蝶が羽ばたく時
ガルマニア帝国にて
昼間からワインを飲んだ暮れても許されるのは、アルコール中毒者でも金持ちでもない。
権力者だけだ。
大きく白い部屋に、たった1人でステーキを頬張っているのは、間違いなく権力者だった。
光を帯びた白い肌に、ダイヤのように美しい髪と整った顔立ちは、見た者の舌を美しいと動かすことだろう。
「NSIAはガルマニアを転覆させる気のようです。既に国防軍と親衛隊の内部に協力者が確認されています」
「あの国はいつになっても油が欲しいのね」
国家安全情報局、通称NSIA、レギオン合衆国の諜報機関である。
反レギオン国家の転覆、暗殺、etc.無駄に金と悪知恵が働く連中だ。
「いい機会でしょう。この際、国内の思想を明確化すべだと思うの」
「ファシズム体制を崩すつもりですか?」
「違うわ、継続させるの。この世界があの世界の劣化コピーである限り、私の違和感は消えない」
「全体主義者と資本主義者が殺し合う状況が、この世界に必要なのよ」
「………また人が大勢死にますね」
「見えてないだけで、私が殺すよりもっと多く、死んでたかもしれないわよ」
彼女には、これから起きることが全て分かっていた。
指差す方向によって、大規模な変化をもたらす事も。
「貴女は、退屈そうに話しますね」
「あら、そう見えるかしら。嫌ね、これでも愛する人のことを思っているのよ」
イザベラは、せせらぎのように笑うと、ベッドに寝転んだ。
「それじゃあ、今後ともよろしく二重スパイさん」
ドレッドノート大学にて
「あ、あの!ヴェロニカさんですよね?」
潮風の心地よい風と、近場の海軍基地から飛ぶジェットの爆音に悩まされながら、一仕事終えた後のコーヒーを一杯飲んでいた。
「さ、サインください!」
ヴェロニカは本を出した訳でも、芸人になったつもりも無かった。
だが、一度付いた奇跡の少女という肩書きは消えないらしい。
あの事故からもう数ヵ月たったと言うのに、サインや握手をねだる人間が続出していた。
「私からサインを貰ったって、何の幸運も得られないですよ」
「とんでもない!私は有名人が好きなだけです。別に幸運とか、そういうのは目的ではないので」
このぐいぐい来る女は、あり得ないほど鬱陶しかった。
更に仕事、科学兵器被害者の治療に使う血液を、病院に提供したので貧血になっていた。
「サイン貰うまで帰りません」
「……書けばいいの」
「はい!この厚紙にどーぞ」
乱雑に名前を書き、鬱陶しい女へ投げ返す。
「ありがとうございまーす!」
満足そうに笑うと、女は足早に去って行った。
ため息をこぼし、天を見上げる。
ヴェロニカはコーヒーを飲み終えると、反対側の移民が経営する大陸料理レストランへ入った。
ブリタニカ料理には慣れてきたが、どうしても味では見劣りする物が多い。
スコーンやクッキー等の茶菓子は、誰が食っても旨いと言わしめるが、料理に関してはまるで駄目だった。
「注文は?」
「Aセットで、あとケバブ5本にラム肉の腸詰め」
店員は目を丸くした。
こんな朝から大量の料理を、しかも華奢な少女が注文したのだから驚かれたのだ。
抜いた血の分を補う為に、多く食べる
最近やっと安全に献血ができる歳になったので、ここぞとばかりに血液を抜きまくっていた。
それが、せめてもの償いになれば、そう思ってのことだった。
「すみません」
料理を平らげると、店長らしき男がニコニコしながら訪ねてきた。
「お店に飾る用のサインくれませんか」
「……シャイセ」
誰かの部屋にて
乱雑に放置された食器、ポストに押し込まれた請求書、脱ぎ捨てられた洋服、これを見て彼女の生活が幸せだと言う人間はいないだろう。
「おい、クソ女!金払え、いつまで滞納するつもりだ!」
借金取りがドア叩き、金を返せと押し掛ける。
暗がりの中、蝋燭一本の光を頼りに写真と証拠を繋ぎ合わせる。
電気も水道も止められているので、蝋燭だけが光源だった。
「絶対取り立てるからな!」
足でドアを蹴り、ドスドスと足音を立てて出て行った。
そんな事も意に介さず、野心的な手先で核心に迫って行く。
壁一面に貼られた写真の中から、1人の男をピックアップする。
「やはりこの男……いや、今は女と言うべきか」
爪を噛み、恨めしそうに写真を凝視する女の手には、なまくらのナイフが握られていた。