3
妻との言葉が少なくなったのは、二年前。不妊治療を止めてからだ。蘇った屈辱感。妻が自分に対して嫌悪を感じているとの思いが消えない。
今日は早く家に帰るんだ。妻の好きな百合の花を買おう。これまでの事を謝ろう。子供が出来ないのは悲しいけれど、妻といられることが嬉しい。子供を作る努力は続けよう。その結果なんてどうでもいいんだ。妻と一緒にいられる時間を楽しめればそれでいい。彼の表情が明るくなる。銀行の窓口、いつもと同じ仕事、変わることのない日常。それでも今、彼の見る景色は変わった。ほんの少しの気持ちの変化で世界はいくらでも変える事が出来る。
黒ぶちの堅苦しいサングラスに喪服のようなスーツ姿の男が二人、開いた自動ドアから現れた。まるで銀行強盗だなと感じる。
あっ! 心の中で思わず叫んでしまう。どこか見覚えのあるその顔。最近よく顔を見せる二人組。窓口に来ることもなく、ATMを利用することもない。かといって特別不審な動きもしない。ただ銀行内で休憩でもしているかのようだった。若い男性では珍しい事だけれど、そんな年寄りはいくらでもいる。暇潰しで銀行に立ち寄るのはおばあさん連中の常識なのかも知れない。
けれどなんだか今日は、二人の様子がおかしい。いつもと違う服装のせいじゃない。ジーンズにTシャツ、ジャケットを羽織ってハンティング帽。目立たないけれど個性的。恰好いいなと彼は感じていた。実際、二人の真似をしてハンティング帽を買ってもいる。
銀行内に足を踏み入れると辺りをキョロキョロ。スーツの懐に右手を突っ込む。すると、次の瞬間、銀行内の空気が一変した。
動くな!
なんて言葉が響いた。大きくて通りのいい声だ。一瞬にして銀行内が静まり返る。
言う事を聞いていれば、殺しはしない。
二人のうちのどちらが口を開いているのか、彼には判断が出来なかった。彼の視線は二人が手にしている拳銃に向けられていたからだ。
しかし彼はある意味では冷静でもあった。視線を拳銃から離せずにはいたものの、意識は足元の緊急警報装置に向けられていた。ほんの少し慌てていた為、すぐに押す事は出来なかったが、なんとか二人に気付かれずに足を伸ばした。銀行の表口にあるランプが光を放ち回転する。それと同時に警察署へも通知されている筈だ。
そこのお前、両手を上げてこっちに来い!
言われる以前から彼だけでなく、そこにいた二人を除く全員が両手を上げていた。拳銃を向けられると、誰もが自然に反応してしまう。現実に遭遇する機会は全員がおそらく初めてだと思われるが、映画などの影響が身体を勝手に動かしてしまうのだろう。