201 ジェイコブの葛藤
本調子であれば論破して、ビョルンを部下にすることも可能だっただろう。むしろ容易いことだ。
ジェイコブは会議室を後にして、独り軍営に新設された自身の執務室に戻ってきていた。リドナーもトレイシーもいない。自分にも、一人になりたいときぐらいはあるのである。
(予言者に内通者、か)
敵である存在について、心のなかに棘のようなものが刺さっている。今ひとつ全力で、専門分野の研究対象であるビョルンを部下にしようと出来なかった。通常ならば考えられないことだ。
ジェイコブはため息をつく。
(しかし、それにしても、ティア嬢の力のすさまじさ、か)
ゴルアゴスパイダーとの戦いでは、ティアの参戦を止めようと、ジェイコブには思えなかった。
神竜ドラコ自身が乗り気ならば、むしろ極めて有用である、という判断である。
(まさか、あのときには既に魔力を持て余していて、加護すら与えているとはな)
ビョルンの背中か肘あたりには聖紋があらわれていることだろう。
(そもそも、神竜様を肥満体に出来るとは、一体どれほどの魔力なのだ)
半ば呆れてジェイコブは思う。少しは戦わせるなり運動するなりをさせたほうがいいのかもしれない。だが何か神竜ドラコ自身にも考えがあって、肥っている可能性もある。
(ティア嬢についても前例はなく、神竜様の前例も1000年前ときている)
ジェイコブはなんとなく執務室を見渡し、そして立ち上がった。
「私の体験や知見も1000年後には役に立つのかもしれない。まぁ、1000年後の人々は幸運だったな。この私の研究であれば役に立たないわけがないからな」
そう思うと感慨深くもあるのだった。
執務室の中は入り口以外は全ての壁面が本棚で埋め尽くされている。まだ幾らか空隙が目につくものの、蔵書は増える一方だ。やがてはぎっちりと書籍で埋め尽くされることとなるだろう。昔と同じ結末が容易に想像がつくのだった。
「しかし、ビョルン君も看過は出来ん、か。せっかくの、今となっては希少な聖者の卵だ」
ジェイコブは一応、今後のことも考えて、聖紋と加護、聖者について参考資料に目を通しておかなくてはならない。頭に入ってはいても何か新しい発見があるかもしれない。
数冊の書籍を手に取った。
第1部隊に引き込めず、若干の不満はあるものの、私情で判断を曇らせるつもりもない。
(だから、別にビョルン君のことはいいのだ)
本棚と向き合ったまま、ジェイコブは思考だけを動かしていく。
(問題はあの赤いローブの男、予言者とやらの方だ)
リドナーの素性については、やはり記憶を辿って思い出せたからこそ、迷うことなく魔剣ズウエンを授けたのである。想像以上の威力であったため、すぐに魔力を補充しておいた。
(成長されたので、すぐには分からなかったが、あれはクレイ・ディドル王太子殿下ではないか)
父王の存命中、当然優秀だったジェイコブは研究成果の表彰で何度か謁見を許されたことがある。王の脇に似た顔の少年がいたのだ。当時はまだ10歳前後だから、今となってはすぐに気付けなかった。
ディドルというのはティダール王家の家門名である。
(つくづくシグはとんでもないものを拾う)
そこは思わずジェイコブも笑いたくなってしまう。
神竜の卵を回収し、王太子殿下まで保護していたのだ。情勢が情勢ならば大手柄である。自分で全てを台無しにしてしまうのが、ガウソルという男だった。
(そこを考慮の外に置いても、奴らは敵だ)
ジェイコブは赤いローブの男、予言者とリドナーとの会話を全て聞いていた。
リドナーも戸惑い、予言者とやらも高揚し過ぎていたから自分の盗み聞きに気づかなかったのだ。
結果、自分は敵の素性についても思い至ってしまう。
(戦いづらいな、正直。直接、相手取りたくはない。だから、今後も魔獣をけしかけてくるだけなら、まだ気楽なぐらいだが)
ジェイコブは本棚の前でただ佇んでいる。
リドナーを『殿下』と呼んで敬っていた。それだけでも容易に類推できる。
(つまり、かつての私の同僚や仕事仲間もいるかもしれん。そういう根の深い組織なのではないか)
ジェイコブは憂鬱になる。
たとえ親兄弟が相手でも、自分が正しいなら良いのだ。遠慮する必要もない。
(ティダールの再興、これは正しいのか?今更?)
リベイシア帝国が上手く旧ティダール王国を統治しているかと聞かれれば、微妙なところだ。ほぼ『統治』というよりも『放置』している印象である。つまり、領土としては持て余している格好だ。
「神竜様に、王太子殿下、聖女で貴族の令嬢まで妃候補となれば」
自分も聞いていた。確かにおあつらえむきではないか。
「いかんか」
ジェイコブ自身もやれるならティダール王国再興をやってみようか、という気になってしまう。
リドナーの身分を明かし、ティアを妃とすれば神竜ドラコとの繋がりも強固になる。正統性を得たリドナーを国王として推戴すれば終わりだ。万事が丸くおさまる。
(リドナー君が身分を秘したのは、証拠が何もなかったからだが)
今後は、魔剣ズウエンを使いこなせていることが名刺代わりとなる。見る人が見れば王家縁の者と分かるのだ。
(そして、予言者とやらの一派もまとめて、召し抱えてしまえば、魔獣操作の件も含めて問題もいくつか解決する)
ジェイコブはそこまで思考して苦笑いだ。今のは、良い側面しか見ていない。
「馬鹿げている」
思わず口に出していた。いくらなんでも、一旦、領土とした以上、リベイシア帝国が黙っているわけがない。
せっかく曲りなりにも平和を享受しているのだ。その平和を投げ売って大国と争おうというのか。
勝っても負けても利点が少ない。
(こう見えて、私は平和主義なのだ。戦争などしていれば研究ところではない)
自分としては美女を時折眺めながら、研究に没頭するというのが幸せなのだ。
戦争という技術進歩の必要性に駆られることで、技術の発展を促進するなどとという見解もあるが、ジェイコブとしては賛同できない。
(本当に優秀な人間は自分で精進していくものなのだ)
ただの甘えで言い訳に過ぎない。
更には魔獣を他者にけしかけるような者と同列になりたくもなかった。
そこまで考えてからジェイコブは今後、どのようにしていくのか。身の振り方について、思いを馳せるのであった。