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彼には心当たりと呼べる思いが一つあった。別れる直前の彼女の態度に、普段とは違う体調の悪さがみられたことがある。その半年後に彼女が子供を産んだとの噂を聞いたとき、そのことを思い出した。
別れた理由は特にはない。普段通りの些細な食い違いから喧嘩が始まり、それがいつしか抑えられない程に拡大していっただけのこと。それまでにも何度かあった最悪の喧嘩の一つに過ぎなかった。数週間もすればどちらからともなく連絡を取り、元に戻るはずだった。しかし、そうはならずに彼女の噂を耳にすることになった。俺の子なのか? そうとも考えたが、違うとも思われた。そんなはずはない。もしも俺の子なら、彼女がなにも言わないはずはないと勝手に想像をした。別の男との間に子供ができ、俺との関係を悪くした。そう思うことにした。しかしずっと、心のどこかにそのことが引っかかってもいた。
紹介するわね。こちらが主人の武さん。で、この子は息子の勝。勝一君は今なにしているの?
特になにもしていないよ。彼はじっと子供を見つめながら答えている。
そうなんだ・・・・ 最近でもよく映画館に行くの?
いや・・・・ 今は忙しくてなかなか行けないんだ。彼には子供のときから続いている趣味が一つだけあった。それは映画を見ることで、映画好きだった母親の影響で毎日のように映画を見ていた。週に一度は映画館にも通っていた。しかし、ある日を境に映画館に行くことがなくなり、今ではテレビでやっている映画さえ見なくなってしまっている。
仕事がんばっているんだ。よかった・・・・
彼女の言葉を聞いても彼はずっと子供から目を離さない。子供はそんな彼の視線なんて気にせず彼女の主人と話をしている。小さな声で、この人誰なの? ママの友達だよ。早く映画館に行こうよ。もうちょっと待ってよ。ママ、久し振りに友達に会ったんだから。えぇー、でも、早くしないと映画始まっちゃうよ。そんな子供の声は彼には届いていなかった。
・・・・これから映画見に行くんだ。白黒マネーってアニメなんだけど聞いたことある? ちょい役だけど、私も出ているんだ。もしよかったら・・・・ 彼女は言葉を止め、主人に顔を向けた。主人はそっと、首を横に振る。そして声は出さずに口を動かした。ダメだよ。確かにそう動いていたが、その言葉の真意はわからない。
機会があったら見てみるよ。声優になる夢、諦めてなかったんだ。彼の視線が遠くに動いた。ずっとずっと遠くの、過去を見つめているようだ。
彼女との出会いは、十年前。クビになった会社の先輩だった。事務員をしていた彼女は、彼に優しく事務的態度で接してくれた。彼はそんな彼女の態度に勘違いをし、一瞬で恋に落ちた。彼女の方は、彼に対して特別な感情なんてなく、毎年入ってくる新入社員の一人であり、その見た目も好みではなかった。そんな二人が恋人同士になったのは、他にも数名いた新入社員の歓迎会の席でだった。偶然隣同士になり、話が弾み、その勢いでその日の内に結ばれた。お互いに映画好きで、大好きな映画が同じだった。アメリ。フランスのちょっと不思議で可愛い恋物語。
当時も彼には夢なんてなかった。ただ映画を見るのが好きだっただけだ。彼女が声優を夢見ていることを知っても、なにも感じなかった。どうせ上辺だけの夢だと思っていた。実際に、彼が彼女と付き合っているとき、彼女が声優のオーディションを受けたのは一度切り。見事に落ち、その後はショックでしばらく彼とも顔を合わさなくなっていた。彼の元に戻ってからは、そんな話をすることはなくなり、アニメを見ることもなくなった。そのとき夢から覚めたんだと、彼は勝手に考えていた。