3 山岳都市ベイル
イワトビザルの襲撃から助けてもらい、馬車に揺られること数時間後、ティアは山岳都市ベイルに到着した。まだ日は高い。お昼ちょっと過ぎだ。
(着くのが夜だと治療院、やってないかもしれないもの)
ティアはホッとしながらもキョロキョロと辺りを見回す。思っていたよりも大きくて立派な都市だった。まだ何が何の建物かも分からないが、外壁は綺麗で、多くの人々が石畳の通りを行き交う。ただ、山間に切り開かれた都市だからか、見るからに階段や坂が多いのが少し憂鬱だった。
だが、とにかく無事に着いたのだ。
(魔獣に襲われたときは、早速もうダメだって思ったけど)
ティアは灰色の猿が馬に飛びかかる姿を思い出して、ゾワリとした恐怖を思い出す。猿どもが馬を貪り食っている間にリドナーら守備隊が間に合ったのだった。
「え、と治療院は」
ティアの視界にそれらしい建物はなかった。馬車の停留所である。乗ったり降りたりする人の波から逃れて道の端に立つ。
迎えの者も付き従う侍女などもいない。皇都からの乗り合い馬車を見つけるだけでも大冒険だった。
事実上の勘当であり、路銀を渡してもらえただけ、甘いのかしれない。
(さっきの人がいれば、教えてくれたのかな)
山岳都市ベイル守備隊のリドナーと名乗っていた。灰色の髪の若く同世代の男性である。
(可愛いって、何度も)
思い出すだけで赤面してしまう。あんなに手放しで容姿を褒められたのは生まれて初めてのことだ。いつももっと美人の姉が一緒だったのだから。
「でも、いきなり頼るのは」
さすがに不躾ではないかと思う。
(それにまだ、町に戻れてないと思う)
自分は馬車で移動していたのだから。リドナー達の移動手段は徒歩なのではないかと思う。
しばし考えてティアは『とにかく地図を買おう』という結論に至った。お金はまだ残っている。
一応、路銀はたっぷりと与えられたのだが、今後の仕送りなどは一切期待するな、と父からはキツい口調で念押しされていた。
勘当である以上、恨めしくすら思わない。
(別に、あの人たちを恨むつもりはないし、なんだかんだ、ここまで育ててくれて、ありがとう)
ただ、どうしても相容れないものがあるだけだ、と割り切ることにティアはしていた。そして同じ道を歩むこともない。
(でも、私、神様にだけは祈らない。姉さんを見殺しにしたのに、なんで祈りなんか捧げてあげないといけないの?)
山岳都市ベイルの治療院に勤めることとなったのはむしろ僥倖かもしれない。祈らずに、自分のできることを活かせるのだから。
目下の問題は自分があまりにも世間を知らないということだ。
(こういうところが私、お姉ちゃんと違って、だめなところ)
聖女の役割を期待されているのに祈らない。で、あれば追放されるのは分かり切ったことではなかったか。
(先がちゃんと読めてれば、こうなるの予想して、学院の勉強じゃなくて、世間勉強してたはず。今は道がわからないんだから、地図が欲しい。でも、地図ってどこにあるの?)
分からない以上は考えるしかない。ティアは鞄を手にしたまま立ち尽くす。建物陰から見ている者がいることに気付かない。
(そうだ、本屋さんだわ。地図って本みたいなものじゃない)
ようやく思い至ったティア。
歩き出して本屋を探す。ブランソン公爵家には書庫があったので、本屋についてもよくわからないのだが。
道など分からないまま、看板でもないかと彷徨ってしまう。建物の外観からは察しなどつかないのである。
彷徨い歩く内に人気のない裏通りに迷い込んでいた。
(あ、どうしよう)
停車場近くの大通りとは打って変わってゴミが散乱して汚い裏通り。心無しか同じ土地なのに暗い気がする。
ティアは心細くなって踵を返す。
「ちょっと待ちな。あわててどうしたんだ?お嬢ちゃん」
建物に隠れた死角から、大きな男が3人、現れてティアの行く手を塞ぐ。
「えっ」
突然のことにティアは固まってしまう。肌の色艶も悪く、人相も悪い。服装も薄汚れて汚い。チンピラとかゴロツキとか言われる人種だとティアは気付き怖くなった。
建物に挟まれた裏通り。逆を抜ければ逃げられるのではないか。一拍遅れてティアは気付く。
振り返ると、別の男がニヤニヤと下卑た笑いを浮かべて立っている。
「どう見ても、良いとこのお嬢様だよなぁ?お家に連れて帰ったらご褒美が貰えるんじゃねえか?」
4人のうち後ろに立っていた一人が言う。額に傷があって、とても怖い。
「まぁ、お家に帰る前に俺たちと遊んでくれよ」
また別の男が言う。
怖くて俯いてしまい、ティアは誰の言葉かも分からない。
(やだ、誰か、怖い)
何をされるのか。どんな目に合わされるのか、知れたものではない。
ティアはただ恐ろしかった。
たとえ嘘でも神に祈っていれば、怖い目に合わずに済んだのだろうか。
(でも、もう祈りの言葉なんて忘れた。それに信用できない。神様はお姉ちゃんを、助けてくれなかったじゃない)
この期に及んでも神に祈れない自分。ティアはぐっと目をつぶって恐怖をやり過ごそうとした。
「おいおい、そう怖がんなって、ちいっと遊んでくれりゃ、本当に家まで帰してやるよ」
へらへらと笑いながら男たちの誰かが告げる。
影が近付いてきていた。
自分を囲う輪を狭めているのだ。
「こんな上品そうな女の子が、お前らみたいなのと遊ぶわけないだろ」
聞き覚えのある声が割り込んできた。
「あ、リドナーさん」
ティアは顔を上げた。男たちの間から紺色の制服姿が見える。
「あ、やった。覚えててくれた」
灰色の髪をした少年がニコニコと笑って手を振ってくれる。
「なんだ、お前、守備隊か?チビのくせに」
男が一人、振り向いて毒づく。
「ちょっと遊ぼうって、誘ってるだけだ。邪魔すんなよ」
また別の男が告げる。その身体が吹っ飛んだ。
鞘に入ったままの剣を振り抜いた、リドナーのニコニコ顔がある。
「てめぇ、いきなり手を出してきて正気か?」
呆気に取られた顔で仲間の男が告げる。殴られた男が壁に叩きつけられて気絶していた。
「俺は第26分隊のリドナーだ」
残りの男たちを見回して、リドナーが名乗る。
色めき立っていた男たちがピタリと動きを止めて口も噤んだ。
「26分隊って、ガウソルさんとこか」
気まずそうに一人が呟く。
様相が変わったことに、ティアは頭がついていけない。
ただ戸惑ってリドナーと男どもを見比べるばかりだ。
「それに、この子は新任のヒーラーだ。あまり粗相すると怪我しても治してもらえないぞ」
更にリドナーがティアを見て微笑んで告げる。これが駄目押しになった。
「ちっ、そうかい。悪かったよ」
倒れた男に肩を貸して立ち去ろうとする。
26分隊というのは怖い人たちなのだろうか。また別の不安がティアの中で頭をもたげる。
「本当は俺たちだからとか、ヒーラーだからとかじゃなくて、女の子に絡むなよ」
手をひらひらさせて、リドナーが男どもを追っ払った。
「大丈夫?何もされてない?」
姿が見えなくなるとリドナーが歩み寄ってきて尋ねる。
「はい、あの、ありがとうございます」
また助けてもらってしまった。
「この町は、ネブリル地方の隣だからね。魔獣相手に強い守備隊とか、いざってときに助けてもらうヒーラーにはチンピラどもも頭が上がらないんだよ」
ティアの不安を見切ったかのように、苦笑いを浮かべてリドナーが説明してくれた。
「そうなんですね」
まだ情勢がよく分からないティアである。ただ相槌を打って頷くしかなかった。
「さすがに殴ったのはやり過ぎだったかもだけどね」
頭を掻いて告げるリドナーの端正な横顔を見上げて、改めて今までとは違う場所に身を置いているのだ、とティアは痛感するのであった。