70 院長ライカとの雑談1
久しぶりに魔力を注ぎ過ぎるというしくじりをしてしまった。
「あてっ」
切り傷を背中に負った、ブロンという名の男性だった。年は40歳ぐらい、日焼けしていて、石工なのだという。うっかり尖った石にぶつかり、背中を切ってしまったそうだ。
それとは別に治療室に入ってきたときに、身体が左側へ傾いでいたように、ティアは思っていた。
もう日が傾いている。ブロンがこの日最後の患者となるだろう。ティアはもうクタクタではあった。集中力も限界に近い。
「あっ、ごめんなさい」
我に返ったティアはすぐに謝罪し、魔力の調整に集中した。傷は傷で当然、しっかりと治さなくてはならない。
「いや、よく分かんねえけど、痛みが引いてるからありがてぇよ」
額に汗を浮かべて笑うブロンを見て、ティアは申し訳なく思う。
(集中して、集中)
自分に言い聞かせながら、しばしティアはヒールをかけ続けた。
やがて傷が塞がる。さらに傷痕も消した。
(よし)
ティアは心のなかで一息つくとさらに探りの魔力をブロンの全身に流す。
(うん、やっぱり、この人)
左の脇腹に悪いところがあるようだ。だから庇おうとして姿勢が悪い。
もっと医学の知識があれば、なぜ、何が悪いのか。この症状にどういう名前がつけられているのかも分かるのだろう。
(でも、今はとりあえず治そう)
ティアは探りの魔力で患部に触れると、悪いところをヒールで解きほぐそうと試みる。まだ、知識も何もない。感覚頼みではあるものの。
「おっ?おおっ?」
背中の傷と痛みがなくなり、もう終わったかと身動ぎしていたブロンが声を上げる。
座っていてもなお、左に傾いていたのがまっすぐになってきた。だが、完全に治し切る前にティアの魔力が尽きてしまう。
「っっ!」
腕から力が抜けて、だらりと垂れてしまう。
これ以上は自分のほうが危険だ。
「すごいな、お嬢ちゃん。脇腹まで楽になったよ」
大喜びで立ち上がり、動作確認するブロン。
ティアはなんとか笑みを張り付けて頷いた。
本当は治しきれていない。自分も笑える余裕が本当は無いのだが、それでも笑う。
「ありがとよ。怪我したらぜひまた診てくれ」
ブロンが豪快に笑って受付へと去ろうとする。
「もう、怪我しちゃ駄目ですよ」
がっちりした背中にティアは声をかけるのであった。
(本当はもう少し、完全に悪いところを消したかったんだけど)
或いは自分の感覚では治しきれていないと思っても、実は完治出来ていたのだろうか。
ブロンの帰り際の元気さを思い出し、ティアは首を傾げる。
(もっと、人の身体の勉強をして、どうなっていれば治るのか、とか知りたいな)
魔力も余剰に注ぎがちな気もしていた。本当はもっと効率よく出来るのではないか。
自省しつつも、ティアは1日分の診察記録をまとめようと書き物机に向かう。
「珍しく失敗したから、穴埋めしたのかい?」
少ししわがれた声がした。治療院院長ライカの声だ。
若い時に治療の現場で大声を出すうちに声がしゃがれてしまったとのこと。顔を見なくともすぐにライカと分かる。
(レンファさんも喉、悪くしちゃうのかな)
今、ティアにとって治療院で大声を出す人といったら事務員のレンファである。いつも診察費の支払いのときなど待合室にいる人を大声で呼んでおり、診察室のティアにも聞こえるほどだった。
「そんなつもりじゃ、なかったんですけど」
ティアは口籠る。痛い思いをブロンにさせたのは申し訳がない、というのも事実ではあるが。
ヒーラーとしての仕事を始めてから、また魔力量が増えたようだ。普通にただ言われたところを治すだけなら、体力的に余力を感じることが増えた。
(実は治してから、怪我人の皆さんに最近、してることなんだけど)
申告された患部や負傷を治し終えた後、もう一度、探りの魔力を流す義務を自分に課したのである。ブロンのときのように時間と魔力に余裕があれば治すところまで、やり切るようにしていた。
(そしたら今度は、すんごい疲れるようになったけど)
始めたのは3日ほど前からだ。慢性的に肩が痛いという人を治しているときに、その人の足も悪いことに気付いたのがきっかけだった。
だが、先のしくじりはまた別の理由からだ。
「すいません、失敗しちゃって。その、リドが魔獣討伐に行ってて。リドのこととか魔獣のことを気にしてたら。あと、リドのこと気になるのに、今回はドラコのこと、この間ほどは、ずっと気にならなくなってるから、つい、なんでだろ、とかいろいろ考えちゃって」
突き詰めると恋愛ごとで仕事に影響を及ぼした、ということになるのではないか。
ティアは心の底から反省して頭を下げる。
「本当にすいません。さっきの患者さん、ブロンさんにも申し訳ないです」
そもそもがライカに謝罪するのも筋違いかもしれない。
本当に申し訳なく思うべき相手は先のしくじりならブロンであるし、他に失敗をしているのなら、それで迷惑を被った患者の方だ。
ライカにものすごく怒られるのではないか。
ティアは思い、身を縮めしまうのであった。