第10話 風の準備
2月10日
午後
会議室の窓から、淡い冬の光が差し込んでいた。
議会開催まで、あと3日。
臨時議会の議題として……「生涯共生信託制度(モデル案)」が正式に記された。
「ほんとに、あの町長が出すとは思いませんでしたね。」
資料を手にした水野が、半ば呆れたように言う。
「『俺たちの町に風を通してみせる』なんて……詩人みたいでしたよ。」
「でも、本気ですよ。」
広海は静かに笑った。
「たぶん町長なりの『覚悟』なんだと思います。」
企画課の一角に集まったプロジェクトチームの職員たちの机の上には、資料の山。
福祉課の橋爪、建設課の高瀬、広報課の白山……皆が自分の分野で資料を整えている。
その中心に、「説明者」として広海の名前が置かれていた。
「町長、あえて田嶋さんを指名しましたね。」
水野が紙を指でとんと叩く。
「普通なら企画課長がやるところを。」
「……現場で風を感じた人間の言葉でないと届かん、って。」
広海は小さく苦笑した。
「町長室で言ってました。」
橋爪が口を挟む。
「つまり、魂で語れってことですかね。」
「そんな立派なもんじゃありません。ただ、ちゃんと伝えたいだけです。」
広海の声には静かな力があった。
机の上には、林が送ってきたメールのプリントが一枚。
文面の下に短い一文……
「風は、誰かが信じたときに通り始めます。」
その言葉を見つめながら、広海は息を吸った。
*
夕方。
議会の傍聴席を見上げると、薄暗い天井の向こうに古い照明が灯っていた。
広海はひとりで壇上に立ち、マイクの高さを確かめる。
「ここで話すのか……。」
声を出すと、静まり返った議場にわずかに反響した。
ドアの開く音。
入ってきたのは町長・大迫だった。
「練習か?」
「ええ。雰囲気だけでも慣れておこうと思って。」
「そうか。」
町長はゆっくり議場の中央まで歩くと、腕を組んで前を見た。
「ここはな、風が通らん場所だ。」
「……え?」
「長年、形式と前例で固まってる。
質問しても、答えは『検討します』ばかり。
ここに必要なのは、あんたが言ってた『風』だ。」
広海は静かに頷いた。
「町長、ありがとうございます。でも……本当に僕でいいんですか。」
「お前がいい。役職じゃなく、言葉を持ってるからだ。」
「言葉……。」
「言葉は風だ。正面から言えば、どんな壁にも隙間はできる。」
大迫は背を向け、議場を見上げた。
「3日前の報告で「風の通る家」の名前を聞いたとき、心の中で何かが動いた。
お前たちが作ろうとしてるのは、ただの施設じゃない。
町の空気を変える仕掛けだ。
……なら、俺もその風を通す側に立つ。」
広海は一歩前に出て、深く頭を下げた。
「……分かりました。魂で、伝えます。」
町長は振り返り、わずかに笑った。
「いい風を吹かせろ。お前の言葉でな。」
*
夜、役場の資料室。
蛍光灯の下で、水野と橋爪が原稿のチェックをしていた。
林から届いた新しい資料には、彼女の手書きのメモが添えられていた。
「風は、押すより、通す。
強く語るより、信じて話す。」
水野が呟く。
「……林さんの言葉って、不思議ですね。
静かなんだけど、心が動く。」
「たぶん、『風の声』なんですよ。」
広海が答えた。
外の風が、窓をゆっくり叩いた。
3日後、この風が議場に入る。
人の心の中に、通り道ができるかどうか。
その鍵を握るのは、言葉だった。
広海は深く息を吸った。
胸の奥に、まだ見ぬ『議場の風』を感じながら。




