ある本の話
前日譚
「ごめん」
そう目の前にいる銀髪の髪に右側だけ茜色の紐で編んだ少女━━━御主人が謝る。
茜色の紐をギュッと握り締め、目に涙溜めながら。
何故謝るのですか。
わたくしはあなたの為に堕ちるのです。
だからそんな顔をしないで。
そう言っても御主人は一層哀しそうな表情をする。
御主人の後ろから声がした。
わたくしも聞き覚えがある声。御主人の親友にあたる人物。
「ヒロナ!待って……」
走りながら手を差し伸ばす様子が御主人の肩から見えた。だけど御主人は振り向かず声を荒げた。
「来ないで!」
「ヒロナ……」
「私は堕ちる。だけど貴女は、貴女だけは私を忘れないで」
突風が吹き、御主人が持っていた紐は彼女の元へと飛んだ。わたくしは彼女が紐を獲ったのを確認する前に御主人がわたくしの元へと飛び込み、私はそれを受け入れ包み込みわたくしごと堕ちた。
最後に聞こえたのは御主人の名を叫び呼ぶ彼女だった。
延々と続く降下にわたくしはげんなりしながら御主人を見る。いつまでこの降下は続くのだろうと考えているとわたくしの中で黙々と作業を進めていた御主人は答えてくれた。
「あと10分ぐらいかな。その間に完成しちゃおう」
寂しくないのかしら。
そう思ったけれど、御主人の表情は少し暗かったのを見てわたくしも哀しい気持ちになる。
そっか、わたくしには弟妹がいるけれど御主人はわたくし達しかいないのか。
あの者と再会できるのはほぼないに等しい。
「うん」
作業が終わったようで、少し暗いけれど満足そうな顔をしているのを見た。
「この世界ならみんな自由にやってけると思う」
そう言ってわたくしの頭を触ると力が抜けていく感覚に陥った。
なにをしたのかはわかっている。
だけどこの空虚感は生まれた当初と同じ気持ちになった。
「私は貴女の中にずっといるけど、忘れないで。私はもう貴女達の御主人様じゃなくなる。だから自分達の意志で自分の御主人様を探すのよ」
御主人の力強い言葉にわたくし達は心の中で頷いた。
本当は御主人───いや、目の前の少女に頷きたかったけどわたくし達はできなかった。
そして10分が経ち、バサっという音と共にわたくしは下界に着いたと確信する。
目の前にいた少女は既にいなく、ただわたくしはぽつりとその場にいた。
暫くどうしようかと悩んでいると、黒髪の少女が近付いてきた。そしてその顔を見るとこの人だと思った。
「御告げ通りに………本当にあった」
昔少女がわたくしの為だけに用意された御主人。
その御告げというのがそうなのでしょう。
わたくしに手を取り胸に抱き締める。
わたくしが名前はと聞くと御主人になるかもしれない少女は驚きながらも名乗った。
「本見説。君も名前があるのかな」
胸から離し、わたくしをジロジロと見つめる。
「あ、あった。………妖精の……華か」
『妖精の華』
それがわたくしの体に刻まれた名前。
わたくしの嫌いな文字。
わたくしをその名で呼ばないで。
わたくしの名前は───だから。
わたくしを見つけて。
わたくしの名を呼んで。
───御主人様
御主人である説に子供ができ、それから十数年経った。
説の血筋を持つ子達はわたくしに触れ、そしてわたくしを所持している副作用で困らせながらも自立しまた子供を産んだ。
そうやって世代が変わりわたくしの持ち主は変わっていった。
ある代から変わった。
名前は雪華で雪とわたくしの字を使ったらしい。
そして2年後にまた子供を産んだ。名は雪奈と呼ぶらしい。
数十、百数年経ってもわたくしはたまに深い眠りにつきながらもその世代の御主人と過ごしていた。
ふと目を醒ました。
「あっ」
少年の声?それにわたくしに何か乗った……いや染み込んだ?
「どうしよう……」
困っている声に耳を傾ける。
「あっ見つけた!……ってあれ、血が付いてる」
わたくしを見失っていたのですか。というかさっきのはこの少年の血液ですか。ふむふむ。
「あっごめんなさい!本を汚して……」
「大丈夫!ありがとう見つけてくれて!」
わたくし内心では大丈夫じゃないのですけれど。いやそれより……
「なんでわかるの?」
「え?」
わたくしの副作用があったはずなのに何故見えるのかしら。偶然?
「そりゃ、ずっと一緒にいたからじゃないの?」
そういうものなのかしら。ヒロナ様も彼女と同じような感じだったのかしら。
なんとなくこの少年を覚えておこうと少年の血液を記録した。
だけど……
ヒロナ様が造った世界で雪と雪華が行方不明になった。
わたくしだけじゃ助けに行けない。
雪奈が必要だ。だけど雪奈を守れるのはわたくししかいない。どうしたらいいのかわからない。
できることは雪奈を見守り守護するだけ。
雪奈が高校生になり、定期的にヒロナ様が造った本の世界に行くことが増えた。同時にわたくしの同胞と再会することが増えた。
危ないと言っても雪奈は行くのをやめない。それに学校から行くことも増えた。
何故そこまでするのか。答えはわたくしもわかっている。だからわたくしは強く止められない。
本の世界に行くのならせめて雪奈を守れる同胞がほしいものだ。
そんな想いを胸にしまっていたある日、転機が訪れた。
彼と出会った。
彼はわたくしを───と呼んだ。