王子様の王子様
そう遠くない昔、こことは少し違う、どこかの世界に、それはそれは偏屈……いえ、こだわりが強く、腕の良い仕立て屋がおりました。自分の気に入った顧客以外には、店の敷居すら跨がせない割に、選ぶ客は身分も性別も年齢も異なる者ばかり。そうして気まぐれのように仕事を引き受ける他には、日がな一日アトリエに籠もるか、街をほっつき歩いて女性を口説きまわる始末。
それでも仕上がる服は、どんな時でも一級品。まだ開店して間もない店ではありますが、既にその噂は城下に広まりつつありました。彼の服に袖を通した人々が、いつしか呼び始めた二つ名は『色彩の魔術師』
さて、王都の片隅に立つ小さな仕立て屋に、また一人クセの強そうなお客様が。そろそろ、お出迎え致しましょう……
テーラー・ミナトへ、ようこそ。
*
「邪魔をするぞ……誰もいないではないか」
おっと……開口一番、私の存在意義を揺るがすような事を言ってくれやがりましたね。失礼、気を取り直して参りましょう。
お付きの者にうやうやしくドアを開けられて、ズカズカと店内に入って来たのは、どこぞの良いお坊ちゃんでしょうか。何やらお忍びなのか、地味な色合いの服で帽子を目深に被っておりますが、滲み出る気位の高さと、サラサラキラキラと輝く、いかにもファンタジーな銀髪は隠しようもありません。
「……出直されますか」
「この私が、こうしてわざわざ足を運んでやったと言うのに、なぜ出直してやらねばならない?店の者を探して参れ」
「御意」
店の奥へと駆けて行った従者の方は、すぐに目的の人物を探し当てました。
「くさっ……!酒くさっ……!」
そんな、残念な悲鳴と共に。
「何事だ……っ?!」
従者さんの肩越しに店の奥の扉を覗くと、そこには温室育ちのお坊ちゃまには、刺激の強すぎる光景が広がっていました。
床には何やら殴り書いたような紙が散乱し、壁には頭のおかしくなりそうな程に色とりどりの布が無秩序に貼られ、何かのコレクションのように酒瓶がズラリと窓辺に並びます。壁際のミシンだけが不自然なほどに美しく磨き上げられ、何に使うのか分からない道具、そして息を呑むように美しいドレスが……『彼』の作品が、そこにありました。
「これ、が……」
ゴミ溜めの中で、なおも光り輝く星のごとく。海の底から美しい揺らぎだけを抜き出したように、なめらかなサテンとチュールの波の上を、光沢のある銀糸が甘い蔓薔薇を咲かせる、たおやかで繊細な乙女のためのイブニング・ドレスでありました。
「……素敵だ」
お坊ちゃまが、無意識のうちにか零した、ほんの小さなかすれ声。お付きの者も気付かないようなその声に、部屋の奥の『彼』は初めてモゾリと反応を見せました。
「何奴っ!」
従者の方が腰の剣に手を当て、厳しい顔で叫びます。男は眠そうな顔をノロノロとあげて、コテリと首を傾げました。
「いや、ここの店主だけど……お前らこそ何?不法侵入なの?お帰りはあちらでーす」
部屋に踏み込んだ者達が目の当たりにしたのは、この部屋のごとく無秩序な男でした。ゆったりとした肘掛け椅子に沈み込み、上半身は肩口と裾だけに七色のペンキをぶちまけたようなブラックのシャツを肌蹴ており、そうかと思えば白地に新聞記事をベタベタと貼り付けたド派手なスキニーパンツをこれでもかとレッグハーネスで締め付け、極めつけにはショッキングピンクのピンヒールブーツ。だらしないのかキッチリしているのか、何とも判断に困る格好をしています。
固まる不法侵入者、もといお客様を前に、この国では珍しい黒髪を跳ね散らかした男はフワリと欠伸をひとつすると、手にしていた酒瓶をグビグビと煽り……そしてまた、椅子に深く沈み込んで目を閉じました。
「って、寝るなぁあああっ!?」
お坊ちゃまの叫びに、男はわざとらしく耳をふさいで聞こえないフリをしました。
「煩いぞ、不法侵入者」
「だから客だ!邪魔するぞと言ったろうが!」
キャンキャン喚くお坊ちゃまに、男は不機嫌そうに片目を開けてボヤきました。
「面倒そうな気配がしたからな。居留守だ」
「こんなに堂々とした居留守があるかっ!」
叫びすぎてゼエハアと肩で息をしている軟弱な主人の代打に、ナイスミドルでいかにも執事然とした紳士が進み出ます。
「突然の訪問、誠に」
「断る」
「まだ謝罪も申しておりませんぞっ?!」
バッサリと切り捨てた男は、畳み掛けるように冷徹な声で断りの理由を並べます。
「一目見りゃ分かる。見た目は地味にごまかしてても、明らかに質の良すぎるシャツ。靴には土埃一つ付いてない、つまりは馬車を使って来た。馬車に乗れるのは貴族だけ。それなのに、プライド高いお貴族様が王室公認の仕立て屋を呼びつけるでもなく、こんな場末の小っこい店に自分の足で出向いた。街で囁かれてる噂に縋らなきゃならねえほど、切羽詰まった状況って事だろ。面倒事以外の何がある。大体、貴族ってのは意外とケチで、うんぬんかんぬん……」
口を挟ませないためか、矢継ぎ早に御託を並べる男に、しばらく考え込んでいた執事さんは、おもむろに算盤を取り出しました。
「パチパチパチ、と。これくらいで、いかかがでしょうか」
「……まあ、面倒ではあるが?考えてやらない事もないな、うん。決して今月の酒代がピンチ、などと言う話ではない。断じて」
ヒラリ、と絶妙なタイミングで机から落ちた紙には「借用書」と書かれ、床に散らばる紙くずをよく見れば「ツケ代」と赤い文字で書かれた紙が何枚も……
男は凄まじい速度でシュバッと紙を拾うと、ビリビリに破いて無かった事にしました。
「……本当に、こんなクズに任せるのか」
まさしく汚物を見る冷たい瞳のお坊ちゃまに、執事さんはヒソヒソと返します。
「ですが、主……もうここしかありません」
「っち」
早速感化されてきたのか、お行儀悪く舌打ちをかますご主人様に、執事さんは溜め息を吐いて店主(仮)の男に向き直りました。
「して、店主(仮)殿。貴方には、我らが主人に最も似合う服を仕立てて頂きたいのです」
「それは、誰の目から見て『似合う』服だ?アンタか?貴族連中か?そこのボンボンか?それとも、世間の目とやらか?」
ひたりと坊っちゃまを見据える瞳からは、つい先程までの眠そうな気配が消え失せ、代わりに何もかもを見透かすような、冷え冷えとした光が宿っておりました。坊ちゃまは、怯んだ呼吸を誤魔化すように、虚勢を張って声も張り上げました。
「そこを含めて、私を満足させてみろ」
「……成程。アンタが『満足』する服、ね」
溜め息混じりに吐き出された声と共に、無機質な瞳が依頼人の爪先から頭のてっぺんまでを、舐め回すように辿ります。潔癖な坊ちゃまは、何故か嫌悪感よりも息の詰まるような緊張を感じ、呼吸が苦しくなり始めた所でフイと男の視線は逸らされました。
「どれくらいの頻度で着る予定だ」
「恐らく出番は一度きりですな。主が人前で二度同じ服を着る機会など、滅多とございませんし……それではお受け頂けませんか」
男はパチリと瞬いた後に、ゆるりと首を振りました。単なる質問だったようです。
「……いや、その点に関して文句はない。耐久性を気にしない一点物か。当然ながら、フルオーダー。シチュエーションと、期日は」
「主が主役のセレモニーですな。一ヶ月半は先を予定しておりますが、念のため一ヶ月を目処にして頂きたい」
「客層は。会場の規模は。照明は。内装の色調は。それから……」
今度は執事さんを質問攻めにし始めた男に、横で聞いていた坊ちゃまは、黙っていられず叫びました。
「おい、貴様……先程から聞いていれば、服とは関係のない質問ばかり!私の服を仕立てる気があるのか無いのか、まずはそこをハッキリしないかっ!」
坊ちゃまの怒鳴り声に、男は面倒くさそうに瞬きをひとつ、それから溜め息をひとつ。
「……背筋を正せ」
「……は?」
男はツカツカと歩み寄ると、坊ちゃまの顎を指先で撫で、スルリと彼の腰に手を回しました。ほんの一瞬の出来事に、お付きの者達は口をあんぐりと開けて、止める事も忘れています。ウブな坊ちゃまは、真っ赤になって自分の身体を抱き締めました。
……もう、お嫁に行けませんね。
「っ、何をする!嫁にはそもそも行かん!」
「……?軽度ではあるが、視線を落とす癖が付いている。視線が落ちれば、自然と猫背になる。その自信無さげなウザい前髪もやめろ」
そう淡々と告げて、あっさりと坊ちゃまの帽子を奪い取ると、前髪をサラリと指先で掻き分けました。隠れていた、涼し気で切れ長な銀色の瞳があらわになり、坊ちゃまは先程までよりも大人びて青年らしくなりました。
「ああ、大分良くなった……綺麗じゃないか」
男が初めて見せた微笑みに、坊ちゃまは心臓がトゥンクと鳴るのを
「感じるかっ、無礼者……!私を誰だと」
「へえ、誰だか教えてくれるのか?教えられるものなら、是非ともお聞かせ願いたいね。ラフのネタになるからな」
余裕綽々の顔で返された言葉に、お忍びの坊ちゃまはグッと黙る他ありません。
「……エルとだけ、呼ぶがいい。許す」
「ふうん……意外と鍛えてある。イイ身体してるし……まあ、悪くない素材だな……」
男は坊ちゃまの話を微塵も聞く様子はなく、無遠慮に彼の身体をペタペタと触っています。
「っ――!」
声にならない叫び声をあげる坊ちゃまに、男は満足そうな顔で手を離すと、腕組みをして不遜に言い放ちました。
「良いだろう、引き受けてやる」
「っ、本当に何様……っ」
「城下一……いや、世界一の仕立て屋だ。アンタらも、それが分かってて来たんだろ?」
グッと言葉を詰まらせる坊ちゃまに、グイと男は身を乗り出して、吐息が触れるほど近くで囁きました。悪魔との契約の、囁きを。
「テーラー・ミナトの主は、この俺だ。引き受けたからには、アンタを世界一綺麗にしてやる……その覚悟が、アンタにあるのか?」
*
ミナト・イッシキと名乗ったその男は、大口を叩いた割に、ウダウダゴロゴロと飲んだくれて、ちっとも仕事をしませんでした。
『本人が来てくれないと、インスピレーション湧かなーい!仕事したくないでござるー!』
そう訳の分からない事を叫びながら、コドモのように床をゴロゴロのたうち回る男に、従者の方々は軽く殺意を覚えながらも、泣く泣く主を呼びに帰る事になりました。
ああ見えて忙しい身であるお坊ちゃまは、その整った顔に青筋を浮かべながらも、なんとか時間を作って仕立て屋に出向きました。
「おい、仕立て屋!お望み通り、来てやったぞ。いい加減に仕事を……っ!」
怒鳴り込むつもりだった坊ちゃまの声は、そこで不自然に途切れてしまいました。あのゴミ溜めのような部屋はすっかり片付き、男は肘掛け椅子に脚を組んで、何かの分厚い本のページをめくっています。その深い黒の瞳が、思索の沼から引き上げられるように焦点を結ぶ様を、お坊ちゃまは思わず黙って見つめてしまいました。
「……来たか。行くぞ」
パタリ、と閉じた本を小脇に抱え、男は淡々と部屋を出て行ってしまいました。
「おい、ボン。一人で来たのか?」
慌てて追いかけてきたお坊ちゃまに、男はボソリと尋ねました。
「ボンではなくエルだ、仕立て屋……どうせ、どこかに隠れて護衛してるんだろう」
「それじゃ、いっちょ撒いてやるとすっか」
「……は?」
目を点にする坊ちゃま……エルの手をグイと引き寄せた男は、そのまま猛烈な勢いで走り始めました。虚を衝かれた護衛達は、慌てて後を追い始めますが、城下の裏道を知り尽くしている仕立て屋に敵うはずもありません。
「アンタ……護衛の人選、もうちょっと考えた方が良いんじゃない、のっ」
人様の家の柵を乗り越えながら男はボヤきますが、箱入り息子のエルは舌を噛まないようにするのが精一杯で返事も出来ません。
「ったく、しゃーねーな。ほれ、着いたぞ」
しばらく駆け通して、仕立て屋が足を止めたのは、妖しい雰囲気に満ちた裏通りの一角にある、寂れたショーウィンドウの前でした。
「これは……潰れた店、か?」
空っぽでホコリまみれのガラスケースにエルが呟くと、男はへらりと笑いました。
「まあ、入りなって」
明らかに危険な匂いのする笑みに、どうして自分はこんな場所までノコノコ付いてきてしまったのだろうと、ちょっと抜けてるエル坊ちゃまは今更のように思いました。
「……ふん」
ただ、素直に扉を開けてしまうあたり、強情と申しますか、単なる自暴自棄なのか。
(それでも確かに、この男の手を握り返した瞬間、世界が変わる音が聞こえたから――)
そんな恥ずかしいモノローグを落としながら、エルは部屋の中に足を踏み入れました。
「なっ、んだ……この服の山は!」
目の前に現れたのは、大量の服が入ったクローゼットを持っているエルでも見たことのないような、無造作に積まれた服の山。それも良く見ると、こんなひなびた裏通りにはふさわしくないような高価なものばかり。
「まさか、盗品……」
「はーい、お口チャックな。今日は店主の好意で使わせてもらうから、そういう事で」
仕立て屋はヒラヒラと適当に手を振りながら、服の山からヒョイヒョイと何枚かを取り出して、エルの手に押し付けました。
「着て来い。試着室はあっちな」
「ちょっ、お前の店では駄目なのか?」
盗品を着るには大きな心理的抵抗を感じる、至極まっとうな感性のエル坊ちゃま。
「生憎、俺の店は在庫を一切持たない主義だ」
「なら、他の店……採寸もしてないし……」
往生際の悪いエルに、男は溜め息をひとつ。
「他がダメだったから、俺の所に来たんだろうが。いい加減、腹括れ。それに大雑把な採寸なら、この前しただろ」
「……まさか、あのベタベタ身体を触って」
目を白黒させている間に、あれよあれよと試着室に押し込まれてしまったエルは、情けない顔で息を吐きながら着替え始めました。
「どうだ」
「……次」
もぞもぞもぞ
「……どうだ」
「次」
もぞもぞもぞ
「ど」
「次」
「おい、見てるのか本当にっ!」
持参した本のページをパラリパラリとめくるばかりで、ほとんど顔も上げずに指示を飛ばす男に、エルは我慢ならず叫びました。
「……俺を誰だと思ってるんだ?」
仕立て屋の静かな声と視線に、エルはぐっと息を詰まらせながらも言い募ります。
「人形遊びのように服をとっかえひっかえさせてるクセに、そっちはさっきから本ばっかり見て……何がしたいんだ、お前は!」
真っ赤な顔で喚き散らすエル坊ちゃまに、男はわざとらしく溜め息を吐きました。
「……分かった、仕方ないから説明してやろう。今はアンタの顔と、身体のラインに合う型を見立ててる所だ。こっちは生地見本帳」
パラパラとめくって見せるそれには、紙の代わりに色とりどりの布が綴じられています。
「ここには、俺の伝手で手に入れる事の出来る布の全てが詰まってる……俺がこの世界でイチから築き上げた財産だ」
大事そうに見本帳の表紙を撫でた仕立て屋が、ふと見せた優しい表情に、エル坊ちゃまは思わず見とれてしまいました。男の方はどこ吹く風で、新たな服を物色しておりますが。
「そうだな……そろそろいいだろ。ほれ」
ポン、と男が手渡したのは、ピンクのフリルとレースがあしらわれた……端的に申し上げれば、一着の愛らしいドレスでした。
『人を馬鹿にするのもいい加減にしろっ!』
とか何とか、また顔を真っ赤にして怒るかと思いきや、エルは青褪めた表情で男を見上げ、震える声を絞り出しました。
「……いつから」
「アンタが店に来た瞬間から、ずっと観察してた。アンタは部屋の惨状なんかより、まずドレスに目が止まってた。その次には、俺のハイヒール。そこそこ綺麗な顔してるのに、自信無さげな前髪と背格好。護衛を撒いて逃げるとか、自分から危険に飛び込むくらいには、この世界から逃げたいと思ってる」
「……もう、十分だ」
ぎり、と爪の食い込むくらいに握り締められたエルの手を、男は優しく掬い上げました。
「……何より、その仕草だ。言動はがさつだが、動きのひとつひとつが繊細でしなやか。男らしい服に袖を通す度、心と身体が噛み合ってないって顔してる。悪かったな、色々と不躾な……試すようなマネして」
解かれた指先に、そっとドレスを預けて、仕立て屋は一歩下がりました。
「もう、分かるだろ。護衛はいないし、店主にも席は外してもらってる。見てるのは、俺だけだ……まあ、あの執事の爺さんだけは撒けなかったんだが、事情知ってるっぽいし」
「爺やが……」
「さて、そろそろ腹の底、ぶちまけてもらおうか……なあ、王子様?」
意地の悪い表情を浮かべながらも、男の声はどこまでも柔らかく、目の前の坊ちゃまを……いえ、この国の王子様を労るようでした。
第三王子、エルンスト・ディートリヒ殿下。それこそが『エル坊ちゃま』の正体であり、また貴族御用達の店を使えない最大の理由でもありました。
王子様は泣きそうな表情で皮肉気に笑うと、身を翻して試着室の中へ入って行きました。
「……どうだ」
カーテンが開き、消え入りそうな声が、男に聞くでもなく、ポツリと落ちて消えました。王子様はとても美しい方ですが、鋭い頬骨と切れ長の瞳、そして何よりでこぼことした喉仏は明らかに男性のものでした。
愛らしいドレスから覗く手足はスラリと細く、まだ少年の幼さを残していましたが、それでも骨張った手と鍛え抜かれた身体は、痛々しく筋張って。震える手が、己の異質さを覆い隠すように、その身を抱き締めました。
「笑うがいい。惨めだろう……どれだけ願っても、拒んでも、この身体は男のものへと近付いていく。宮中でゴテゴテと着飾っている女共より、私の方が美しいと言い聞かせようと、結局はこのザマだっ……」
吐き捨てるように告げて、王子様は座り込んでしまいました。開いた背中から覗く骨が、痛みを堪えるように震えて。
「お前も知っている通り、上の兄上はお二人とも既に武勇で名を轟かせている。私もあのように男らしくあれと、育てられてきた。それでも、心が拒んでいる……いつしか、心の底から笑えなくなっていた。人々は私を氷の王子と呼ぶ……冷徹で、人の心を持たない鬼だと。男らしくなりたくないと願うほど、私はこのドレスの似合わない人間になっていく」
「アンタに似合わないのは当然だ」
あっさりと同意されて、ビクリと震えた肩に、仕立て屋は淡々と言葉を落としました。
「……勘違いするな。アンタに似合わないのは、これがまだアンタの服じゃないからだ」
意味が分からない、と言いた気な表情を浮かべる王子様に、男は落ち着いた声で根気よく続けました。
「ドレスってのは、女性の柔らかいシルエットに合うように作られてる。それをゴツゴツした男が着ても、不格好になるのは当たり前だ。よっぽど努力するか、ラインの目立たない服を着るかしないとな。でも、そんな後ろ指をさされてまで、似合わない服を着せるために俺がいるワケじゃない」
仕立て屋は、着ていたジャケットを脱ぐと、王子様の震える肩にかけてあげました。
「俺の矜持を、教えてやる。服は、絢爛豪華にすりゃ良いってものじゃない。最高の服を仕立てるって言うのは、この世のどこにもない奇抜で美しい服をデザインするってことじゃない……着る人間を、最高に輝かせるって意味だ。服はタダの装飾品じゃなくて、その人間の人生に寄り添うもので、魂の表現だ。その人間のステータスシンボルではなく、血肉であるべきだと、俺は思ってる」
今までになく熱をこめて語られる言葉に、俯いていた王子様の顔が少しずつ上げられて、やがて仕立て屋の優しい瞳と交わりました。
「俺は、アンタの願いを叶えるために、ここにいる。ドレスは着せてやれないが、アンタだって本当の望みは『それ』じゃないだろう……言ってみろよ。どんな自分になりたい?」
優しい温もりと、まっすぐな言葉に揺さぶられて、その声は涙のようにこぼれました。
「……あんな、暗くて地味な服は嫌だ。男らしさを見せつけるような、無骨できらぎらしい鎧なんか、もっと嫌いだ。いついかなる時も、花が似合うような人間でありたい。愛らしいものを、素直に好きだと言いたい……この身に、まとい……綺麗だと、言われたいっ」
「その願い、聞き入れた」
しっかりと言葉を受け止めた仕立て屋は、フワリと微笑んで王子様の手を取りました。
「執事の爺さんから聞いてるよ。例のセレモニー、アンタの成人のお披露目なんだってな……つまりは、誕生日パーティーだ。王子様だかなんだか知らねえが、誕生日の主役が好きな服も着れない世界なんてクソ喰らえ」
男は王子様を立たせると、その銀色の瞳を覗き込み、真剣な表情で問いました。
「アンタが声を挙げられないなら、俺が世界を変えてやる……世界で一番、綺麗になる覚悟は出来たか?」
「……ああ、出来た」
しっかりと頷きを返した王子様の瞳に、もう迷いの色はありませんでした。
*
それからと言うもの、テーラー・ミナトのアトリエも、そしてこの国の王宮も、上へ下への大騒ぎになりました。仕立て屋はアトリエに籠もってラフを何枚も破り捨てたかと思えば、数日の後には巻き尺を持って宮中に乗り込み、王子様がグッタリするほど細かく全身を測り倒したかと思うと、お付きの者を呼びつけてギョッとする値段の生地をポンポンと注文し、執事さんを捕まえて会場のことにアレコレと片っ端から文句をつけたのです。
「おい、執事の爺さん。ここの花はいつも同じヤツを活けてんのか」
「はい。ここ星天の間には、常に権威の象徴である深紅のバラを飾らせておりますが……」
執事さんの言葉に、大きな舌打ち。
「その風潮、今すぐ止めさせろ。権威の象徴だかなんだか知ったこっちゃないが、王室だったら、白くて可憐な花をトレンドにするくらいの気概を見せろよ」
「とれんど、でございますか……」
そんな調子で飛ぶように時は過ぎ、あっと言う間に納期の日はやって参りましたが、仕上がった服を見た執事さんが
『これは殿下のお誕生日に、最高の贈り物となりますな!』
と大興奮であったため、王子様はセレモニーの当日まで、見ずに我慢する事を決めました。
そして当日……
「お前が、来たのか……」
支度にはいつも数人の小姓が付く所を、衣装部屋で待っていたのは、あの仕立て屋……ミナトの顔でした。
「俺が仕立てた服だ。俺が一番良く知ってる」
当然のように頷いて、ミナトは王子様の後ろに回ると、そっと一言囁きました。
「目を、閉じて」
言われるがままに目をギュッと閉じ、心臓を不安と期待で痛いほどに高鳴らせながら、王子様はじっと無言の時を待ちました。衣擦れの音だけが響き、肌の上をなめらかな生地がすべり落ちていくのを感じながら。
「猫背、治ったな……それでいい」
柔らかな笑みを含んだ声が降り注ぎ、王子様の肩から力がそろそろと抜けました。その隙を衝いたのか、顔に柔らかい感覚が。
「なっ……おいっ!」
慌てた王子様が目を開けてしまいそうになるのを、仕立て屋はやんわりと止めました。
「こら、まだだ。大人しくしてろ」
「大人しくって、お前、男に化粧などっ」
外の者に聞こえないよう、押し殺した声で叫ぶ王子様に、呆れたような声が返ります。
「あのな、別に商売女みたく白粉を塗りたくろうってワケじゃない。アンタの肌は、そのままで十分綺麗だからな。ただ、俺の服を着るからには、それなりの格好をしてもらうってだけだ。世界を変えに行くんだろ……アンタも俺の作品の一部だ。半端は許さない」
有無を言わせない声に、王子様はなされるがままになるしかありませんでした。
「ファンデは、ほんのちょっとでいい。大事なのは、血色と……この目だ」
するりとコンプレックスの目元を撫でられて、王子様はビクリと震えました。
「大丈夫、魔法をかけておいたから……さあ、いいぞ。重い剣よりもスマートで、鎧よりも肌に近い……これがアンタの、戦闘服だ」
王子様はおそるおそる目を開くと、鏡に映る自分を声もなく見つめました。
それは、王子様が見たこともないような、溜め息のこぼれるほど美しいタキシードでした。眠りから醒める空のように、純白から淡いローズピンクへと色を変える艷やかな地。パールが朝露のごとくあちこちにあしらわれ、裾から芽吹くのは生きているかのように繊細な絹糸の花刺繍。振り返れば、腰から降りる大胆なドレープが、波間をたゆたう人魚姫のように美しく揺らいでいます。
大輪の花のように零れる、スタンドフリルのシャツを、夜空の青い闇のようなコルセットが引き締めて、折れそうなほどに細い腰を際立たせる鮮やかなコントラスト。大切なプレゼントを彩るように、首元と袖口を銀と白のリボンが引き立たせ、極めつけは花嫁のブーケのように華やかな、薄紅色したバラのコサージュが胸元を飾ります。
いつも嫌って隠していた鋭い目元は、コーラルピンクとパールのアイシャドウで柔らかい印象を与えてきます。ほんのりと紅をはかれた頬は、恋する乙女のように甘やかな恥じらいといじらしさを浮かべていて、王子様は呼吸も忘れてそっと鏡に触れました。
「……きれい、だ」
ポツリとこぼれた言葉は、泣きそうに揺れていて、それを聞いた仕立て屋は、何も言わずにかすかな笑みを浮かべました。
「仕上げだ。こっち向いて」
仕立て屋は、王子様の髪を丁寧に整えると、最後に一輪の真白いバラの花を、優しく銀色の髪に添えました。吐息の触れ合うほど近く、王子様は泣きそうな顔で笑いました。
「私の、王子様……」
「アホか……でも、綺麗だ。本当に」
そう、しみじみと落とされた言葉は、今までたった一つ王子様が望んで、どうしても手に入らなかった本心からの一言でした。
「さあ、咲き狂って来い」
「ああ、行ってくる……ありがとう」
そう、幸せそうに微笑んだ王子様は、そのとき確かに、世界で一番綺麗な人でした。
王子様の成人のお披露目は大成功に終わり、彼の世界は少しだけ生きやすくなりました。
そうして、王室お抱えになった仕立て屋と王子様は、末永く幸せに暮らしましたとさ。
めでたしめでたし。
「んなワケがあるかっ、この大酒呑みの穀潰しが!仕事しろぉおおおっ!!」
「働きたくないでござるぅううう」
ほんとにおしまい。
最後までお付き合い頂きありがとうございます!