192 氷の魔剣ズウエン2
音もなく咆哮もあげず、ゴルアゴスパイダーが動き出した。8本の脚で迫ってくる。
「くっ」
リドナーは斬りかかろうとするも、相手のほうが速かった。
前方2本の脚で掴みかかってくるのを、前回りして躱す。
敵の下を掻い潜るような格好となったので、いかにも柔らかそうな腹を斬りつけるつもりだったのだが。
(早いっ、反応も)
既にゴルアゴスパイダーが逃げていて、自分からは離れてしまっていた。
「言っただろう?あれは上位種だ。毒がないからといって侮ってはならん。ドクジグモよりも遥かに強いからな。一説によると、そもそもドクジグモを捕食する立場だそうだ」
どこからそんな一説を仕入れたのだろうか。
ジェイコブが他人事のように後ろから告げる。リドナー自身やゴルアゴスパイダーの動きに合わせてジェイコブも巧く立ち位置を変えているのだった。
「素早い分、黒雲虎よりも厄介かもしれん。脚の数が多いのだからね」
素早い分、ジェイコブが話している間にも襲ってくるのだった。
リドナーは答えず、魔剣ズウエンを振るって斬りつけようとする。だが、ゴルアゴスパイダーも警戒しているのか、大きく退がって躱してしまう。
何度か同じ攻防を繰り返す。
ゴルアゴスパイダーが深追いをしてこない分、リドナーも負傷はしないが、有効な攻撃を加えることも出来ていない。
「なんとか動きを止めたまえ。私が単発を撃っても、躱されて神殿を壊してしまうだけなのだから」
業を煮やしたようにジェイコブが告げる。赤く樫の杖が光っていた。なんらかの魔術を発射する準備はしてあるらしい。
(ていうか、ジェイコブさん、杖に魔術を残す、なんてこともできるのか)
杖が特別なのかジェイコブが特別なのかもわからない。
「くっ!」
リドナーは踏み出して斬りつけようと目論む。
だが、ゴルアゴスパイダーの動きは横にも速い。
(脚の一本でも斬り飛ばせられれば)
攻撃力も機動力も奪うこととなるのだが。
「先程から君は距離を詰めようとしてうまくいっていないが。気をつけたまえ」
またジェイコブが口を開く。
「奴はただ捕まえて牙を突き立てるだけではなく、糸の塊を吐いて敵の動きを封じるのだ」
ちょうど、ジェイコブが告げたのと同時に白い塊が飛んできたところだった。
(説明が遅い)
リドナーは剣で受けようとした。
「ぐわっ」
だが、剣身で受け止められるようなものではなかった。あえなく剣ごと糸の塊を受ける羽目になり、壁に張り付けられてしまう。
(両足は動く。武器もまだ持ってる。でも)
身体と腕をピクリとも動かすことが出来ない。
持ってはいても剣を振ることも出来ず、接近されても走ることすら出来ない状態だ。
つまり、敵が近づいてきたなら好きなようにされてしまう。
「マズイな。私が無防備だ」
ジェイコブが自分を一瞥してボヤく。
「我が敵を阻め。火炎壁」
杖を掲げて半円状に炎で壁を作った。天井近くにまで伸びているのでゴルアゴスパイダーも容易には近づけない。
「時間稼ぎにしかならん。早く脱出してくれたまえ」
ジェイコブがゴルアゴスパイダーに目をやったまま告げる。
(これ、獲物だっていう魔獣も動けなくなるやつでしょ)
人間のリドナーは、なんとか両腕に力を込めるもピクリとも動かせないことに絶望する。斬ろうにも魔剣ズウエンを動かすこともままならない。
「ジェイコブさん、駄目です。まったく動かない。魔術でなんとか」
リドナーは素直に頼むこととした。無駄なことをしていては時間を無駄にするだけなのだ。
「ふむ。困ったことにちょうどいい塩梅の術など無いのだ。君を巻き添えにしてしまうようなものばかりでね。いや、優秀過ぎるというのも困るものだよ、ハッハッハ」
たしかに正論なのかもしれないし、へまをしたのは自分のほうだ。分かってはいても、ジェイコブはジェイコブなのだ、とリドナーは腹立たしくなってしまう。
「だったら、せめて近づけないうちに攻撃を」
リドナーは炎の壁に触れようとしては熱気に尻込みしているゴルアゴスパイダーを見遣って告げる。
「だから言ったではないか。今、撃っても躱されるだけだ。それに火炎壁を維持するのも、こうして無駄口を叩くくらいが限界で集中せねばならん。まして、他の魔術も同時に撃とうなどとはね、私に甘え過ぎだよ」
だったら無駄口も叩くべきではないのである。
腹立ち紛れにリドナーは思う。
(くそっ、どうしたら)
思い、さらに魔剣ズウエンを握る手に力が籠もる。次第次第に青い光が増していることにリドナーは気付いた。
「ふむ、まずいな」
ジェイコブが魔剣ズウエンを見るや呟く。
更にはあろうことか、ゴルアゴスパイダーも自身の魔術火炎壁も放りだして、待合室から逃げ去っていく。
(何を?)
動けない身でゴルアゴスパイダーと二人きりにされたリドナー。
だが、ジェイコブは正しかった。
パキパキ、カチカチと音がするのだ。
空気が冷えていく。氷の粒が視界に現れ始めてリドナーは気付く。
(でも、俺は大丈夫だ)
まるで冷気など感じない。
視覚で冷たいようだ、と総合的に気付けはするものの。
「うわっ」
思わずリドナーは声を上げていた。
それでも寒さに構わず、自分にとどめを刺そうとして近付いたゴルアゴスパイダーの眼前に、氷の武人が立っていた。
透明な身体ごしに歪んだ大蜘蛛が見える。
右手に氷の剣、左手には氷の丸盾を持ち、ずいぶん昔風の鎧兜を装着した姿だ。古い歴史の本の挿絵で見るような、そんな装備である。
(これが、氷の魔剣ズウエン)
思うリドナーの眼の前で氷の武人が剣を一閃させた。
斬ることはなく、ただ、ゴルアゴスパイダーの巨体が一瞬で凍結してしまう。
さらに盾で殴り飛ばされて、凍結した身体が砕ける。
ただ圧倒的な冷気を目の当たりにし、リドナーはゴルアゴスパイダーとは違った意味でこおりついていた。
物足りなさそうに氷の武人が辺りを見回し、束縛されている自分に気付く。
(これ、俺も不味いんじゃ)
命を吸う氷の魔剣などと呼ばれているのだ。魔剣なのだ。
(俺の命も吸われる、とかじゃ)
思うリドナーに対し、氷の武人が手を伸ばし、動きの自由を奪っていた蜘蛛の糸を指で摘む。凍りついた糸を軽く指に力をこめて砕いた。
「えっ」
戸惑うリドナーに対し、当然、何も言わない氷の武人。
さらには姿も消した。
「これが、命を吸う氷の魔剣ズウエン」
しかし、自分の命を吸われることはなかった。何も変わりなく生きている。むしろ、優しく助けられたのではないか。
輝きを失った刀身を見下ろして、リドナーは思うのであった。




