57 恩義
「ほら、お父さんにちゃんと自分で報告なさい」
硬い声で妻のユウリが言い、7歳になる一人息子のロイを自分の方へと押しやる。
ヒックスはシャドーイーグル討伐後、森から直接、帰宅したのであった。討伐着手した分隊は後処理を免除されたので詰め所へ寄る必要もなく、直帰を許されていたからである。
家族の無事な顔を一刻も早く見たかったので、ヒックスもそうしたのだが。
「おいおい、どうしたんだ?」
まだ玄関で靴すらも脱いでいない。
うつむくロイの赤い頭頂を一瞥し、続いて妻の強張った顔を見て、ヒックスは尋ねる。
正直、家庭内の厄介事の前に一休みしたいのが本音だった。自分も危なかったのだ。疲労が肩に重くのしかかる。
「ごめんなさい」
妻のユウリよりも先にロイが自ら告げる。うつむいていたところから、さらに腰を折って頭を下げた。
(なにかやらかしたのか?酷いいたずらでも?)
元気でやんちゃではあるが、大きな悪さをしたことのない子供だった。
「僕っ」
ロイが何か言いかけて口ごもる。相当、言いづらいことのようだ。
ヒックスは黙って、続く息子の言葉を待つこととした。きちんと父親に自分から謝れるかどうか。幼い息子にはとても大事なことだ。だから母親のユウリも口を挟まない。
「僕、父さんの言いつけを破った」
告げるロイの目から涙が溢れる。
「何?」
自分のした、どの言いつけなのか。破って泣かれる程のものなどあっただろうか。ヒックスは分からなくて訊き返す。
「シャドーイーグルの警報が出てるのに、友達のところに遊びに行ったんだ。ちょっとぐらい良いって思って。母さんにも内緒で。怒られるから。こっそり内緒で」
しゃくりあげながらロイが説明する。
極めて危険な行為だ。大事な一人息子がシャドーイーグルの鉤爪に掴まれて、大空へと連れ去られる姿をヒックスは想像した。
少し想像しただけでも胸が苦しくなり背中が寒くなる。そうなった時のロイが感じるであろう恐怖を思うと自分も恐ろしいのだった。
魔獣の怖さは自分もよく分かっている。だから、シャドーイーグルに限らず『魔獣接近の警戒報が流れている時には絶対に一人で外へ出るな』といつも何度も言っていた。
「なんで、そんな危ないことをしたっ!?いつも言ってるだろう!?魔獣は怖くて危ないって!」
それでも口をついて出てくるのは叱責なのであった。親として子供が危険へと突き進むのを止めるのに、他に有効な手段が今は浮かんでこない。
「うん、本当に、怖かった。魔獣があんなに大きいなんて」
驚くべきことをロイが言う。
大きさが分かるぐらい、近づいたということなのか。
ヒックスはユウリに視線を送る。じっと自分とロイのやり取りに耳を傾けるつもりのようだ。
「何?ロイ、どういうことだ?」
ヒックスはまたも訊き直すこととした。
「僕、外でシャドーイーグルに襲われた」
恐れていた事態は既に実際に起こっていたことなのであった。
思い出してまた怖くなったのか、ロイが涙を拭う。
「なっ!」
信じられない出来事にヒックスは絶句する。思うことはいくらでもあるが、考えがうまくまとまらない。
「大丈夫かっ!?そんなっ、シャドーイーグルと出くわしたのかっ!?」
ヒックスはしゃがみこんで小柄なロイの身体を検める。大きな怪我は無いようだ。少し考えれば、怪我などしていれば今頃は治療院にいるはずだった。
どうなっているのか。何が何だか理解が追いつかない。
「実は私もよ」
黙ってやりとりを見ていたユウリが静かに告げる。
「なんだと?どういうことなんだ、ユウリ、説明してくれ」
とうとうヒックスは懇願することとなった。とにかく今、間違いなく2人は自分の前にいる。
(シャドーイーグルに2人して襲われたのか?なんで無事で済んだ?いや、無事で良かったんだが)
混乱する頭でヒックスは思う。自分も山岳都市ベイルで生まれ育ったのだ。魔獣に一般人が襲われればタダでは済まないと、肌身に染み付いている。
「私も、この子が勝手に家を出ちゃったから、連れ戻そうとして家を出たの。そしたらいきなり、空が暗くなって、身体が浮かんだ」
ユウリに至っては実際にシャドーイーグルに攫われかけていたのだ。
思い出すのも悍ましいと言わんばかりに、ユウリが自分で自分を抱くような仕草をした。
自分のせいで母親まで危険に晒したという後悔からか、ロイが唇を噛んだ。
「たまたまガウソルさんのところに居候している剣士さんが助けてくれたから、助かったけど」
ユウリが感謝の気持を滲ませて告げる。
ガウソルの古い知り合い、魔法剣士のマイラだろう。
ドクジグモを火炎球の一撃で消し飛ばしていた腕利きだ。マイラならばシャドーイーグルにも遅れを取らない、とヒックスにも納得出来た。
「マイラさんがいてくれて、運が良かったな」
ため息を付いてヒックスは言う。
守備隊の主力が出撃していて町中は手薄であり、後手に回っていた。
マイラがいなかったなら大変なことになっていただろう。
ヒックスは苦笑して告げた。後でガウソルのところに行って、マイラへ礼を言おうと思う。
「じゃあ、ロイ、お前もマイラさんに助けられたんだな。いいか、本当に魔獣は怖いって分かっただろ?もう絶対、父さんと母さんの言いつけを破っちゃ駄目だからな」
そこはまた、厳しい顔だけは作って告げる。だが、自分でしっかり謝れたのだ。もうロイも十分に分かっている。ユウリからもこってりと既に絞られているのだろう。優しさも少し滲ませてヒックスはロイに言い聞かせる。
「父さん、ごめん、少し違う」
また、気まずげにロイが言う。
ユウリも微妙な顔だ。
「僕は、神竜様にに助けられたんだ。まだ小さかったけど、強くて、きれいな光を出して、シャドーイーグルをやっつけたんだよ」
ロイが顔を上げてはっきりと言い切った。
「ロイ、神竜様は」
言いかけて、ヒックスは思い当たってしまった。
「本当なんだよ、父さん。嘘じゃない。あれ、絶対に神竜様だよ。きれいな神官みたいなお姉さんもいたし」
やはり聞けば聞くほどロイが何を言っているのか。符合してしまう。
(ティア嬢と、ティア嬢の孵した竜の子か)
他に小さな竜など町中にいるわけもない。
魔法剣士マイラにユウリも助けられた。2人が襲われたのはガウソルの家の近くだったに違いない。
「この子、帰ってきてからずっと、そう言ってて。でも確かにこの子が襲われたとき、マイラさんは私の近くにいた。他に誰がって、確かに思うけど」
神竜がいるなどとは、思いもよらないユウリが首を傾げていた。
「いや、神竜様で間違いない」
ヒックスは掠れた声で断言していた。
「父さんは信じるぞ。ロイ、お前は神竜様に救われたんだ」
細かい経緯など分からない。分かる必要も無かった。
ただティアと神竜が自分の大切な宝を救ってくれたことに間違いはないのだから。