた。
「……じゃあ、私は企画書を進めておきますね。」
広海はその顔を見つめ、ほんの少し笑った。
「ええ、頼もしいですね。」
外に出ると、雪は静かに降り続いていた。
街灯の下、2人の影が並ぶ。
遠くでは町の家々の明かりが淡く瞬いていた。
どこかの窓の向こうにも、まだ届いていない風がある。
広海は心の中で呟いた。
……まだ悲しい現場は有るはずだ。
そして、歩き出した。
雪の上に、2人の足跡がまっすぐに続いていった。




