それは、僕らの青春を狂わせるには十分な恋だった
「あ……嘘ぉ……」
午後から始まる入学式前に、学校前のラーメン屋で腹ごしらえをしようとしたらこれだ。
目の前のラーメンどんぶりからは、ほわりと熱い湯気が立ち上る。つるりもちっと太麺に、濃厚な豚骨スープ。この店自慢の自家製チャーシューが二枚──を覆い隠すように、コショウがドッサリ。
凌介はラーメンに少しだけコショウを振ろうとしただけだ。それなのにパカリと開いたコショウの蓋は緩んでいたのか、蓋ごと丼の中に落下。コショウもつられて全て落下。その結果凌介はくしゃみを繰り返す迷惑な客となり、ラーメンも見るも無惨な姿となった。
流石の凌介もこれには黙っていられない。カウンター奥の店主に一言申そうと「あの、すみません」と手を上げた。
「何?」
「すみません、コショウが……」
「あんた何やってんの? 勿体ない!」
「いや、その蓋が……」
「蓋ぁ?」
髪の薄くなった店主は凌介を疑っている様子。眉間に皺を寄せ、あからさまに不機嫌な態度で凌介を睨む。
(誰が好き好んでコショウを全部入れるってんだ……!)
蓋が緩んでいたのでコショウが全てラーメンに入りました。お店の過失だと思うので、作り直して下さいと言いたい所ではあるが、それがするりと口から出るような男ではなく、凌介は遂には顔を伏せてしまう。
「あの、店長さん」
小鳥がさえずるようなソプラノに顔を上げる。見れば隣に座る麗らかな女性が、身を乗り出して店主を諭すように抗議しているところであった。
「私、見ていたので間違いありません。コショウの蓋が緩んでいたみたいで、全てラーメンの中に入ってしまったようでしたよ」
「けどよ……」
「お店の過失ですし、作り直していただけますよね?」
女性がにこりと微笑むと、店主が破顔した。
「そうですね、喜んで!」
「よかった」
よかった、と同時に凌介の方を向く女性。眼帯で隠れていない右目がニコッと弧を描き、桃色の唇の両端が持ち上がる。その笑顔は凌介の胸を撃ち抜き、コショウのボトルがカウンターに落下した。
「あ……ありがとうございます」
「ん、何が?」
長い髪を耳にかけ、形の良い唇がラーメンを啜る様子に釘付けになった。一瞬、ラーメンになりたいという捻れた欲望が凌介の中に渦巻くが、目の前にドンと置かれた出来立てのラーメンが、凌介を現実へと引き戻す。
「お陰様でラーメンが食べれます」
「正しいと思ったことは、きちんと主張しなくては駄目よ?」
「あ……はい、すみません」
「謝ることではないの」
それだけ言うと彼女はラーメンを啜りだす。ズルズルと音を立てているのにどこか上品な仕草。
「じゃあ、またね」
それだけ言うと彼女は颯爽と勘定を済ませ出て行った。春を思わせるピンク色のスカートから伸びる足の眩しい──……。
(……え?)
きっと眩しいだろうと凝視した彼女の足には、痛々しいほどに包帯や大きな絆創膏が貼られていた。
(おっちょこちょいなのか……?)
あまりにも痛々しいその姿に、凌介は眉尻を下げる。店主の咳払いで現実に戻された頃にはラーメンはすっかり伸び、支払いとレジでの雑談を済ませた彼女が立ち去る姿を見送ると、ようやく団子になった麺の塊を箸でぐちゃぐちゃと解し、口へと運んだ。
「……伸びても美味しい」
団子を食べきって気がついたのは、彼女は凌介の勘定も一緒に済ませてくれていたということだった。
(芯が強いのにあんなに優しくて、おまけに上品で綺麗な人がいるなんて)
中学までの同級生ときたら、きゃあきゃあと喧しく、その上、品のない女子生徒ばかりだった。そんな女子に囲まれて過ごした三年間は一体何だったのかと思わせるほど、彼女は魅力的であった。
また会えるだろうかと、凌介はラーメンを口に運ぶ。もしかしたらまたここに来れば会えるかもしれないという淡い期待を抱きながら完食し、暖簾をくぐり店外に出た。
「しかし伸びたラーメンがこんなに腹を膨らますとは」
汁を吸った小麦の塊で満腹になった腹を撫でながら凌介が向かうのは、今日から通うこととなる新たな学び舎だ。多くの生徒で溢れ返る門をくぐったところで、後ろから名前を呼ばれた。
「……岬?」
「どう?」
「良いんじゃない?」
「それが幼馴染に対する褒め言葉?」
「褒めるだけいいだろ、似合ってる」
岬は凌介の幼馴染。家が隣で付き合いもそれなりに長かった。幼い頃からずっとショートヘアだが、顔のパーツがはっきりとしており睫毛も長く、可愛らしい顔付きだ。どうやら新しい制服を褒めてほしかったようだ。
「この学校広いんだよ、案内してあげる。凌介、方向音痴でしょ?」
「余計なお世話と言いたいところだが、よろしく頼む」
スポーツ推薦で入学が決まっていた岬は、春休みの頭から一足早くこの学校での部活動に参加していたらしい。そのお陰もあって、学校の内部に詳しくなっているようだ。
昔から歩く速度の早い岬はスタスタと先を行く。見失わないように、だがそれを悟られぬように。凌介は一丁前に格好をつけながらしゃきしゃきと彼女の背を追った。
(生徒数多いな……一学年なんクラスなんだろ)
あちこちに視線を投げながら岬の後を追う。が、余所見をしながら歩いていたのが運の尽き、凌介は前方の人物に衝突し、転倒してしまった。通学鞄は宙を舞い、ファスナーを開けていたそれの中身がバサバサと落下する。
「す、すみません……!」
「ったく……いってぇな。新入生か? 気をつけろ」
この人は教師なのだろうか。スーツ姿の男は厳しく吐き捨てると、足早に姿を消した。それを見て駆けつけてくる人物が二人。
「凌介! 大丈夫!? 怪我してない?」
「大丈夫」
「ぼーっとしてたんでしょ。全く……俵先生も冷たいよね。女子には優しいんだけど」
「俵?」
「あの先生よ。この学校、もう長いみたいよ。見た目がアレだし、昔から女子生徒には人気があるみたい」
凌介の制服についた砂を叩きながら、岬は俵と呼ばれた教師を睨みつける。そんな二人の視線の先で、駆けつけてくれたもう一人の人物が、凌介の鞄の中身を拾い集めていた。
「あ……文歌先生っ……!」
「文歌先生?」
「佐崎文歌先生。さっきの俵先生の婚約者。もうすぐ結婚するんだって」
「へぇ……」
文歌先生とやらに向けられた岬の目は熱を孕み、潤んでいた。鈍感な凌介でさえ、この目が何を表しているかということくらい、容易に想像できた。
(恋する乙女、か……)
幼い頃から文武両道。普段部活動に明け暮れる岬が、恋愛感情を抱いている姿を目の前で見たのは小学生ぶりであった。
「ほら! お礼言いに行くよ!」
「そうだな」
凌介は顔を上げ、鞄の中身を拾い集めてくれている文歌先生とやらの元に駆け寄った。顔を伏せて文具を一つ一つ拾い上げている彼女の袖から覗く細い右手首には、痛々しい程の痣が顔を覗かせていた。そして左手首の内側には、細い切り傷が数え切れないくらいつけられていた。
「…………え」
「あ、君! コショウの!」
持ち上がったその顔を、凌介は知っていた。眼帯のついていない右目をにこりと細めて、文歌は天女のように微笑んだ。
「また会えたね。一年生?」
「はい……今日入学します」
「そっか。私は佐崎文歌。よろしくね」
よろしく、と差し出された手を凌介は即座に握り返すことが出来ない。手汗でぐっしょりと濡れた右手をズボンに擦り付け、指先だけそっと握り返した。
(や、やわらかい……スベスベ……!)
隣の岬からの突き刺すような視線が無ければ、天にも登る心地であった。
「これで最後かしら、はいどうぞ」
「あ……」
「じゃあまたね」
極上の笑顔を残し、文歌は去ってゆく。まともに礼も告げられぬままの凌介と岬は、夢見心地だ。
「佐崎文歌先生……二十五歳……担当教科は古典で、音楽も得意ということで吹奏楽部の副顧問なの」
「詳しいな」
「好きな人のことは調べるでしょ、普通」
「……やっぱり好きなんだ」
「私が先なんだからね! 春休みから狙ってるんだから! 凌介には譲らないから!」
「はぁ!? な、なんで俺が……! ていうか文歌先生、婚約者いるって……」
「顔見ればそのくらいわかるし。幼馴染舐めんな」
まあ自分も同じような理由で岬の気持ちに気が付いたのだから、凌介には返す言葉もない。
「それに婚約段階ならまだチャンスある」
「そうかよ」
「ところでねえ、あんたちゃんとお礼言った?」
「いや……見惚れていて」
「馬鹿なの!? 追いかけてちゃんとお礼言うよ!」
「ちょ、腕を引っ張るな!」
ブレザーの袖を引き、岬は運動場を駆け抜ける。幸い、入学式までまだ時間はあるため、二人はそこらじゅうの生徒に尋ねながら、文歌の居場所を探し回った。
「……いない!」
入学式まであと三十分。校内は広い。そろそろ教室に向かわねば入学早々担任教師の雷が落ちるなと、二人は慌て始めていた。
「やばいって岬、まわりもう誰もいない」
「わかってる……! ああもう! こうなったら教室に向かいながら文歌先生探そうよ。最悪、式の後で捕まえてお礼を……」
礼を言うのは凌介だというのに、岬はえらく必死であった。ただ単に文歌と話す口実が欲しいだけのように思えて、凌介の腹の中では黒いものが渦巻き始めた。
「岬、あれ!」
「あ……文歌先生!」
裏庭途中の渡り廊下。温室の陰からちらりと見えたのは、文歌のピンク色のスカート。二人が距離を詰め、岬が声をかけようとした──次の瞬間。
──パンッ!
乾いた音が空気を切り裂く。それと同時に放たれた聞き覚えのある怒号に、二人は震え上がり思わず柱の陰に隠れてしまった。
「文歌テメェッ! 他の男に色目使いやがって!」
「他の男って……あの子は生徒よ?!」
「そんなの関係あるか!」
「きゃぁ!」
どすん、と地面に倒れたのは文歌だった。長い髪とスカートの裾がハラハラと揺れる。それと同時に見えたのは、文歌を踏みつける俵の姿だった。
(俵……! あいつ婚約者なんだよな!? どうしてあんな……!!)
隣の柱に身を潜める岬は、唇を噛み締めて怒りでぶるぶると震えており、今にも飛び出しそうな勢いだ。
「……っ!!」
「待て岬!」
「どうして!?」
凌介と岬は、自然と小声になっていた。それは向こうの二人に気が付かれまいと、自然と漏れた音量であった。
「お前だってバレたらマズいってわかってるんだろ!」
「でも……文歌先生が……! あの男っ……ぶっ飛ばしてやる!」
「駄目だって! 冷静になれ!」
冷静になれないのは凌介の方であった。冷静になれ、の一言は自分に向けて放ったようなもの。一目見て恋に落ちた女性が、目の前で婚約者の男に腹を踏み付けられ、唸り声を上げている。これを見て、怒り以外何の感情が湧いてこようか。
(まさか、文歌先生の体の傷は……全てあいつが?)
許せない、と全身の血液がドッと湧き上がる。今にも飛び出して俵を殴り飛ばしてしまいそうだ。しかしここで彼女を助けたところで、今後自分に何が出来ようか。下手をしたら俵からの圧力で、全て揉み消されてしまうかもしれない。
(それに……あいつの暴力がもっと酷くなって、文歌先生が更に傷付くかもしれない)
そう考えると燭の火がフッと消えるように、凌介の熱は冷めていった。やはりここは落ち着いて対処するほうが賢明だ。
──それなのに。
「あっ……あぁ……文歌先生……!」
遂には涙声になってしまった岬の視線を辿ると、俵が温室の隣の倉庫の中へ、文歌をズルズルと引きずって行こうとしていた。
「良介君……学校ではやめてって……!」
「うるさい!」
「いや……!」
その瞬間、凌介と文歌の視線がぶつかった。
助けを乞うような、文歌の弱りきった視線。
「っ…………! 俺は……!」
「ねえ! 凌介っ!」
「俺は……!」
──『正しいと思ったことは、きちんと主張しなくては駄目よ?』
初めて出会ったあの時に、文歌に言われた言葉が凌介の脳裏に浮かぶ。
凌介は唇を噛み締める。血の味が滲んで、口の中に鈍い味が広がった。