一、中山 十三(34) 銀行員 1
一、中山 十三(34) 銀行員
いつもと変わらない毎日に退屈を感じる事なんて少しもない。今日が特別な記念日だとしても、なんの興奮を覚える事もない。いつもと同じ毎日を、いつもと同じように過ごしている。それが幸せだなんて感じているわけでもなく、そうやって生きていく事しか出来ないだけ。
今日もいつもと同じ時間に帰ってくるんでしょ?
妻の言葉を聞くのは久し振りだった。
話したい事があるんだけど、いいかな?
妻の言葉にドキッとする。その声を久し振りに聞いたからではなく、その言葉に不安と寂しさを感じるからだ。
彼が妻と出会ったのは十年も前の事。入行してきたばかりの彼女の教育係が彼だった。
優しいんですね。
彼女が放った何気ない言葉に反応し、恋をした。その時の彼女の頬が赤らんでいたと彼は今でも主張している。彼女が先に彼に惚れたと言いたいようだ。しかし彼女にそんな気は少しもなく、社交辞令としての何の意味も感情もない言葉だった。
ずっと一緒にいたいんだ。
初めてのデートでそう言った。
それって、どういう意味?
彼女はその意味が分かっていながらそう答えた。顔一面が笑みに歪んでいた。とても綺麗で幻想的な歪みに、思わず彼は見惚れてしまう。彼だけなく、その周囲にいた人全てが彼女の微笑に顔を向ける。穏やかで気持ちのいい雰囲気がその場を包んでいく。生まれたばかりの赤ん坊が放つ幸せな雰囲気とよく似ている。
君の名前を中山枝美子にしたらどうかなって思うんだ。
彼女は笑みを崩さずにうんうんと何度も頷いてみせた。彼はそんな彼女を抱き寄せる。二人の周りで自然と拍手と歓声が巻き起こった。映画のような幸せなひと時がそこにはあった。
初めてのデートは映画館。彼のつもりとしてはその日にプロポーズをする考えは少しもなく、映画が楽しくて、その後に街をブラブラするのが楽しくて、食事をして彼女を家まで送ろうと電車を待っているときに思わず口からこぼれた言葉だった。今が楽しいっていうその時の感情が一生続いたらどれだけ幸せなんだろう? そんな想いが言葉になった。
彼女は高校を卒業したばかりで、これまでに恋人は一人もいなかった。綺麗な顔をしていて、背は低いけれど足が長くてスタイルがよく、姿勢も歩き方も綺麗で品がよい。可愛らしい性格をしていて、今までに誰かに嫌われるということは一度もなかった。商業系の女子高に通っていなければ、きっと今頃までにはそれは驚く程に多くの恋人ができ出来ていた事だろう。実際に通学電車の中でさえ告白される事は多かった。その度に彼女が断わりをいれていた理由はただ一つ。よく知りもしない人と付き合うなんて無理。いきなり好きだと言われ、付き合って欲しいと言われても、はい分かりましたとは言えない。
彼はその点でとても恵まれていた。同じ銀行の先輩後輩。それだけの理由で彼女は彼に安心感を持っていた。デートへの誘いもとても自然だった。仕事の話があると彼女は勘違い。異性に優しくされる事が少なかった彼女は無意味に彼に好意を感じてもいた。彼は単純にラッキーだったんだ。彼女は映画の中のどのヒロインよりも可愛く、愛される存在感を持っていた。