リルーは婚約者に愛されたい!
紫紺に染まる天から、きらきら眩い宝石がたくさん降り注いだ日。シャンパーニュが入ったグラスを落としたとき。
───リルーはルノーヴェに恋をした。
あの日の王妃殿下主催のパーティーは恐らくこの世で最も絢爛な催しだったと思われる。百年に一度しか見ることができない星降る夜だったと後に言われた外の眺めは勿論のこと、料理は腕利きのシェフにより丁寧に作られており味も見た目も素晴らしく、会場となった王城は著名な建築家が設計しているため飾り付けをせずとも十二分に美しく整っていた。
何よりルノーヴェとの出会いの場となったのだ。リルーとしては、例え殺風景な街外れで出会っても、悪天候の中で出会っても、戦場で出会っても、この上なく素晴らしい出会いの場だったと熱弁するだろう。
普段であれば小柄で華奢な見た目とは反してどっしりとした心持ちで何事も取り組むリルーだったが、あの日は珍しく非常に緊張していた。何故かというと実兄から、
『ああ、私の可愛いリルー!君にたくさん良い縁談が舞い込んでいる。けれど私はリルーを取られたくない…私以外の男と仲良く楽しそうにしているのを見たくない。だからね、後妻として何処かに嫁ぐのはどうかな?相手はその内死ぬだろうし、そのときはいつでも私のところに帰ってくるといいよ。』
と、妹を大切に思っているのか不幸にしたいのかよく分からないことを言い、六十歳の侯爵家前当主の縁談を突き付けられた。このときリルーは(兄は本気だ…)と悟った。このままではうら若き乙女が後妻として嫁いだことにより、何かしらリルーに瑕疵があるのではと社交界で揶揄され、新たな良い縁談も望めず、兄と共に生涯暮らすことになってしまう。
兄がリルーの縁談を捌いている以上、自身の手でその中から好き勝手に選定することはできない。そうとなれば兄の知らないところで自ら縁談を勝ち取るしかない…という心算で王妃殿下主催のパーティーに戦場の騎士よろしくやって来たので、非常に緊張していた。
その緊張のせいとしか考えられないのだが、シャンパーニュの入ったグラスをつい落としてしまったのだ。繊細なガラスが砕け散る高い音と輝く薄い金色の液体が飛び散る音で、リルーの頭は真っ白どころか透明になった。どうしよう何も考えられない、と思う間もなく一切の無だった。王妃殿下というこの王国で二番目に貴い御方が主催するパーティーで大失態を犯した者の現実逃避だったのだろう。しかし氷像のごとく固まる私の側に、
『───大丈夫ですか?』
優しく寄り添ってくれた男性がいた。その芯が通っている落ち着いた声によって、強張っていた身体から力が抜けていくのを感じた。
彼は即座に給仕や王城付きメイドに指示を出し、あれよあれよという間に砕け散ったグラスと飛び散ったシャンパーニュは片付けられてゆき、その間も彼は私の側にいてくれたのだ。
『ありがとう存じます。…また、皆様方もご迷惑をお掛けして大変申し訳ございません。』
リルーが丁重な謝罪をすれば、成り行きを見守りつつ少し嘲笑っていた周囲の人々はまた社交に戻っていく。それに小さく息をつき、改めて感謝と謝罪を述べようと思い側にいてくれた男性の真正面に立った。
『………!?』
リルーは撃ち抜かれた。いや、実際には撃ち抜かれてはいないが、心を撃ち抜かれていた。それはそれは激情を孕んだリルーの恋心を撃ち抜かれたのだ。
救世主のごとく現れた時点でリルーは人類の中で最も良い印象をこの男性に抱いていたが、彼はあまりにも秀麗だった。星のように繊細な光を放つ白銀の目が非常に印象的で、紫を帯びた漆黒の髪も相まって、まるで星降る夜のように美しい方だと思った。
『…改めて、ありがとう存じます。お手を煩わせてしまい、大変申し訳ございませんでした。リルー・シャレットが心より感謝と謝罪を申し上げます。』
『シャレット…伯爵家のご令嬢だったのですね。感謝と謝罪には及びません。私はルノーヴェ・ド・ヴィルシェーユと申します。以後お見知り置きを。』
『………!?』
リルーはひっくり返った。いや、実際にはひっくり返ってはいないが、心の中でひっくり返っていた。お見知り置きを、など謙遜も甚だしい。この王国でヴィルシェーユと聞いて知らないと宣う者は存在しないだろう。王家に次ぐ名門ヴィルシェーユ公爵家である。
ちなみに、ひっくり返って一回転した心の中のリルーは(ああ…これは敵が多いに違いないわ。)と将来の恋敵の心配をしていた。
その後、この日のために拵えた刺繍が施されているドレスにシャンパーニュが染み付いてしまったため早々に帰らされる羽目になり、ルノーヴェ・ド・ヴィルシェーユとの素敵な時間は呆気なく終了したのだった。
──────────
さて、リルーの果てしない執念かはたまた生まれ持った血筋の良さか。リルーは宝石が降り注いだ日に出会ったルノーヴェ・ド・ヴィルシェーユの婚約者となっていた。
彼と会う度に全身全霊で愛を訴え、伯爵家では兄の妨害に屈せず勉学に励み、自身の美しさをさらに追究し、限界以上の努力の結果、見事婚約者に選定されたときのリルーは世の誰よりも幸せを感じていたと思う。
あの日危惧したようにやはり恋敵は非常に多かった。相手を蹴落とし蹴落とされそうになり、また蹴落とし。
令嬢が身に纏っている美しいドレスを常備しているナイフで何着も裂き、社交会で何度も足を引っ掛け、その令嬢に関する少し誇張した醜聞を流し…その結果一部の者達から、リルー・シャレットは 悪女 であると陰で謗られているようだ。
一度手に入れば人間は欲が出てしまうもので、ルノーヴェの御心が欲しい、愛して欲しい、と現在では欲が溢れに溢れている。ルノーヴェにこの欲を大っぴらにしていないだけ、リルーの理性は十分に働いていると言って良いだろう。
内面は何があってもルノーヴェに見せられないほど残念で最悪なリルーだったが、懸命な努力のおかげかそのひやりとした美しい容姿は洗練され体付きも肉欲を感じさせるようになった。ただ冬の精だった大祖母の血を濃く受け継いでいるためか、少々小柄である。なお恐らくだが、この冬の精の血筋を引いていることがルノーヴェとの婚約に漕ぎ着ける大きな後押しになったと思われる。
「───ルノーヴェ様!」
そんなリルーは、現在慄いていた。
「リルー、ただいま。」
「お帰りなさいまし、ルノーヴェ様。……その、美しゅう花束はどうなさったのですか…?」
リルーの愛しい愛しいルノーヴェが、腕に大きな花束を抱えて帰ってきた。
婚約者に選定されてから茶会が週に一度開かれており、いつものようにヴィルシェーユ公爵家を訪れたリルーはルノーヴェの王城での執務が少々滞っていると聞き、礼儀正しく彼の帰りを待っていた。
「ああ、これは春の精からいただいた。」
淡く明るい色の花束からはそよ風のように柔らかい歌声がささやかに響いており、その歌に似合いの清香が春の訪れを告げるように辺りに漂っている。
その花束を自身のために用意してくれたのではなどと甘ったるい考えを一切持っていないあたり、リルーはルノーヴェからの愛を諦めている節が少々ある。
「まあ…ようございますね。」
思わずリルーは中途半端な笑みを浮かべてしまう。春の訪れを告げるには一輪の花で良いはずだ。
(おのれ、春の精め。つい最近代替わりしたと聞いたけれど、新たな敵となるかもしれないわ。気を付けなければ。)
冬が終わり春を告げる役目を持つ春の精は、非常に可憐で花が綻ぶような愛らしさだと言われている。対して冬の精は、愛らしさとは異なってその冷たさすら感じさせる美しさは周囲の人々を敬遠させる。そして冬の精を大祖母に持つリルーも同様だった。それ故かリルーは幾分春の精への敵愾心が強かった。
「欲しいの?」
「ふふふ、ありがとう存じます。ルノーヴェ様。」
全くもって欲しくないもののルノーヴェから花束を受け取り、心の中で暗唱し煩わしい歌声を止めてから、リルー付きメイドであるミレイヒに預ける。
魔法には程遠いこのまじないのような術は普段は一切使うことができず、春夏秋の精の術に対してのみ使える。大祖母のように冬の精であれば術も自由自在に使えるが、リルーは血を受け継いでいるだけであるため術は殆ど使えない。
幼い頃に使い所なんてあるのかしらと思案していたことを思い出したリルーは、素晴らしい使い所があったとほくそ笑んでいた。
(二度とルノーヴェ様に恋慕の情を抱かないよう、後ほど春の精に向けて文を認めましょう。けれど精に対してはこれまでと同様の手段は使えないわ…どうしようかしら。)
これまでは物理攻撃が有効だったが、春の精は術を持っている。通常、精同士が対面したときには一切の術が無効になるという制約があるが、リルーは精ではないため関係ないだろう。そうであれば、やはり物理で相手を貶めることは困難に違いない。
他人を貶めた経験と黒い知識を記憶から引っ張り出してリルーが考えていると、
「帰ってくるのが遅くなって申し訳ない。待っていてくれてありがとう、リルー。」
ルノーヴェに軽く額にキスをされる。ぽぽぽと顔が赤く染まっていくのを感じ、ついでに春の精への対抗手段の考えも消え去っていった。
(わたくしはいつまででも待てができますのよ、なのでわたくしを愛してくださいまし!)
心の中で叫びつつ、ルノーヴェの本日の服装を脳内に永久保存するためにまじまじと観察していた。
(あら、あのカフスリンクスは初めて見たものだわ…新しく誂えたのかしら。それにしてもドレスシャツの襟の刺繍がルノーヴェ様の美しさをより引き立たせているわ!)
「さて、リルー。この一週間はどうだった?」
いつの間にか上品に香り立つ紅茶や質の良いバターがたっぷり使われた焼菓子が用意され、テーブルを挟みリルーの正面にルノーヴェが座っている。
(ルノーヴェ様が座るとどのような椅子でも玉座のごとく荘厳な雰囲気が出るわ。家具でさえもルノーヴェ様にかかれば何段階も美しさが上がるのね…さすがルノーヴェ様。)
「そうですね…いつものように勉学に勤しみ、わたくしがより美しくなるためにはどうすればよいか分析しておりました。」
「そうか。何か発見はあった?」
「ええ、わたくしの美しさはルノーヴェ様には遠く及ばないと改めて感じました。ただ分析結果からわたくしに最も合うドレスの形やヒールの高さが分かりましたので、次の社交会でご覧に入れます。」
「リルーは十分美しい。今以上に美しくなってしまうなんて、さらに世の女性は君に及ばなくなるね。」
「いいえ、ルノーヴェ様!ルノーヴェ様は鏡越しにわたくし以上に美しいものを毎日見ていらっしゃいます。羨ましゅうございますわ。叶うことならばわたくしも毎日毎時間ルノーヴェ様を見つめていたい…!」
リルーからの火傷しそうなほど熱い愛を受けて、ルノーヴェは緩く口角を上げる。じっとリルーを見つめる白銀の目は何かを探るようでありながら何も映していないかのようにも見受けられる。
ルノーヴェへの愛を惜しみなく撒き散らすリルーでさえ、時々指先が震えそうになる程その途方も無い闇を纏うような白銀に怯えることがあった。
「リルーはいつも僕のことを考えているようだけれど、飽きないの?」
「勿論です。わたくしはルノーヴェ様の側にいるだけで、ルノーヴェ様のことを考えるだけで、心から楽しむことができる女ですのよ。」
「それはいいね。」
「ええ。ルノーヴェ様はこの一週間どうお過ごしになられたのですか?」
紅茶を一口飲み、ルノーヴェと同様に問う。この問答は茶会の時間における恒例である。
「執務、執務、執務だった。この後も一度王城に戻る。再び帰ってくる頃には日付が変わっているかもしれない。」
「まあ!わたくしとの茶会など無視してくださってよろしいのに…お忙しいのであれば自身を何よりも優先して、少しでもお休みになってくださいまし。」
(ルノーヴェ様を愛するわたくしが彼を煩わせてしまっては本末転倒だわ…愛する方を御支えするのもわたくしの役目です。)
「ありがとう。けれどリルーと共に過ごすことは僕にとって何よりも安らぎになる。だからこそ、茶会の時間はとても大切なものだ。」
「ふふ、ふ、ふ。ルノーヴェ様がそう仰るのであれば、わたくしはそれに従うのみです。」
嬉しさのあまり少し奇妙な笑みを溢したリルーは、ルノーヴェがいつか体調を崩してしまわないように栄養たっぷりの良い薬を煎じてもらおうと固く決心した。
(ついでに春の精を貶めるために毒薬も煎じてもらおうかしら。外からの攻撃が無理なら、体内から攻撃するの。使う機会が無ければ良いけれど…念の為よ、念の為。)
ただ薬を煎じてもらうには大きな壁を乗り越えなくてはならないため、リルーはほんの少し憂鬱になった。
ゆらりと小さく波立つ紅茶に視線を落としていたリルーはルノーヴェを見つめ直し、春の精の花束に劣らないほど綻ぶかのように微笑み、
「今日も明日も明後日も、永久に愛しております。ルノーヴェ様。」
愛を紡いだ。
「ふふ。ありがとう、リルー。」
(今日も今日とて、わたくしを愛しているとは返してくださらないのね。)
本日も愛は軽く流された。ルノーヴェは甘い言葉を発して甘い触れ合いをしてくるが、決してリルーの愛に答えてはくれないのだ。
(わたくしはいつまででも待てができます、ルノーヴェ様。現世で愛を返してくださらないのであれば、死後の世でも、来世でも、ずーっと待っておりますわ。)
──────────
「───お兄様!メメノアお兄様、いらっしゃいますか?」
幸せ一杯だったルノーヴェとの茶会から三日後。
王城で務めている薬学者の兄メメノア・シャレットの研究室を訪ねる。ドアをノックしても大抵彼が出てくることはなく物音一つ立てないため、何も合図をせずドアを開けるようにしている。
なお彼は人間嫌いであるため警備の騎士は付けず、要件が無い限り陰鬱なこの王城の地下には殆どの者は寄り付かない。またメメノアは社交会の出席率が恐らくどの令息と比較しても最低で、彼の生活といえば薬の研究をしているか伯爵家で妹を愛でているかであるため、メメノアの存在自体を知らない者が多くいる。
ちなみに、そんなメメノアは溺愛する妹を掻っ攫ったルノーヴェのことを人類の中で最も嫌っており、ヴィルシェーユ公爵家とシャレット伯爵家の婚約取り決めの際に一切姿を現さないという暴挙に出た。
「…リルー!ああ、私の可愛い可愛い天使よ!よく来てくれたね。ここに来るまで誰にも声を掛けられなかったかい?何かあれば私に言っておくれ…メメノア特製の毒薬を煎じてあげようね。」
「大丈夫です、お兄様。用も無いのにわざわざこの王城の地下に行こうなどという阿保はおりませんので。」
「うんうん、たしかにそうだね…して、何の用だい?あっ、無論何も用が無くてもリルーは来てくれていいよ。私はいつでも大歓迎するからね。」
リルーのために少しでも快適な空間を作ろうと、メメノアは何十枚もの書類や薬に用いる種などが散乱している机の上をあたふたと片付け始める。なお机の上だけではなく床も薬瓶や器具で溢れているため無駄である。
王城の地下にあるこの研究室にはメメノアしかいない。数年前までは研究員がいたようだが、彼の奇特な性格と人間嫌いにより全員何処かへ行ってしまった。
(一人でも誰かしらいれば、ここまで部屋が荒れることはないでしょうに…。)
「さあ、どうぞお掛けください姫。」
メメノアは召使いのようにリルーの手を引いて、この部屋で最も綺麗な椅子に座らせる。
「ふふふ、お兄様。お姫様ごっこでもするの?」
「ごっこなどではない。君は私の姫だよ、リルー。」
「…では、あなたの姫であるわたくしのお願いを叶えてくださいますか?」
「御意に。」
メメノアは畏まって跪礼をする。
「最上級の栄養剤と、死にはしない程度の毒薬を煎じていただきたいの。」
「……理由は?」
「栄養剤は毎日お忙しいルノーヴェ様に、毒薬はその彼に纏わり付く女に。」
「うんうん、ヴィルシェーユの件は一旦置いておこう。リルー…その天使のごとく美しい外見にそぐわない悪女のような本性。我が妹の魅力は尽きない!果てしなく美しい!」
リルーのことをこれまでに一度も否定したことがないメメノアは、妹を全肯定する。
(…やはりルノーヴェ様の件は濁されたわ。ルノーヴェ様を特に嫌うお兄様が二つ返事で引き受けるはずがない。)
「さて、毒薬生成は私の得意とする所…私の麗しい姫のためにこれをあげよう。」
「これは一体…?」
メメノアから受け取った質素な瓶には無色透明の液体が入っている。
「死にはしない程度…一日から三日寝込む程の毒薬だよ。」
「ありがとう、お兄様!わたくしが頼れるのはメメノアお兄様しかいないわ!」
「無論!リルーが頼るべきはこの兄メメノアだ!」
(さすがわたくしのお兄様ね。毒薬は呆気なく手に入ったわ。けれどこれはあくまでついで。本命は…。)
リルーは姿勢を正して、透き通った白雪のような薄水の目でメメノアを見つめる。
「けれど、ルノーヴェ様のお薬は煎じてくださらないの?」
「ん〜、何故リルーを愛する私が君とヴィルシェーユの仲を深めるようなことをしなくてはいけない?」
心底不思議だといった風にメメノアは首を傾げる。
(まったく、融通の利かない困ったお兄様ね!)
「…まあ!お兄様が愛しておられるわたくしのお願いを叶えてくださらないの?先程お兄様はわたくしの願いを叶えると仰いましたわ。その約束を違えるというの?メメノアお兄様、リルーは、リルーは悲しいですわ……。」
「!!リルー!大丈夫だ!私はすぐにでも栄養剤を煎じる!今日やるべき業務より君を最優先しよう!」
目を伏せ悲しみに震えるリルーを見て、メメノアは焦りに焦った。
業務を放り出すなど王城に務める者として考えられない行為だったが、決してこれが初めてではない。これまでに何度かあったものの、それでもこの傍若無人なメメノアの首が切られていないのは単に彼が薬学者として天才的であるためだ。
「ヴィルシェーユが大嫌いなことに変わりはないが、彼奴のリルーへの愛を私は見た!その点は非常に感心している。それに免じて栄養剤でも何でも煎じてあげよう!」
「………ルノーヴェ様の、愛?」
リルーは仰天した。悲しみに震える演技も一瞬で止まる。
(…そのようなことがあるはずない。きっと、お兄様の馬鹿げた勘違いだわ。)
「お、お兄様?愛とは一体、どういうことですの?」
「…。」
「お兄様?」
「…。」
「…。」
(一心不乱に薬を煎じていらっしゃる…悲しむ演技をやり過ぎたかしら…。今度お兄様に リルーが何でも言うこと聞く券 をあげましょう。)
悪女と社交界の一部で謗られているリルーだったが、自身に追い詰められてしまった兄の姿に心を痛めた。ルノーヴェの愛について問い詰めたかったものの、ルノーヴェに遠く及ばずともメメノアを十分に愛していたので『夕刻まで王城におります。何かあれば探しに来てください。特に何も無ければ薬が完成次第、伯爵家に帰ってきてくださいまし。 お兄様を愛しているリルーより』と書き置きをして、そーっと研究室を出た。
地上への階段を上れば、リルー付きメイドであるミレイヒが微動だにせず待っていた。通常であれば護衛も兼ねてミレイヒは何処までも着いてくるのだが、メメノアの研究室に訪れるときには大抵悪巧みをしているため階段の前で待っていてもらうのだ。
「リルー様、もうよろしいのですか?」
「ええ、待たせてしまって申し訳ないわ。…さ、ミレイヒ、これを大切に仕舞っておいて。」
メメノアからもらった毒薬をミレイヒに預ける。リルーの外出用ドレスには衣囊は無く荷物は大抵メイドが持つものであるため、毒薬を仕舞う術が無いのだ。
「畏まりました。」
大方予想しているだろうが、主人に何も聞かないミレイヒはメイドの鏡だ。
現在は午刻を回り少し経ったくらい。そもそも今日登城したのには、メメノアに薬を依頼する件以外にもう一つ理由があった。
(今日の午後に春の精が登城すると聞いたわ。新たな恋敵がどのような者か一度見定めなければ。ああ…わたくしからの文は気に入ってくれたかしら?春の精様。)
先日の茶会で春の精に文を認めると決意し、即刻書簡を送ったリルー。勿論それは友好的なものでは一切なく、不快感を与える内容だった。
リルーは王城の煌びやかな廊下を歩いていく。
自身が最も美しく見える姿勢、目線、歩幅など様々な要因を分析して実行しているリルーは、歩くだけで周囲の者たちを恍惚とさせている。
「ミレイヒ、一度王城の正門へ向かいましょう。もしかすると春の精が」
そこから訪れるかもしれないわ、と続けようとしたとき。
「───妾に用か?リルー・シャレット。」
「…あら、あら。」
リルーの後方から掛かった小さな鈴のように可愛らしい声の主は、紛れもなく春の精キャロルフィリスだった。
精というのは一目で分かる。小柄な体躯と精が持つ大きな宝石が先端に付いた燦爛とした杖。それ以外は特に辺りにいる人間と違いはない。
(春の精からわざわざわたくしの元にやって来るとは思わなかったわ。)
「用はあるかと妾が問うたのじゃ。疾く答えよ。」
愛らしいと持て囃されている顔を歪めてリルーに問う。不快だ、と全身で訴えているようだ。
「ええ、たしかに用はございます。」
「そうだろうの。着いてこい。」
キャロルフィリスはそう言い捨てて、何処かを目指して歩いていく。仕方がないのでリルーはミレイヒに目配せして後ろを着いていく。
(今日は遠くからでも見ることができれば上々…と思っていたのだけれど。このままでは早速毒薬の出番が来てしまうかもしれないわ。)
さすがのリルーもこれまでに他人に毒を持ったことはないが、いざというときは躊躇わないだろう。これも全てルノーヴェへの愛のためだ。
(まあ、綺麗な庭園だわ。春に満開になる花がたくさん。ということは、春の精の庭園ね。)
「ここは妾の庭園じゃ。」
「美しゅうございます、キャロルフィリス様。」
「そこに掛けよ。」
何故春の精というだけでこれほど高圧的なのだろうと思いつつ、リルーは紅茶と菓子がすでに用意された席に座る。
「先日は素敵な書簡をありがとうの、シャレット。」
キャロルフィリスは杖を自身のメイドに預けて席に着き、リルーに向けわざとらしく微笑んだ。
「ふふ、いえいえ。お気に召してくだされば幸いです。」
「…妾は春の精。この国に春を告げる役割を持つ者ぞ。」
「しかと存じておりますわ。お気に召していただけましたか?」
「お前は春の精の有り難さを理解していない様に見えるの。」
「お気に召していただけたかとわたくしが問うているのです。答えてくださいまし。」
「…。」
先程のキャロルフィリスと同様の言い回しをすれば、ねとりとしたような目でリルーを見る。
「お気に召していただけましたか?キャロルフィリス様。」
「……気に入るはずがあるか!」
「ですが、わたくしとて我が婚約者に秋波を送るような者を放っておけませんわ。」
「そのルノーヴェもこのような悪女を婚約者に持ち、さぞ口惜しいだろうの。」
キャロルフィリスの紅を塗った赤い唇が綺麗な弧を描く。
「婚約者でもないあなたがルノーヴェ様の名を軽々しく口にしないでくださいまし。」
「妾がお前を蹴落とし、婚約者の座に収まればよいだけのこと。」
「まあ、まあ、どうやって?」
(ああ、元々春の精に良い印象を持っていなかったのに、さらに嫌いになってしまったわ。わたくしをルノーヴェ様の側から落とそうとするなんて。)
一切の感情を失ったような顔でキャロルフィリスを見据える。
(けれど、すでに婚約者となったわたくしをそう簡単に引き摺り落とせるかしら…。)
「ああ…妾の同胞、可憐で美しい花々が教えてくれたのじゃ。」
「…何をでしょう?」
にいい、と愛らしいとは程遠い勝ち誇った笑みをキャロルフィリスは見せる。
「お前が毒を持っている、と。」
「…。」
「妾に盛ろうとしたのか?シャレットよ。」
「…。」
「お前の所業をルノーヴェに全て伝えれば、さてどうなるだろうの?全てというのは、これまでのことも含めてじゃ。ほら、ほら、妾が問うておるぞ。答えよ。」
テーブルの下で答えを急かすかのようにキャロルフィリスがリルーの靴を踏む。
「…。」
「妾が問うておる、答えよ。」
「…。」
(…。)
リルーはキャロルフィリスを睨め付けた。
「……………この女狐が。」
毒々しい低い声でリルーは罵った。
正直なところ、婚約者の座を下ろされたとしてもルノーヴェから心底嫌われることがなければ、リルーにとってどうでもよかった。勿論、リルーが愛を紡いでルノーヴェから愛を返されることが本望だったが、嫌われさえしなければ交わらず平行線のままで良いと思っていた。
では何故、露見すれば大抵嫌われてしまうような所業をリルーが繰り返してしまったのかといえば、結局は『ルノーヴェからの愛が欲しい』という点に帰結する。ルノーヴェに纏わりつく女共を排除して、リルーしかいない状態にして、そのリルーが何時何時愛を発していれば、いつかルノーヴェもリルーを愛してくれると考えたのだ。
「リルー・シャレット!キャロルフィリス様にそのような暴言許しま…きゃあ!」
キャロルフィリス付きメイドが主人を冒涜され怒りに任せてリルーを排除しようとするが、そのメイドに向かってリルーの手元にあった紅茶の入ったカップをそのまま投げ付けた。
リルーの側に控えていたミレイヒは、そんな惨状を見慣れているためか微動だにしなかった。
「あら、あら。申し訳ございません。少々煩い方でしたので。」
「おのれ、シャレット!何をする!」
凄まじい怒りが爆発したようにキャロルフィリスが地団駄を踏んで立ち上がる。リルーに詰め寄るかメイドを介抱するか一瞬迷い、後者を選んだキャロルフィリスは呻いているメイドの元に駆け寄る。
(あら?当たり所が悪かったのかしら…。)
「シャレット…!お前、生きては帰らせぬぞ!」
春の精だからだろうか。庭園の花々がキャロルフィリスの怒りに呼応するように震えている。
「あら、まあ、ふふふ。メイドだけではなくキャロルフィリス様も煩いようですわ。」
「妾のメイドにかような所業は許さぬ!」
(紅茶のカップが当たったくらいで、それほど怒らなくてもよろしいのに。大丈夫よ、数分もすれば痛みなど消え去っているわ。)
「少しお黙りになって。わたくし、話したいことがありますの。」
「黙らぬ!春の精である妾が、メイドを害された妾が、お前の言うことを聞く筋合いは無い!」
「黙ってくださいまし。」
「嫌じゃ!」
「…黙って聞けよ。」
キャロルフィリスに視点を固定して、ミレイヒにすっと手を差し出せば瞬時に主人の要望を読み取り、細部まで装飾が施された小型のナイフをリルーの手に乗せる。
首元にナイフを当てられたキャロルフィリスは声も出せないようだ。精の術でどうにかなると思われたが、精同士が対面したときに術が無効になる制約は大祖母の血を濃く受け継いだリルーにも何故か掛かっているらしい。
そのような事情を知る由も無いキャロルフィリスはただただ困惑していた。
「わたくし、つい最近春の精が代替わりしたと聞きましたの…わたくしの兄、メメノア・シャレットから。」
「兄…?」
「ええ、わたくしを愛してやまないメメノアお兄様ですわ。」
二週間ほど前にメメノアの研究室を訪れたとき、彼は面白おかしい話をリルーに聞かせてくれた。
───『最近ね、春の精が代替わりしたみたいだ。』
───『まあ、お早い代替わりですこと。先代は短命だったのかしら?』
───『そう思うだろう?それで毒薬でも使われたのでは、ということで薬学者の私が検死に向かわされたのだよ。』
───『そうでしたの。』
───『案の定毒薬で殺されていて、その薬は私が煎じたものだったから依頼主は分かるわけだよ。それはね…』
「ふふ、先代を殺して春の精の座を奪ったのは楽しゅうございましたか?お兄様の毒は本当によく効きますでしょう?」
「…わ、妾は殺してなどおらぬ。たしかに先代は短命だった。」
「嫌ね、キャロルフィリス様。わたくしのお兄様がこのリルーに戯言を仰ったというの?」
キャロルフィリスが先代を殺したという話を終えた後、メメノアは『この話が君の悪巧みの糧になるといいね。春の精も糧になれれば幸せだろうね!』と笑っていた。無論これまでのリルーの悪巧みは大抵メメノアの手を借りている。
「…シャレット。どうか、どうか、この話は内密に……。」
「ふふ。内密も何も、王城に務めるお兄様が検死に行っていらっしゃるのです。内部の者はすでに知っているに違いありませんわ。…あのね、キャロルフィリス様。わたくし、あなたが殺したか殺していないかなどどうでも良いのです。そんなつまらないことよりも、図々しくもキャロルフィリス様がわたくしとルノーヴェ様の仲を引き裂こうとしたことが大きな問題ですわ。」
「…。」
「ね、キャロルフィリス様。どうぞ謝罪を。誠心誠意、地面に膝を付き後悔と屈辱が身に沁み渡るまでわたくしに謝ってくださいまし。」
キャロルフィリスは生まれて初めて身体の底から恐怖を感じた。自身を心底蔑んでいることが分かる歪んだ美しい笑みを見て、リルー・シャレットは悪女どころか悪魔のような人間だと思った。
ところで紅茶まみれのメイドはリルーの予想通りすでに痛みが消え去ったのか、キャロルフィリスに寄り添って顔面を蒼白にしている。
「謝罪、しろよ。」
リルーが毒を孕んだ声で言えば、キャロルフィリスは地面に膝を付いて謝罪を始めた。それを見て溜飲を下げたと同時に、ナイフも下げる。
(術が無効になる制約がわたくしにも掛かっているのであれば、毒薬など必要なかったわ。物理攻撃をしようと思えば簡単にできるもの。後でお兄様に返しに行きましょう。)
これからの予定を組み立てながら、懸命に謝罪するキャロルフィリスを何の感情もなく眺めていたとき。それは突然だった。
「───リルー?」
ひゅっと喉元が喘いだ気がした。その声ですら麗しいと感じる御方は、リルーにとって世にたった一人しかいない。
ルノーヴェ・ド・ヴィルシェーユ。
リルーにとって愛しい人であり、絶対的な存在である人。
リルーは兄であるメメノアから天使の皮を被った悪女だと愛でられることがあったが、ルノーヴェの前でその天使の皮を脱いだことは一度たりとも無い。
(今の状況は、あまりにも良くないわ。)
先程までキャロルフィリスに見せていた威勢はすでに遥か彼方へ飛んでしまっている。
(どうしようかしら。わたくし、嫌われる?全て自業自得だけれど、とうとう嫌われてしまうの?)
これまでリルーが犯してきた所業が一気に脳内を駆け巡る。何を取ってもルノーヴェに見せられない、知られたくないものだった。
「…ルノーヴェ!」
リルーは明らかに動揺していたため、その隙を突いてキャロルフィリスがルノーヴェに駆け寄った。
(っあの女狐め…!)
思わずリルーは椅子から立ち上がりキャロルフィリスを追おうとしたが、立ち上がったままルノーヴェを見据えることしかできなかった。
ルノーヴェがいなければ恐らく未だ手に持っているナイフで何かしら攻撃をしていただろうが、ルノーヴェがいる手前、何も行動することができない。リルーの手にすっかり馴染んでいるナイフがこれほどまでに心地の悪い物だとは思わなかった。
(あっ、ナイフ!)
リルーが小型のナイフを持っているのは非常によろしくない。手遅れだろうが、急いでミレイヒに仕舞いなさいと視線で指示をする。
「ルノーヴェ!妾はリルー・シャレットに辱めを受けたのじゃ。妾のメイドも怪我をさせられた。かような行いをされ、妾は心から怯えている…ルノーヴェよ、妾を助けてくれ。」
キャロルフィリスがルノーヴェのドレスシャツを握り締めて震えながら助けを乞う。
それを見たリルーは、仮にルノーヴェが自身の本性を知ってしまったのであればもうあの女狐をナイフで一突きしても良いのでは、と考えていた。
「…ふふ、無理。」
「えっ、」
瞬間、キャロルフィリスはリルーの視界から消え去った。否、リルーの視界の外までルノーヴェに投げ飛ばされたのだ。
(まあ、ルノーヴェ様ったら細身でありながら、とても力がお強いのね。)
うんうん、とルノーヴェの新たな一面を知り脳内にきっちりと保存していた。
(だめ。ルノーヴェ様のことが愛おしすぎて、ついいつも通りに脳内が働いてしまうわ。)
リルーが今考えるべきは如何にしてここから逃げ去るか、ということである。しかし令嬢達の中では無双しているリルーだったとしても、王家に次ぐ公爵家の令息であり最上級の教育を受けてきたルノーヴェに対する勝ち目は一切無いと思われる。
「リルー。」
「…。」
「僕のリルー。返事はしてくれないの?」
「……いいえ、ルノーヴェ様!リルーは返事を致します!」
メメノアの普段のようにルノーヴェもリルーのことを呼んだため、衝撃のあまり一瞬思考がぶつりと切れたが、即座に復旧させて元気よく返事をする。
「ふふ、リルー。君はとても愛らしくて美しい。」
揺蕩うような声の発し方にリルーの目もとろんとしてしまう。
「…ル、ルノーヴェ様。もう一度、よくわたくしを見てくださいまし。」
「ん、分かった。」
「ルノーヴェ様、ルノーヴェ様にリルーはどう見えていらっしゃるの?」
(愛らしくて美しいはずがない。先程わたくしの前で跪くキャロルフィリス様との場面を見て、そのように思えるはずがないもの。)
「そうだね…やはり愛らしくて美しいよ。リルーは何よりも気高い。」
「も、もしかして、先程のわたくし達を見ていらっしゃらないの?」
「春の精が君の前で跪き謝罪をしていたこと?それとも、リルーがナイフを首に当てていたこと?」
ひゅっと再び喉が喘ぐ。
(いつから、いつから、ルノーヴェ様は見ていらっしゃったの?)
「リルーが春の精に連れていかれたと、王城の騎士から報告があった。それを聞いて僕はリルーを追ったんだ。」
リルーの疑問が顔に出ていたのか、ルノーヴェは淡々と答える。
「き、きし…?」
何が何なのか分からず混乱しており、舌足らずな発音になる。
「リルーのメイドだけでは不安だからね。君が王城に訪れたときには護衛のため必ず二人以上の騎士が付いている。勿論、隠れているけれど。」
「全く気付きませんでしたわ…。」
「そうだろうね。王城の騎士といっても、ヴィルシェーユ公爵家の傀儡となっている騎士だ。精鋭中の精鋭が一令嬢に気付かれるはずがない。」
(ヴィルシェーユ公爵家は王に仕える者達ですら、我が物としているのね…恐るるべきだわ。)
「あの、あの、ルノーヴェ様。」
「なあに?」
少し屈んでリルーに目線を合わせるルノーヴェ。その白銀の目が相変わらずリルーの恋心を撃ち抜く。
(ああ、美しい!ルノーヴェ様は世界で一番美しくて麗しいわ!)
「……ルノーヴェ様は先程のわたくしを見て、幻滅していらっしゃいませんか?」
リルーはルノーヴェのしなやかで大きな手を願いを込めるように両手で握る。その問いにルノーヴェが口を開こうとしたとき、
「───ああ、リルー!やっと見つけたよ!」
突如、幼い頃から聞き慣れた声がリルーの元に届く。ルノーヴェの後方から駆け寄ってくるのはやはりメメノアだ。
ゆっくりと手を離してメメノアを迎える。
「お兄様?」
「そうだよ、リルー。君の愛するメメノアお兄様だよ。…あっ、貴様はヴィルシェーユだね。先週振りかな?」
「お兄様!ルノーヴェ様にそのような失礼な言葉遣いをしないでくださいまし!」
「僕は大丈夫だよ、リルー。こんにちは、シャレット殿。」
(ルノーヴェ様は寛大な御心もお持ちなのね…!素敵!)
ルノーヴェに感心しつつメメノアの発言に引っ掛かる点があると思い直す。
「お兄様、ルノーヴェ様と先週お会いになられたの?」
「そうだね。ヴィルシェーユが軽い毒薬を煎じて欲しいと依頼しに来たのだよ。」
「どっ、毒薬?」
自身も毒薬を頼み所持しているというのに、リルーは瞠目する。
「何故そのようなものを…。」
「それはリルーに想いを寄せる者たちを排除するためだよ。」
ルノーヴェが答える。
「リルーは僕に愛をたくさん伝えてくれるけれど、自分に纏わり付く愛には対処しないからね。リルーのためだよ。」
「わたくしのため…?」
「そうさ、私はヴィルシェーユにリルーに対する愛をたっぷり聞かされ、成程と共感して、毒薬を煎じることを了承したのだ。」
「…お兄様、あれほどわたくしとルノーヴェ様の婚約を反対していらしたのに…。」
まあね!あはは!とメメノアは笑う。
メメノアの『後妻として嫁げ』という仰せが無ければ、グラスを落とすこともなくルノーヴェと出会うことも無かったと思われるため、あまり咎めないでおこうとリルーは考える。
(それよりも、愛?お兄様がルノーヴェ様からわたくしに対する愛を聞かされた?)
数刻前にメメノアの研究室に訪れたときに言っていたのはこのことかと合点する。ちらりとルノーヴェの秀麗な顔を見上げると、彼は形の良い唇に人差し指を当て妖艶な笑みを浮かべる。
(秘密ということ?それは狡いですわ、ルノーヴェ様!そのような仕草と笑みを見せられては、あなたを愛するリルーは従うしかありませんわ!)
メメノアにところで何の用だったのかと聞けば、リルーが頼んでいた栄養剤が完成したから届けに来たという。完成があまりにも早くてリルーは少し驚いた。
「ありがとう存じます、お兄様。」
「どういたしまして、私の姫。…ああ、少しいらない人間がいるようだね。明日にでも春の精の裁判が始まるというのに…ミレイヒ、君も手伝いなさい。」
(成程、今日キャロルフィリス様が登城したのは裁判のためだったのね…彼女は知らなかったのでしょうけれど。)
「ではまたね、リルー。私は明後日家に帰る。」
「ええ。分かりましたわ、お兄様。」
伸びてしまった春の精キャロルフィリスと、身動きが取れず冷や汗を流していたキャロルフィリス付きメイドはメメノアとミレイヒによって何処かに運ばれていった。
その間に小さくミレイヒに合図をしておいたので、優秀な彼女はメメノアに毒薬を返してくれるだろう。
「さて…リルー。」
「はい、ルノーヴェ様。」
「先程の質問に答えなければならないね。」
悪女のようなリルーに幻滅していないか、という問いだ。
今度はルノーヴェがリルーの小さく白い手を取り、指先に口付けた。
「僕はリルーが人を殺したとしても幻滅などしない。君が君であるならば、僕はリルー・シャレットを永久に愛してあげよう。」
「愛して…?」
「そう。リルーがくれる愛以上に僕は君を愛してあげる。」
なんてこと!とリルーはこれまでにない悦びを感じる。まるで足の先から頭の先まで悦びが駆け上がっていくようだ。
「ルノーヴェ様、ルノーヴェ様。わたくしを愛していらっしゃるの?」
「愛している。天使のように美しく気高いところも、悪魔のように毒を孕んだところも愛しているよ。」
「わたくしもルノーヴェ様をこの上なく愛しております!」
「…リルーも永久に僕に愛を伝えていればいいよ。」
「ええ、勿論です!けれど、何故わたくしに愛していると仰ってくださらなかったの?」
「天使の面しか僕に見せないリルーに愛を伝えても、今度は自分の全てを愛して欲しいと、悩み始めるだろう?」
(…たしかに、そうだわ!ルノーヴェ様はわたくしのことを良く分かっていらっしゃる!)
遠慮なくルノーヴェにぎゅうっと抱き付けば、リルーの身体に腕が回される。
「愛しております、ルノーヴェ様。」
「僕も愛しているよ。」
(幸せ。わたくし、幸せだわ!)
ルノーヴェから愛を返してもらうために、全力で愛を伝えるリルーをいつも愛おしく想っていたルノーヴェ。
婚約期間が終わり、婚姻して、リルーが子を産み、幸せだらけの日々が過ぎていき何十年も経てば、リルーは床に臥せった。もう治ることはないと医者から明言されたルノーヴェは、病にリルーを奪われるくらいならば…といつの日かメメノアに煎じてもらった死に至る毒薬を彼女に飲ませた。
それに気付いて幸せそうに飲むリルーは、たしかに世界で一番幸せだったのだ。