闇はあやなし ー第四書庫のかくれんぼー
墨の匂いがする。
手のひらサイズの紙片に、土御門秋春が小筆で書きつける。達筆な崩し字と、複雑な文様。
「精が出ますなぁー」
カップを手に持った姫橋優子が、背後から秋春の手元を覗き込んだ。
「繁忙期だからな」
ぎしり、と椅子が鳴る。
小筆を置き、秋春は優子の差し出すカップを受け取った。中身は深蒸し緑茶。
「……雑な味。淹れたのはお前か」
一口飲んだ秋春の感想に、優子が彼の頭を叩く。
「先輩をお前呼ばわりしなーい」
「タメ口はいいんかい」
「口が悪いのは治んないでしょー? 純也を見習えー」
デスクでパソコン作業をしていた白鳥純也が顔を上げた。色素の薄い茶髪が揺れる。
「ぼ、僕を巻き込まないでくださいよ」
「大体、どういう風の吹き回しだ、優子。今日のお茶くみ当番は純也だろ」
ふふふ、と彼女が笑う。
「見て、見て。秋春」
優子が小脇に抱えていた雑誌を開く。
「……シフォンケーキ特集?」
秋春が紙面に踊る文字を読む。優子は白鳥にもページを見せた。
「イチゴトッピングのお店に、生クリーム増量のお店……、たくさん種類があるんですね。あっ、ここのお店。事務所の近くじゃないですか」
驚く白鳥に、優子が笑顔で頷く。
「というわけで、秋春。食べに行こー。純也も行こー」
「奢らねーぞ」
秋春が眉を寄せた。
「心がせまーい」
不満げに優子がブーイングを飛ばす。
「ふざけんな。後輩にたかる先輩がいるか」
「先輩にタメ口の後輩も、どうかと……」
ぼそりと白鳥が呟いた。
「賑やかだね」
奥の部屋から、岩城大輔が顔を出す。
「あ、課長ー。一緒に行きませんかー?」
優子が雑誌を頭上に掲げた。
「シフォンケーキ特集? 姫ちゃん、昨日かき氷食べたんでしょ?」
「昨日は昨日、今日は今日ですよー」
「相変わらず、悪食だねぇ」
岩城が苦笑する。
プルルルル、と電話が鳴った。
「はい。中務省特殊事案対策部、第一課です」
事務方である白鳥が電話を取る。
「はい、はい……、お待ちください」
白鳥が岩城を見る。
「課長、一番にお電話です」
「どこ? 気象庁?」
「いえ。文科省です」
「はいはーい」
ぱたん、と岩城が自分の部屋に戻った。二、三分して出てくる。
「秋春、姫ちゃん。直人が戻ってきたら、三人で文科省ね」
岩城の言葉と同時に、入り口のドアが開かれた。
「ただいまッス!」
刀袋を背負った高井直人が飛び込んで来る。
さっぱりとした黒髪に、元気な声。手には緑茶の茶葉が入った紙袋と、銀のアタッシュケースを持っていた。
「直人、早いー」
「おせーよ。行くぞ」
優子と秋春、正反対の言葉。
高井が反射的に頭を下げた。
「えっと、スミマセン!」
「直人君は悪くないよ」
白鳥が言えば、困惑したように高井が眉を寄せた。
「おれ……、また失敗したッスか?」
「大丈夫。おつかい、ご苦労様」
「うッス!」
すぐに笑顔になった高井が、紙袋とアタッシュケースを白鳥へ渡す。柴犬のような高井に、白鳥は思わず微笑んだ。
秋春が椅子から腰を上げ、机上の紙片を手に取った。墨はもう乾いている。腰の薄いポーチにしまい、「行くぞ」と高井に声を掛ける。
「どこにッスか?」
「文科省。オレらの事案だ」
「……中務省の特殊事案対策室、ですか」
文部科学省がある、中央合同庁舎第七号館の受付。
係の女性職員が、首を捻った。
「研究開発局の企画課、資料保存室からの依頼だ」
秋春が身分証を提示する。
モデルもかくやという整った相貌に、女性職員はわずかに頬を赤らめた。
「しょ、少々お待ちください」
女性職員が内線を掛ける。秋春の後ろで、ひゅーひゅー、と優子が茶化した。
「罪な男だねー」
「うるせえ」
「口がわるーい。黙っていれば、かっこいいのにー」
ねぇ? と優子が高井に同意を求めた。
「口と性格が悪くても、秋春さんはかっこいいッス!」
目を輝かせて拳を握る高井に、優子が笑う。
「わたし、そこまで言ってないよー」
「直人。腹パンな」
秋春が指を小気味よく鳴らす。
「えっ、嫌ッスよ!」
遠慮容赦ない秋春の右ストレートを、高井が躱した。
「お待たせしました」
連絡が取れたのだろう、女性職員の声に、秋春が追撃の手を止める。
「左にあるエレベーターで、十三階までお願いします」
言われた通り、エレベーターで十三階まで行く。ドアが開くと、初老の男が待っていた。
「研究開発局の企画課、資料保存室の石田です」
館内の空調が効き過ぎているのか、石田の顔色は悪い。
「特殊事案対策室だ」
秋春が言う。
「手っ取り早くいこう。どこで、どういう現象が起きている?」
「は、はい。実は――」
秋春の不遜な態度を気にせず、石田が口を震わせた。
「第四資料室に、子どもの、幽霊が出るのです……」
秋春の眉が跳ねた。彼の後ろで、優子と高井が顔を見合わせる。
「その第四資料室ってのは、どこだ」
「こ、こちらです」
石田が先導する。その後に三人が続く。
はぁ、と盛大なため息をついて、秋春が項を手で掻いた。優子が彼の背中を指で突く。
「やる気を失くさないのー」
「面白くねぇ。どうせ、笑い声が聞こえるだの、足音がするだの、鉄板だろ」
それでも普通の人間にとっては、恐怖でしかない。
石田が震える声で呟く。
「声も足音も、します。かくれんぼを、している、みたいで……」
「またかよ」
秋春が顔をしかめた。
「また、なんスか?」
きょとんとした表情で、高井が訊ねる。
「うん、そう。昨日の事案もねー、かくれんぼだったのー」
ふふふ、と優子が笑う。
いくつもの角を曲がり、ようやく第四資料室にたどり着いた。
廊下の蛍光灯が切れかけ、チカチカと点滅している。
「いるな」
「いるねえー」
「いるッスね」
「ひい!」
秋春たちの断言に、石田が悲鳴を上げた。
「終わったら、呼ぶ。それまで、時間を潰していてくれ」
秋春の言葉に、石田がカクカクと頷く。
「ででで、では! よ、よろしく、お願いします!」
転ぶように駆け出した石田の姿が、廊下の果てに消えたのを見届けると、秋春が深くため息をついた。
「幸せが逃げるよー」
優子が小首を傾げる。
「ため息ごときで逃げる幸せなんざ、こっちから願い下げだ」
はん、と秋春が鼻を鳴らす。
「どうします? おれが結界を張りましょうか」
高井の申し出に、秋春と優子が首を横に振った。
「ザルみてーな結界じゃ、逃げるだろ」
「直人じゃ、また逃がしちゃうでしょー」
「ひどい!」
柴犬が耳を伏せるように、直人がしょぼくれる。
「よしよーし」
背伸びをして、優子が高井の頭を撫でた。
「ここは秋春に任せようねー」
「おいこら。押し付けんな」
「お腹空いたから、わたしやりたくなーい」
くきゅるるる、と優子の腹が鳴った。
秋春の盛大なため息が廊下に響く。
「……わかったよ」
「ため息つくと、幸せ逃げるよー?」
「うるせえ」
腰の薄いポーチから、秋春が札を引き抜いた。指に挟んだまま、第四資料室のドアを開ける。
背の高いスチール棚が、整然と並ぶ。
薄暗いせいか、空気がひんやりとしている。
パチン、と優子が灯りのスイッチを入れた。古びた蛍光灯に照らされ、三人の影が床に落ちる。
「いるな」
「いるねえー」
「いるッスね」
ざわざわと、何かが蠢いている。
秋春がドアに札を押し付けた。のりもないのに、札はぴたりとドアに張り付く。
「火気厳禁っぽいよー、秋春」
優子がスチール棚を指差す。分厚いファイルに綴じられた、膨大な紙の資料。
「うっかり燃やしちゃったら、損害賠償はいかほどかねえー?」
「やばいッスよ。秋春さん、今月ダントツなんですから!」
「うるせえ。車をぶった切った、お前に言われたかねぇ」
秋春がその長い脚で高井を蹴り飛ばした。
「痛いッスよ!」
たたらを踏んで、涙目になった高井が振り返る。
と。
「いたッス!」
高井が秋春と優子の背後を指差す。
いつの間にか、ドアの前に子ども――髪の長い十歳くらいの女の子が立っていた。
顔は、長い黒髪に隠れて、見えない。
秋春が優子の腕を掴み、背に庇う。高井が刀袋から日本刀を抜いた。
――きゃははははっ!
耳障りな高い声。
口元も長い黒髪に隠れているのに、声は部屋中に響き渡る。
――きゃははははっ!
秋春が札を投げた。
高井が斬り掛かった。
すうっ、と女の子の幽霊は消える。
「ちっ!」
苛立たしげに、秋春が舌打ちをする。
高井が周囲を見回す。女の子の幽霊の姿はない。
「どこに消えたッスか!」
「あそこ!」
優子が指差す。四番目のスチール棚の上に、女の子の幽霊が立っていた。
――きゃははははっ! かくれんぼ、しよう!
高井が跳んだ。
ざっ、と日本刀を横に薙ぐ。
空を切る。
――きゃははははっ! 見つけた? 見つけた?
「……ルールもくそもねぇな」
秋春が吐き捨てた。新しい札を構える。
「……もーいいーかい?」
小声で優子が言う。
「もういいだろーよ!」
秋春が札を投げた。白い閃光となって、部屋の隅に現れた女の子を灼く。
――ぎゃあ!
白刃が女の子の首を切り落とした。
返す刀で、高井が切り刻んでいく。
「おーう。すぷらったー」
優子が手で目を覆いながら、そのくせ指の間を閉じようともしない。
「どれぐらいがいいッスか?」
首から始まり、手、足、胴体。それぞれの部位がばらばらになっている。
「もーいいーよ」
歌うように、優子が言う。
ふふふ、と微笑んで、女の子の首を両手で持ち上げた。
「柔らかそうだねー」
優子の指が、愛おし気に女の子の髪をかき分ける。
ぎょろり、と血走った眼が覗いた。
「ふふふ。もう、大丈夫だよー」
くちゅり、と優子が眼に歯を立てた。ぷつり、と何かが弾ける。
女の子の断末魔。
「うるせえ」
秋春が札を投げた。白い紙片は長い髪に張り付く。途端に、女の子の声が途切れた。
にちゃ、にちゃ、にちゃ。
あっという間に、女の子が小さくなっていく。
「髪も喰うんスか?」
「うん。食べ残したら、かわいそうでしょー?」
口を赤く染めて、優子が微笑んだ。
「あやなし」道理が立たない、わけがわからない、不条理だ