第2話 静まる風の中で
1月15日
午後3時15分
空気が、ひと呼吸分止まっていた。
蛍光灯の光が、机の上で白く静かに動きを止めていた。
「……ひきこもりの町?」
誰かの小さなつぶやきが、会議室の隅で溶けた。
田嶋広海は、深く一礼したまま顔を上げた。
その表情に、挑発も焦りもない。ただ、静かだった。
ゆっくりとした口調で、言葉を続ける。
「……『人口を増やす』ということ。
私は、それを『人がこの町に生き続けられる仕組みを作ること』だと思っています。」
ざわ、と空気がわずかに動いた。
広海の声は、響きすぎず、それでいて確かに耳に届く。
「私はごみ収集員として町を回っています。
毎日、いろんな家の前を通ります。
人の暮らしの痕跡を拾いながら、
この町がどんな顔をしているのか、少しだけ見える気がします。」
会場の視線が、少しずつ彼に向いた。
町長・大迫も、腕を組んだまま眉をひそめ、無言で彼を見据える。
「……そこで、一度だけ、忘れられない光景を見ました。」
空気が沈む。
広海は、言葉を選びながら続けた。
「3年前の冬です。
ごみ収集の途中で、ごみが出されていない家がありました。
いつもは玄関先に袋が出ているのに、その日は何もなかった。
おかしいと思って声をかけても返事がなくて。
だけど、誰かが居る気配はした。
心配になって警察に通報したら、中でお母さんが亡くなっていて、その息子さんが、一人でそのまま……部屋の隅に座っていたんです。」
田嶋は言葉を切り、目を伏せた。
会議室の空気が、わずかに重くなる。
誰かの椅子が、きゅ、と音を立てたが、すぐに止んだ。
「彼は、生きていました。
けれど、まともに言葉を交わせる状態じゃなかった。
保護はされて、病院に運ばれたと聞きました。
しかし、退院しても行く場所がなく、施設にもなじめず、
数か月後に、姿を消したとだけ聞きました。
どこかで生きているのか、もう分かりません。」
静まり返った会議室に、外の風の音がかすかに入ってくる。
誰も笑わない。誰も咳払いをしない。
ただ、誰かのペン先が机に触れる小さな音だけが響いた。
「その青年は、家からは保護されましたが、結局救われませんでした。
……あの家を忘れられない。あの空気が止まってしまったかのような家が。
あれは、たまたま私がその日に収集ルートを回っていたから見つけられた。
もし偶然が少しでもずれていたら、
彼も、誰にも気づかれずに消えていたかもしれない。
……そんな町でいいのか、と思いました。」
その声は静かだったが、どこか震えていた。
淡々と事実を語るだけなのに、胸の奥に何かが刺さる。
息をひそめていた職員たちの視線が、次第に真っ直ぐに彼へと集まっていく。
「幸運に誰かが訪ねてくれたから助かる、そんな偶然を待つ町ではいけない。
だから、仕組みを作りたいんです。
運が良いとか悪いではなく、『誰もが生き続けられる町』にしたい。」
広海は、机の前で姿勢を正した。
背筋をすっと伸ばし、真正面の町長を見つめる。
その目に、わずかな光が宿った。
「その第一歩として、先ずは裕福な家庭の高額な寄付を受け、その一部を直接の運用に、残りを信託として運用益を生み出し長期的な運用を目指す。そのシステムで社会的孤立者の支援を町が担保する。空気を止めない、風を通す。
言わば行政が『風の通り道』を作るんです。
個人の善意を『継続できる形』にして、町が見届ける。
寄付者は安心でき、支援を受ける側も、孤立しない。」
「……理想論だ。」
大迫が低く呟く。
だが、その声には先ほどまでの棘がなかった。
「理想かもしれません。」
広海は静かに答えた。
「でも、あの家をもう一度見たくない。
誰も気づかないまま、誰かが消える町にはしたくない。
だから、風を通す仕組みをつくりたいんです。」
再び、沈黙。
それは重くもあり、どこか温かかった。
誰も動かない。誰も紙をめくらない。
全員が、彼の言葉の続きを待っていた。
やがて、広海は深く頭を下げた。
「……以上です。」
数秒後、椅子がきしむ音。
それを皮切りに、誰かがゆっくりと拍手を始めた。
水野結衣だった。
彼女の手のひらの音が、ためらいながらも確かに響く。
他の若手たちも、それに続くように手を打った。
町長は腕を組み直し、何も言わずに前を見たままだった。
だが、その頬の筋肉がわずかに動いたのを、何人かが見た。
窓の外、冬の陽が傾き、家々の屋根を淡く照らす。
冷たい風が会議室の隙間を抜け、紙の端を揺らした。
それは、確かに「風」の始まりだった。




