第20話 風の始まり
4月3日
午後
町役場の小会議室。
『風の通る家』運営委託契約書
2部の契約書に必要な記載や押印等が全てなされ、林が役場へ持参していた。
それを見つめながら、水野が小さく息を吐く。
「これで、正式に『そよぎ』が町のパートナーですね。」
林はうなずき、微笑んだ。
「はい。ここからが本当の始まりです。
東京のつながりの灯は、他のメンバーに代表を引き継いできました。
私はこちらに専念します。」
広海が机の端から書類を受け取り、丁寧に綴じる。
「この紙一枚の重さが、ずっしり来ますね。」
橋爪が冗談めかして言う。
「風みたいに軽くしていきましょうよ。」
一瞬、皆が笑った。
空気が少しだけ柔らかくなる。
*
午後、3人は丘の上の空き家へ向かった。
町の中心部から少し離れた高台。
舗装がところどころ剥がれた坂道を登ると、
白い壁と瓦屋根の平屋が、静かに佇んでいる。
林は玄関の前で足を止め、周囲を見渡した。
前に訪れた時よりも、草が少し伸びている。
だが、それがかえって春の匂いを運んでいた。
「……ここが、正式に『風の通る家』になるんですね。」
水野の声が風に溶けた。
広海が扉の錠を外し、ゆっくりと押し開ける。
ぎぃ、と古い蝶番が鳴る。
中には、まだ誰の気配もない空間が広がっていた。
畳は日焼けし、窓枠には埃が積もっている。
しかし、陽の光と風が差し込むと、その埃が小さな粒となって舞い上がる。
林はそっと窓を開け放った。
……ふっと、風が流れ込む。
部屋の空気が一気に動いた。
古い紙の匂い、木の香り、外の土の匂い。
全部が混ざり合いながら、ゆっくりとどこかに抜けていく。
「……風が迷いながら通って行きましたね。」
水野が小さく呟く。
林は微笑んで答えた。
「まだ始まったばかりです。
風って不思議で、通り道を見つけると
迷わず吹き抜けていく。」
広海は縁側に立ち、外を眺めた。
丘の下に広がる町並みが見える。
「風の通る家……。
最初の一息が、大切なんですね。」
「ええ。最初の風が、町全体の風になります。」
林の声は穏やかだった。
その時、車のエンジン音が坂の下から聞こえた。
黒い公用車がゆっくりと登ってくる。
車から降りてきたのは、大迫町長だった。
背筋を伸ばし、ゆっくりと玄関から室内へ向かい3人と合流する。
「……ずいぶん古い家だな。」
「でも、風は通ります。」林が答える。
「風さえ通れば、家は生きます。」
大迫はしばらく無言で室内を見回した。
光が差し込み、壁の影がゆらいでいる。
やがて、ゆっくりと頷いた。
「よし、始めよう。」
その言葉が、空き家の中に静かに響いた。
林は小さく頭を下げ、広海と水野も並んで礼をする。
町長は汚れた窓から、空を見上げた。
「風は、もう来てるな。」
その瞬間、丘の上を春の風が抜けた。
古いカーテンがふわりと膨らみ、障子紙が軽く鳴る。
誰も言葉を発さず、その音だけを聴いていた。
町の『風』が、確かに動き始めた。




