第23話 回想 風の止んだ日
5月中旬
夜
役場の会議室には、まだ3人の灯りが残っていた。
ホワイトボードには「生涯共生信託(案)」の文字がかすかに残り、
机の上には、冷めかけたコーヒーと散らばった付箋。
林が書類を閉じ、ふと広海の方を見た。
「……田嶋さん、ひとつ聞いてもいいですか?」
広海が顔を上げる。
林は少し考えながら、穏やかに続けた。
「あの青年の件だけで、ここまで強く理想を追えるとは思えません。
田嶋さん、あなたも何か……似たような痛みを経験されたのではないですか?」
広海は少しだけ目を伏せ、笑った。
「さすが、心理カウンセラーでもある林さんですね。……見破られてましたか。」
林も微笑んだが、その表情の奥に静かな確信があった。
広海は息を整え、ゆっくりと頷いた。
「……十年前、妻と娘を交通事故で亡くしました。」
水野が手を止めた。
部屋の空気がわずかに重くなる。
「雨の日でした。視界が悪くて、対向車がセンターラインを越えてきた。
相手の運転も不注意でしたが、ブレーキを踏む間もなかったそうです。
避けることも、止めることもできなかった……
どうしようもない、不運な事故でした。」
淡々とした声。だがその一言ごとに、
心の奥の封印がわずかに軋むような静けさがあった。
*
……雨の夜。
街灯の下で、水たまりに薄い虹色のオイルの膜が張っていた。
砕けたガラス、曲がったボンネットの残骸。
広海が駆けつけた時、
通りの向こう側に、青いシートが張られていた。
その向こうで警官が静かに立っていた。
その瞬間、世界の音がふっと消えた。
翌朝、目覚めても音は戻らなかった。
時計の針の音だけが、やけに大きく響く。
外の風の音も、人の声も、まるで遠い。
時間だけが進んで、自分だけが置き去りにされたようだった。
2人の葬儀を終え、日が経つごとに、
部屋の空気は濃く、重くなっていった。
カーテンを開けても、世界は色を失ったまま。
靴を履こうとしても、手が動かない。紐が結べない。
やがて、仕事も休み、家の時計だけが生きていた。
……世界が、閉じた。
静寂は、鎧のように心を覆った。
悲しみよりも、何も感じない無音の時間が怖かった。
*
「……しばらく仕事はできませんでした。」
広海の声が戻る。
「でも、ある朝、外で収集車の音が聞こえたんです。
久しぶりに『音』だと感じました。
窓から外を覗くと同僚の声がして、『おはよう。今日は風が強いな』って。
その何でもない言葉が、靴紐を結ばせてくれた。」
林が小さく息をのむ。
水野は視線を落とし、手を組んだまま黙って聞いていた。
「運が良かっただけです。
声をかけてもらえたのも、偶然。
もしその朝、あの人が別のルートを回っていたら……
僕は今も、玄関の前で立ち尽くしていたかもしれない。」
広海は胸ポケットに手を当てた。
お守りの中には、亡き妻と娘の写真が折りたたまれている。
「だから、思うんです。
運に頼らなくても届く声、
偶然に任せず届く風……
そういう町を作りたい。
誰かが家の中で、音を失ってしまっても、
必ず『気づかれる』仕組みを。」
林は目を細めた。
「……なるほど。あのときの強い言葉は、痛みの裏側から出ていたんですね。」
「はい。僕があの青年を放っておけなかったのは、
かつての自分を重ねていたからかもしれません。」
部屋の風が、カーテンを静かに揺らした。
その音が、あの『無音の時間』の余韻を溶かしていく。
「でも……今はもう、風が聞こえます。」
広海は小さく微笑んだ。
「だから、この風を他の人にも届けたい。」
林がうなずく。
「田嶋さん、あなたの話……必ず残します。
制度の言葉では書けないところも、
『風の記録』として。」
広海は、わずかに笑みを返した。
「お願いします。
風が止まっていた時間を、無駄にしないために。」
林が窓を開けた。
夜の風が流れ込み、紙の端をめくる。
外の街路樹がざわりと枝を鳴らし、
遠くで車のエンジン音が低く響いた。
その音を聞きながら、広海は静かに言った。
「運が良ければ助かる……そんな偶然に頼らない町を作ることです。」
言葉は夜の風に溶け、
部屋の灯りが、ゆっくりと柔らかく揺れた。
*
翌朝。
丘の上では、改修が始まっていた。
林が現場に到着すると、広海はもう作業服姿で立っていた。
「おはようございます。」
2人の間を、春の風が通り抜ける。
林はその風の向こうに、前夜の言葉を思い出していた。
……「運に頼らず届く風」。
その風を、今度は自分の手で吹かせたいと思った。
丘の上には、昨日よりも柔らかな光が差し込んでいた。
……町の風が、また少し前へ進んでいた。




