第3話 風の余韻
1月15日
午後4時
会議室のドアが閉まると、残された空気はしばらく動かなかった。
時計の針が、ゆっくりと一つ進む音が、壁の奥から聞こえる。
大迫町長が出て行った後、誰もすぐには口を開かなかった。
張りつめていた空気がほどけるまでに、数分かかった。
最初に動いたのは、水野結衣だった。
彼女はペンを握ったまま、顔を上げて言った。
「……あの話、本当に、すごかったです。」
声をかけられた広海は、ようやく深呼吸をした。
ずっと張りつめていた喉がようやく緩む。
「……すごかったかどうかは分かりません。ただ、言わなきゃと思って。」
「でも、町長、最後は何も言い返せませんでしたよ。」
水野の目がほんの少し笑った。
しかしその笑いは、軽口ではなく、胸の奥に熱を残すものだった。
周囲の若手たちも、少しずつ声を出し始める。
「……あんな話、初めて聞いた。」
「俺たち、町のこと見てるつもりで、見てなかったんだな。」
「『風の通り道』っていう言葉、なんか心に残ったよ。」
誰かが言葉を出すたびに、少しずつ場の温度が戻っていく。
あれほど重かった会議室が、いまは少しだけ、柔らかい空気に包まれていた。
水野はメモ用紙を丁寧に束ねると、意を決したように口を開いた。
「田嶋さん、さっきの提案……文書にまとめて、正式な形にしませんか? 私、手伝います。」
「文書に?」
「はい。町長はダメ出しをしませんでしたよね。
なら、ちゃんと企画書として出しましょう。あの場で終わらせたら、もったいないです。」
広海はしばらく考えた。
頭の中に、町長の最後の一言がよみがえる。
……理想論だ。
だが、その声には、ほんのわずかに揺らぎがあった。
あの人の中にも、かつて風を感じていた時代があったのかもしれない。
「……そうですね。」
広海は小さく頷いた。
「数字も、制度も、僕ひとりじゃ分からないことだらけです。でも……協力してもらえますか?」
「もちろんです。」
水野の返事は迷いがなかった。
「私、企画課ですから。町の予算の構造とか、ざっくりなら分かります。
でも、『言葉』の部分は田嶋さんが書いたほうがいい。
さっきの話、私には絶対書けません。」
会議室の外では、すでに他の職員たちの足音が遠ざかっている。
窓の外では、薄く雪雲が流れ、陽が沈みかけていた。
広海は机の上に置かれたペンを見つめながら、ふっと息をついた。
「……じゃあ、今日の夜、少し時間をもらえますか?
資料室の奥で、下書きを作ってみたい。」
「分かりました。コーヒーでも持っていきます。」
水野が微笑む。その声に、ささやかな温かさがあった。
……そのとき、会議室のドアが、かすかに開いた。
顔を出したのは、町長の側近である政策秘書の森だった。
「田嶋さん、ちょっといいかな。」
水野が驚いたように顔を上げる。
広海は椅子から立ち上がり、静かに答えた。
「はい。」
廊下に出ると、森は人のいない方向へ歩きながら小声で言った。
「町長が……あなたの話、もう一度聞きたいと仰ってます。」
「え?」
「今日の夜、応接室に来てくれ、だそうです。非公式で。」
森は振り向かずにそれだけ言い、階段のほうへ去っていった。
広海は立ち尽くしたまま、胸の奥の鼓動を聞いていた。
……まさか。
あの町長が。
廊下の窓の外、夕陽が沈む町の屋根に光を落とす。
遠くから、夕方の防災無線が流れてくる。
……みなさん、おうちに帰りましょう……
胸ポケットの中で、お守りの布がわずかに揺れた。
その感触に、広海は静かに手を添えた。
「……風が、動き始めたのかもしれないな。」
その呟きは誰にも聞こえなかった。
ただ、廊下の端の古い窓がきしみ、
冬の冷たい風が、ほんの少しだけ入り込んだ。




