別れ話と母親
瑠菜と楓李がコムの墓参りに行ってから約一か月。
秋というにはまだまだ暑い日が続いていたころ。
瑠菜は悩んでいた。
(私と一緒にいたら楓李はきっとダメだ。だからと言って……。)
あの日から楓李と瑠菜は会ってすらいない。
瑠菜はそこまで仕事が長引くこともなく、子供のような健康的な生活を送っている。
九時に寝て五時に起きる。
小学生かとツッコまれてもおかしくはないくらいの幸せな生活だ。
一方、楓李は夜中の十二時に帰ってきて瑠菜が仕事に出かけた時間に起きる。
そのあともずっと仕事なため地味なすれ違いが続いていた。
「瑠菜、大学の受験はどうするんだ?」
「え?……あぁ、過去問は解いてるけど、自己推薦で行くよ。」
「そうか……。」
小屋に来ている雪紀が少し悲しそうな顔をする。
瑠菜はできるだけ早くに受験を終わらせたかった。
仕事と勉強の両立はそう簡単にできることではない。
きっとどちらかで大きな失敗をしてしまう時が来る。
そう思っている瑠菜は早めに受験を終わらせようとしたのだ。
しかし、雪紀としては頭の良い瑠菜が真剣に勉強をしたらどれくらいの大学に行けるのか、少し楽しみにしていた。
瑠菜は小学生のうちから東大の過去問を解いていた。
いや、解けていた。
雪紀が解かせていたこともあるが、それでも解けていることのすごさは変わらない。
そんな瑠菜のすごさが表へ出ないことに多少の不満はあったが、雪紀としては何も言えなかった。
「瑠菜さん、この仕事ってどうするんですか?」
「ん?あ、ごめんお兄。もう行くね。」
「あ、あぁ。」
「瑠菜さん!」
「はいはい。あぁ、これはね、ここをこうして、ここ押して終わり。」
「おぉ、ありがとうございます!」
「瑠菜、客だよ!」
「お客さんでしょう?リナ。もう、すみません。お待たせしました。」
サクラに仕事を教えたり、リナの頭をパシッと叩く瑠菜を見て、雪紀は忙しそうだと思った。
任せすぎたのかもしれない。
そこにいるのは明るい、前とは全く違う子供ではない瑠菜だ。
瑠菜に多くの汚れた大人の社会を見せたのは雪紀だ。
もし、雪紀と出会わなければ、夢の一つや二つは持っているただ普通の女性に瑠菜は育っていたかもしれない。
(瑠菜に甘えすぎてる気しかしねぇな。)
「何してんだ?」
「ん?お、楓李帰ってきたか。」
「……そのきもい顔を瑠菜に向けんな。ロリコン。」
帰ってきた楓李に睨まれて、雪紀は瑠菜から目をそらした。
逆に楓李は瑠菜の近くへと近寄っていく。
「瑠菜、久しぶりだな。」
「ん?え……あ、えっと……おかえりなさい。」
「何?風邪ひいたか?顔真っ赤だぞ。」
楓李を振った瑠菜としては少し居心地が悪く感じる。
そんな瑠菜を見て楓李はかわいいなと思いながらからかう。
自分の頭をなでる楓李がどうしても無理をしているのではないかと考えてしまうのは、瑠菜の性格からなのだろう。
「……大丈夫だよ。ねぇ、楓李。今日の夜いい?」
「……予定はないけど……。」
「じゃ、じゃあ……後でね。」
瑠菜は楓李の顔を見ることもせずに自分の仕事へと戻った。
久々に「楓李」と呼ばれた楓李は少しの寂しさを感じながらその姿を見送る。
少なくとも別れる別れないの話し合いであろうということは容易に想像がつく。
呼び名が変わったことも踏まえると、本当にそれで間違いないだろう。
「はぁ……。」
「大丈夫ですか?楓李様。」
楓李のため息を聞いて龍子は心配そうに下から見る。
しかし、楓李は龍子から目をそらして一言言った。
「彼女とうまくいってるお前に言われたくねぇよ。」
「う……うまくいっていません。」
「……はぁ?」
龍子は下を向いて下唇をかんでいた。
彼のその表情はまるで何かを我慢するちびっ子のようだった。
「……いつ手を出してよいものか……。」
「……いつでもいいだろ?」
「お願いです。教えてください。」
「お前、瑠菜の仕事の途中だろ?」
「許可は取っています。」
「んなもんに許可与えてんじゃねぇよ。バカ。」
「仕事をしっかり早めに終わらせたので問題ないと。」
楓李が頭を抱えている中、龍子はまともに真剣な表情のまま頼み込む。
どうして瑠菜が許可を出したのかはわからない。
いや、何となく想像はつく。
相当後輩の恋愛を楽しんでいるのだろう。
顔の横でピースをしてニカァっといたずらっぽく笑う瑠菜が、楓李の脳に浮かび上がる。
(後輩の恋愛で楽しんでんじゃねぇよ。)
「……楓李様。」
「ん?」
龍子は楓李の様子を見て不安そうな表情をした。
そして、勢い良く頭を下げる。
「申し訳ありません。勝手なことばかり言って。」
「……え、いや、……。」
「やっぱり自分で何とかします。」
「ちょ……おい、待て待て。」
悲鳴を上げて泣きわめくサクラをなだめながらこちらをにらむ瑠菜の様子が容易に想像できる。
このままいくと、それが現実になる日も近いだろう。
勝手に龍子を責め立てるのは別に良いが、教え方が悪いや教育がなっていないと言われるのはとても迷惑でしかない。
(しかも、今は瑠菜とも……いや、それとこれとは別だな。……多分。)
「何げっそりしちゃってんの?」
「……瑠菜。」
「ん?」
「避妊って何だと思う?」
それを聞いて、瑠菜は笑顔のまま何も言わずに楓李のみぞおちにこぶしをめり込ませた。
ゴッという鈍い音のすぐ後に、冷たい床に寝転がっていた楓李がお腹を抱えて丸くなる。
「何を今頃……。」
「違う……龍子に聞かれたから瑠菜は知ってんのかなって。」
「あんたより経験豊富だわ、バカ。」
瑠菜はあきれたように言いながら頭を抱える。
楓李はそんな瑠菜の姿を見て満足そうに笑った。
確かに、全体的に楓李に任せっきりの瑠菜からしたら避妊について楓李から聞かれるのは恐怖でしかなかっただろう。
聞き方が悪かったな、と楓李は少し反省した。
夕飯を食べ、疲れ切っていた楓李は自室の前の廊下で寝転がっていたのだ。
外は雨が降っていて少しじめっとしているが、廊下は冷たくて気持ちがよかったから。
「……瑠菜、俺の部屋で話すのか?」
「私の部屋でもいいけど。どちらにしても襲うときは襲うでしょ?」
「襲われる気満々だな。」
「エロザルのおかげでね。」
「誰が猿だ。誰が。」
誰が別れたくない相手との今後を話し合う場で押し倒すんだよ。
楓李と瑠菜は小さな台を挟んで座った。
お互いに隣同士で座るよりも少し離れて座ったほうが良いと思っているため、自然にそう座ったのだ。
「で?なんで別れたいんだ?」
「かえが無理してるから……。」
「無理なんかしてないが……まぁそう思われても仕方ないか。でも別れるまではいかなくてもいいだろ?」
「……かえはそう言うよね。うん。わかってた。」
「え?」
楓李が意味もわからずに瑠菜を見ていると、瑠菜はいつもの優しい顔から仕事をしているときのような張り詰めた表情顔へと変化した。
楓李が出したお茶をグイッと飲んで楓李をじっと見る。
いつもの瑠菜からは想像もできないような表情に楓李は固まってしまう。
「かえはよく言うじゃん。自分を大切にしろとか他人のことばっかり考えんなとか。その言葉をそっくりそのまま返す。」
「ちょ……瑠菜?」
「私のことばっかり考えて、前のかえはそんなんじゃなかった。こんな欠陥ばかりの私にも普通に接してたじゃん。」
「それは……。」
「こはくに頼まれたから?コムさんに言われたから?どちらにしても私はそんなの求めてない。」
「っ……。」
「かえが自分を犠牲にしてる姿なんかこれ以上望んでない。」
瑠菜は涙も流さずにそう言い切った。
それに対して楓李は、瑠菜の言っていることが当たっているとでもいうように下を向いて動かなくなる。
いつの間にか、楓李は瑠菜のことを心配する気持ちが特別大きくなってしまっていたことは事実なのだ。
別に楓李がそうしようとしたわけではなく、日に日にそうなってしまったのだ。
瑠菜が危ないことをしようとするのを止め、けがをしないように気をつけさせ、変な男や女が近づかないようにして瑠菜もそういうことには近づかないようにした。
「……わかった。」
「え?」
「言いたいことはよーくわかった。こういう対応をあいつは瑠菜にしてたんだな。」
「ちょ……。」
楓李の二ッと吊り上がった口の端から怒りがにじみ出る。
笑顔なのにもかかわらず、ここまで人に恐怖を与えられるのは楓李の長所だろう。
「瑠菜。」
「はいっ!」
「確かに俺は何度かあいつの、こはくの真似をした。あいつになりたかった。だが、それは片手で数えられるくらいの量だ。ほかは俺がやりたくてやった。」
「え?」
「元が似てんだよ。本質っつーか、性格というか。まぁ、そういうのが。」
楓李は少し溜息をつきながら言う。
嘘ではないようだ。
これで嘘なら尊敬するレベル。
瑠菜はそんなことを思い浮かべながらも、次の言い返す言葉を探した。
「……でも、私の前では泣かないし。意見とかも我慢してるんじゃないの?」
「いや……うーん。それはそう……。お前もあるだろ?自分より困ってたり泣いてるやつがいると冷めえるっていうか……なんというか。」
「……あるけど……ってやっぱり私じゃん。」
「これに関してはお前だけじゃねぇし。」
楓李に言われて瑠菜は確かになと、納得してしまった。
うれしさと悲しさが一気に押し寄せる。
「……ごめん。」
「ん?」
「身勝手すぎた……。」
「別に心配してくれたなら……いや、まぁ。ショックではあったけど。」
「……じゃ、別れよう。うん。かえはいい人だ。私にはもったいない。」
「なんでだよ。」
楓李があきれたように言うのとほぼ同時に龍子が勢いよくドアを開けて入ってきた。
あまりにも大きな音がしたので瑠菜はびっくりしていたが、龍子は気にも留めずに楓李を見る。
「楓李様、お客様です。」
「……こんな時間にか?」
「いつもなら帰ってもらうらしいのですが、そうもいかないらしくて。」
龍子に言われて迷っている楓李を見て、瑠菜は黙って立ち上がる。
そして、楓李に近寄るといつも楓李がしてくれるように手を差し伸べた。
「行こう。」
「ちょっ……瑠菜。いやな予感がするんだ。」
「……うん。」
「行きたくない。」
「そうだね。」
「瑠菜!」
瑠菜は少し楽しそうに廊下を進み、階段を下りる。
少し振り払えばスッと抜け落ちてしまいそうな手を、楓李は振り払おうともせずに瑠菜について行く。
龍子は後ろからそんな二人を見ていて本当に仲が良いのだなと思った。
「かえ。大丈夫。一人じゃないのは私だけじゃないでしょう?」
「まっ……。」
「……ほら、前に出て。話はあとでしましょう。」
「瑠菜……ちょ、押す……な。」
「楓李君……?」
瑠菜によってあけられたドアは開ききったまま。
入口に立っている楓李と入り口側を驚いたように振り返っている女性は少しの間動かなかった。
「えっと……すみません。間違えまし……。」
「間違ってねぇから座れ。瑠菜も。」
楓李はドアを閉めて逃げようとするが、雪紀があきれたように呼び止める。
女性と机を挟んだ反対側に座っている雪紀は女性が見ていないこともありすごい形相で二人をにらんでいる。
「なんで私も……。」
「彼女、なんだろ?彼氏が困っているときくらい助けてやれ。」
コソッと文句を言う瑠菜に、雪紀も小声で話す。
雪紀はいつもそうだ。
男尊女卑や年上、年下関係にはいつも厳しい。
コップが空いたら飲み物を継ぐ、お皿が空いたら追加を持ってくるかお皿を下げる。
当たり前だと言われて、会社内での飲み会ではたくさん指導された。
もちろん、プライベートではいつも以上に瑠菜が雪紀を使っているのだが……。
「お茶、いりますか?あ、瑠菜さんはぬるめですよね?」
「ん……うん、よろしく。」
「俺はコーヒーをくれ。」
「……いらねぇ。」
ぼそりと今にも消えそうな声で言う楓李を見て、しおんは寂しそうに笑った。
「了解です。雪紀さんはブラックでいいですね?」
「あぁ……。うん、よし。本題に入るか。楓李はもう気づいているようだが、この女性は楓李の母親だ。」
「え……?」
「……。」
ふんわりとした真っ白いワンピースに包まれた女性は少し申し訳なさそうに笑った。
優しそうできれい。
どんなアイドル雑誌にも載っていそうな見た目。
真っ黒い髪に薄く白髪が混ざっているが、それすらも美しく見えてしまう。
(元カノとかかと思った。……箱から出たばかりのお嬢様って感じだし。)
「こんにちは。私は楓李の母の……。」
「帰る。」
「は?」
ずっと下を向いて黙っていた楓李が急に立ち上がったことにより、雪紀も瑠菜も目を丸くする。
「お前は俺の母親じゃねぇ。」
楓李が捨て台詞を吐いて出ていくと、雪紀はすぐに楓李の母親を名乗る女性に頭を下げて黙って部屋を出て行った。
残された瑠菜は少しの居づらさを感じながらも、あからさまに落ち込んでいる女性を一人にしておくこともできずにその場で固まっていた。
「仕方がないのよね。」
「え?」
瑠菜に笑いかける女性はとても寂しそうだった。
「小さいあの子をかわいいと思えなくて、育てることができなくなった。あの子がつらい時、悲しい時にすら一緒にいてあげられなかったんだもの。」
「何か……理由があったんですか?」
「……あなたは不思議な子ね。月や星みたい。関わる人によって振り回されるでしょう?」
「紹介が遅れました。私、楓李さんとお付き合いさせていただいている瑠菜と申します。とても良い目をお持ちのようですね。」
「そう……。彼女……確かにもう彼女がいてもおかしくはない年だものね。」
女性は少しうれしそうな表情をして瑠菜をまじまじと眺めた。
上から下へ、体の隅々まで見られているような気がして、瑠菜は姿勢を正す。
「あの……えっと。」
「あぁ、ごめんなさい。あの子はこんな方を好んでいるのだなと思って。」
「こんな方……。」
「あっ、いえ。その、悪い意味じゃないの。こんなにかわいくてきれいな子といるとは思わなかったから。」
「……すみません。」
「え、あぁ……。私、ウメって名前なの。……美しく生き抜いてほしいからって。」
「ウメ、さん。とてもきれいでびっくりしました。……その……似ていらっしゃいますね。楓李さんと。」
「そうかしら……。ありがとう。」
ぎこちない会話でも二人は笑いあって話していた。
瑠菜の中では、きぃちゃんやコムから聞いていた姑という存在が思い浮かび、少しこわばってしまう。
嫁姑問題というものを悪く印象付けられているらしい。
(聞いてないようでちゃんと聞いてたんだなぁ。)
ウメのほうはとても穏やかで、言葉が詰まってしまうことですら当たり前のように感じてしまう。
「ねぇ、楓李君ってどんな子なの?」
「と、とてもやさしい人です。私は体も心も弱くて、いつもお世話になってしまっていて。あと、とてもモテます。ウメさんに言うのはちょっと違うかもしれないのですが。」
「ん?いいの。何でも言って。」
「あの……私にはモテる原因が分からなくて。その、楓李さんのどこが良いのか……。」
「ふっ……あはははは。」
瑠菜が申し訳なさそうに言うと、ウメは子供のように笑った。
自分の息子の話を真剣に聞いていて、きぃちゃんやコムと話す恋バナとはまた違う楽しさを瑠菜は感じる。
「すみません。こんなこと。」
「瑠菜ちゃんはあの子のことをよく見ていそうね。彼氏のことをそんな風にはなかなか言えないわ。」
「か、楓李さんは、どんな子供だったのですか?」
「うーん、私はあの子とはあまりかかわってこなかったし。五歳くらいまでしか知らないけど。」
「教えてください。」
「まぁ、いいか。瑠菜ちゃんが言うようにやさしい子だったわよ。」
あれは、あの子が四歳の時。
私は会話のない主人と、まだあまりしゃべれないあの子に頭を抱えていたわ。
あの子はほとんどしゃべらない子だった。
でも、しゃべれないわけではないみたいで病院の検診ではいつも問題なし。
私がどんなに心配して周りに相談しても、周りからは「たくさんしゃべりかけて」とか、「愛が足りない」と言われた。
でも、実際私は話しかけていないわけでもなかったし、話しかけてもこちらをパッと見るだけで何も言わないし、「そこの物とって」とかいうとちゃんと持ってくる。
本当に、病院の診断が間違っているというよりしゃべらないだけだったの。
でも子育てって、周りの目が気になるものなのよね。
周りの同じくらいの子がペラペラしゃべっている中、うちの子だけしゃべらないなんて不安以外のなんでもなかった。
まぁ、よくよく考えたら主人も口下手だったから遺伝なんだけどね。
その時の私はそんな口下手な主人すらも嫌いで、殺したろかって何度も思った。
そんなある日、私がやっぱり悩んで公園で一人遊びするあの子を放っておいて公園でうつむいてたら、あの子がお花を持ってきたの。
その時の私は、いっそのことこの子もいなくなってくれないかなとか、誘拐されてほしいなんて思ってた。
なのに、その子は私のところにきてお花を一本持ってきたの。
「……おかあさん……むりしなくて……いいよぉ?」
その言葉を、子供らしい舌足らずな感じで言うものだから、私はすんごい泣いちゃってね。
この子は賢い。
主人そっくりなんだ。
賢くて口下手な子なんだ。
私は何をしてたんだろう。
取り返しのつかないことをした。
そんなことを思いながらお花を受け取ったの。
そして、その1週間後に私は入院した。
さき(きぃ)ちゃんが預かってくれたから。
少しは安心して入院していた。
でも、主人のことは今でも許してないんだけどね。
「そして、最近になってようやく少しは許せるようになった。」
「よく許せましたね。」
「あの人は口下手だっただけだったのよ。本当に。……日記が出てきたの。その日記を見て、やっと気持ちが分かった。感謝の言葉もちゃんと伝えられた。」
「……楓李さんってあまり変わってないんですね。」
「前のほうがひどかったわよ。大切に育ててもらったのね。」
瑠菜は話を聞きながらふと思った。
楓李と初めて出会ったのは小学四年生のころ。
楓李のほうから瑠菜のほうに声をかけてきたのだ。
「ウメさん、実は私。楓李さんに声をかけられてここにいようと思ったんです。」
「え?あの子から?」
「はい。」
「へぇ、好きな子には積極的なのね。」
「そういうことなのでしょうか……。」
「大変じゃない?あの子の彼女って。ほら、何を考えているのかわからないとか。」
ウメは自分の経験から瑠菜にそう聞いた。
瑠菜が楓李を嫌になっていないか、昔の自分と重ねて考えてしまい心配になったのだ。
しかし、ウメの心配をよそに瑠菜はゆっくりと首を横に振った。
「楓李さんは、確かに言葉が足りないときもたくさんあると思います。でも、何を考えているのかわからないということは全くないです。」
「そう?いやにならない?」
「むしろとても安心します。もちろん、やさしすぎたりして嫌になる時もありますが、大体は何を考えているのかわかるので。」
「え?言葉がなくても?」
「はい。しぐさや表情で何となくですが。」
瑠菜が恥ずかしそうに言うと、ウメはすごいわねと感心しながら笑った。
十年以上ウメにはできなかったことを、瑠菜はこの歳でできると言った。
「瑠菜ちゃんって人生何周目?」
「……こんなもの、一回で十分です。」
「こんなもの……っ!相当苦労した人生を送ってきたのね。」
「え?」
ウメは瑠菜に向かって前のめりになりながら心配しているような表情で言う。
一方瑠菜は、急に言われたことに理解が進まないまま素っ頓狂な声を出してしまっているが、ウメは全く気にしなかった。
「大丈夫よ。いつでも頼ってくれていいからね。」
「い……あ、はぁ。」
「今までよく頑張ってきたわね。瑠菜ちゃんはすごくいい子ね。」
「ありがとうございます…………。」
瑠菜は戸惑いながらもしっかり返答をした。
ウメは瑠菜が人生を「こんなもの」として扱ったことから、今までどんな苦労をしてきたのかという想像に夢を膨らませている。
うるうると泣きそうな目で語るウメの想像は多少正解していたりしたが、ほとんどが不正解であり、瑠菜としては訂正したほうが良いだろうかと悩む部分もあった。
「きっと一人で考えて悩んだんでしょうね。」
(まぁ、今も悩んでるしなぁ。楓李のことで。)
「家族とも離れて……虐待とかにあったり?それならここにいる理由もわかるわね。」
(近所に住む他人の家に住み着いているだけですが。)
「学校だってまともに通えていないでしょう?」
(バリバリ通ってんだよなぁ。何なら、後輩に行かせる日もあるし。)
「それが原因でいじめとか……!あぁ。」
(毎日行っててもいじめられてたし。)
「神様なんていないと思っていてもおかしくはないわね。」
(確かに神様はいないと思うけど。そもそも、いじめの原因ってお兄だったような。)
瑠菜はウメの想像にはついていけなくなり昔のことを考えることにした。
瑠菜は昔のいじめは雪紀のせいだと思っている。
日記には「雪紀が瑠菜をかわいがり、周りから見たときに特別扱いをしていると思われたため、嫉妬した同僚や先輩方からいじめを受けた」と書いてあった。
瑠菜自身はそこまで記憶がなく、いじめられる前までしか覚えていないため、本当のことはわからない。
「……母さん……。」
瑠菜が顔をあげると、そこには申し訳なさそうにしている楓李がいた。
ウメの想像を聞いての申し訳なさや、瑠菜とウメを二人っきりにしてしまったことへの申し訳なさも入っていそうだ。
瑠菜は、とにかく少し安心した。
「楓李くん、ごめんなさい。あの時おいて行ってしまって。」
「いや……あの、その。」
「本当にごめんね。私、また病院に戻らないといけなくて。」
「え?」
「急にここへ来たことも、あの時おいて行ってしまったことも。本当にごめんなさい。」
ウメが楓李の横で立ち上がる。
座っていると上から見られていて落ち着かなかったのだ。
しかし、立ち上がっても楓李はウメよりも大きかった。
自分よりも背が高く、上から見られるという圧力を感じてウメはまた悲しくなる。
だからと言って、悲しい顔をしていられないと思いニコッと笑う。
笑おうとする。
今にも泣きそうな楓李の顔を見ないようにして。
「俺は……あなたのことを覚えていません。」
楓李はいつもよりも低い声でそう言った。
ひどいことを言っている気もするが、ウメは当たり前だと頷いている。
「でも、何となくわかった。あなたが母親だって。」
「え……。」
楓李は下を向いたまま淡々と告げる。
二人をじっと見ていた瑠菜はどうしてよいかわからないまま正座で座っておくことにした。
(なんで出入り口で話すかなぁ。)
邪魔はしたくないため、多少顔が似ている二人を交互に見るだけにする。
しかし、見れば見るほど二人の何とも言えない距離感が目立ち、瑠菜は頭を抱えたくなった。
他人の距離感を保っている二人。
そこから一歩も進まない。
そして、自分がここにいるべきではないという雰囲気。
(……はぁ、しょうがないか。)
「かえ。」
「っ……ちょ、瑠菜!」
「トイレ行きたくなっちゃった。」
瑠菜はトンっと軽くウメの背中を押した。
すごく軽く押したのだが、ウメの体はそのまま楓李に抱き着くような形で倒れてしまった。
申し訳なく思いながらも、瑠菜はそのまま部屋から出ていく。
「ったく……大丈……。」
「……大きくなったね。楓李君。」
背中越しに二人が泣いていることが分かる。
わかりたくないのにわかる。
そんな瑠菜の背中が聞いたのは、親子の会話で間違いなかった。
「んで、なぜここに来た。」
「どうやってかえを説得したのかなって。」
目の前のいかにも未成年な少女は、そう言いながらシンデレラの入ったグラスを傾けてゴクゴクと飲んでいた。
作ってあげたわけではない。
自分で飲むように作ったものを勝手に飲まれているだけだ。
「……うまいか?」
「天才だと思う。」
「ならよかった。明日には俺はサツのとこだな。」
「えー。これが飲めなくなるのは困るなぁ。あ、おかわり。」
飲み終わったグラスを差し出して笑っている顔は、まるでかわいい小学生がジュースでも飲んでいるようで、酔っ払っている様子は全くない。
楓李とウメが今何をしているかは知らないが、何十年ぶりの家族との再会を邪魔しようとは瑠菜も雪紀も思わない。
だからと言って雪紀の部屋に瑠菜が来ることは誰も予想していなかった。
もちろん、雪紀も。
「わかった。」
雪紀は先ほど作ったシンデレラにお酒を混ぜたことを後悔しながら、正規の方法でカクテルを作る。
瑠菜からは文句を言われるだろうが、気にしないようにしよう。
「はいどうぞ、お嬢さん。」
「ありがとー。」
雪紀はこの笑顔を守りたいとは思うが、守る方法がお酒だということは考えたくないと思う。
「……楓李のことだが。」
「ん?」
「俺は母親とはうまくいかなかった。だからということもあるんだが……、自分の気持ちは伝えたほうがいいと言っただけだ。」
「知ってたの?ウメさんのこと。」
「俺が精神科に入れた。相当滅入っていたからな。」
「……あれは、やっと退院ってことであってる?」
「どうだろうな。まぁ、俺からしても、あれは長かった。」
雪紀は自嘲するように笑いながら言った。
瑠菜としては親族でもないのになぜそこまでしたのか気になって仕方がなかったが、その答えは聞かなくてもすぐにわかった。
「……お兄は、守ったんだ。楓李のこと。」
「まぁな。」
雪紀は煙草をくわえながら瑠菜の一言に返事をする。
そして、遠くを見つめながらつぶやいた。
「ガキが殺されんのは見たくねぇからな。」
「……お兄……。」
「ん?」
「お酒入ってないんだけど。これじゃ、ただのジュースじゃん。」
「……お前ってやつは。」
瑠菜は不服そうに言いながらも笑ってノンアルコールのシンデレラをグイッと飲む。
「俺は子が死ぬのを見たくねぇんだが?」
雪紀はそう言いながら空になったグラスにもう一度シンデレラを作ってあげる。
もちろんノンアルコールだ。
また、一口飲んだ瑠菜に文句を言われることを承知で。