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憲明は、どちらかといえば現実主義の気がある。
彼が恋愛というロマンチックなものに好奇心を持ち、それが七年も続いたのは奇跡だといってもいい。家庭を持ち子孫を残す事である、と彼が決めかかってしまえば、この問題はすぐにでもなかった事になってしまうのだ。
事実、病院を出た後、何故だか彼の喜々とした感覚や情熱はやや収まってしまっていた。知らない事を知った、と自身で判断したためなのか、空気を掴むような現実味のない目標に飽いてしまったのか、半ば夢から覚めたような心地で彼は歩いていた。
「怒りの場合でも、脈拍と体温は上がりますよ。怒りだけではありません。喜怒哀楽のどのパターンでも、身体には何らかの作用が連携して起こるものなのです」
料金を支払う際、やってきた医者がそう言っていた。「怒りと恋は全く違うものなのだから、それぐらい分かるぞ」と憲明はあたり前のように答えた。けれど彼は、病院から出てからもしばらく思案した結果、やはり恋の兆しであると一人で納得する。
けれど、強い興味は既になくなってしまっていた。
先程、ビルに設置されている大型モニターで放送されていたお昼の番組で、女性ゲストが「運命の相手がやってくるまでは、気長に待てばいいのよ」と言っていたのを聞いたせいだろうか?
憲明にしては、珍しく次の行動への判断がつかない状況だった。人混みの中をぼんやりと歩く足は、自然と駅へ向かっている。彼は、何も考えないまま身体を動かす事が出来ない性質だったが、この時は何故か、黄色い看板に目をとめると無性に糖分が欲しくなり、つられるようにその店に立ち寄ってしまっていた。
その甘いドーナツショップには、女性客が多かった。ちょうどセール期間中らしく、あまり広いとはいえない店内は、憲明よりも背丈の低い女性でごった返していた。彼の頭が女性陣からつき出ているものだから、時々距離を置いた女性がチラリと振り返って、「あら」という表情をした。
レジに並んだ列で彼の番が来たのは、もう随分と待った後だった。空腹だったわけではないが、目の前の安価な商品がすぐ手に入らない状況が、彼を苛立たせていた。買えないものはこれまで一度もなく、待たされる事だってこれが初めての経験だった。
「長らくお待たせ致しました」
レジを打っていた青年が、憲明の顔を見てすぐさま申し訳なさそうに詫びた。チョコとカスタードクリームのドーナツを、素早く丁寧に袋に詰めると「新商品の抹茶ドーナツはいかがでしょうか」と愛想のいい顔で尋ねる。
たった数百円もしない二つのドーナツの合計を見て、憲明は「じゃあソレもくれ」とだけ答えた。千円を出してもお釣りが帰って来たので、財布に戻すのも面倒になってポケットに押し込む。いつも手土産でもらっているドーナツに比べれば、随分と見劣りのする商品だ。彼はそんな事を思いながら、早々に店を出た。
憲明は近くのベンチに腰かけ、行き交う車や沢山の人間をしばらく眺めた。珈琲も手元にないまま、袋を開いて、まずはチョコ味のドーナツを手に取る。無造作にかぶりついてみたものの、ただ甘いだけのドーナツであった。砂糖や油が指先にこびりつき、唇までうんざりするほど甘い。
小さなドーナツ一つを食しただけで、急速に珈琲が欲しくなった。袋に入っていた紙ナプキンで指と唇を拭い、数メートル先の自動販売機でブラックの缶珈琲を買う。彼は自動販売機の前でそのまま珈琲を飲み干してしまったのだが、それでも手元に残った二つのドーナツを投げ捨ててしまう気にはなれなかった。
物心ついた頃から、食べ物に不自由のない生活を送っていたため、彼は食にはあまり関心がなかった。彼の実家には専属のコックがいたが、空腹が満たされると残った料理の全てを処分してしまう。外食に関しても同じで、特に食べる価値がないと判断された物は、そのまま破棄される事もしばしばあった。
けれど憲明は、結局ドーナツの紙袋を抱えたまま、ゴミ箱の前を通り過ぎた。何故か捨てるのにしのびない気がしていた。
駅に向かう途中で、彼が再び進路を変えたのは、全くの偶然だった。
不意に、建物の下に立て掛けられている小さな手書きの案内板に目が留まり、これまで古書店に縁すらなかったのに「店だけでも見てみよう」と思いついたのだ。そこへ偶然にも同じタイミングで角を曲がってきた人がいて、二人は気付く間もなくぶつかってしまっていた。
二人の人間のダメージは、さほどのものでもなかったのだが、彼の手から転がり落ちたドーナツの紙袋は、中道からやってきた一台の軽トラックの前に飛び出した。そうしてトラックは、見事に前輪と後輪のタイヤで、紙袋ごとドーナツを真っ直ぐに踏みつけていったのだ。
憲明は、ぶつかった事に対してよりも、転がり落ちていった紙袋をずっと目で追っていたから「どうしてこのタイミングで」と普段なら絶対にしない失態に苛立った。
必要ないと思っていたものが、前触れもなく駄目になったときの惜しくなる気持ちとは不思議なもので、彼は突如として湧きあがった未練を抱えて、しばらくアスファルトの方を睨みつけていた。
「ごめんなさい」
柔らかい声が聞こえて、彼はようやく、ぶつかって来た相手の存在を思い出した。
目鼻立ちの整った、どちらかというと可愛らしい感じのする小柄な若い女性であった。厳しさの欠片もない顔には緊張感も感じられず、憲明は自然と不愉快さを目元に浮かべた。
その女性は、少女の顔に薄化粧をしているような女だった。社会人になって、まだ日が浅いのかもしれない。どこかの会社の事務制服を着ていたのだが、制服のサイズが少々大きいせいか、彼女が身体的に未発達なのか、ひどくアンバランスに思えてくる。
大きくて丸い瞳が、考えも無しに憲明を見上げていた。彼女はしばらく彼を見つめていたが、道路に無残な残骸を残した紙袋とドーナツへ視線を向けると、もう一度「ごめんなさい」と戸惑ったような声を上げた。どうしていいのか一人では全く決断が出せない、という言葉を見事に書いたかのような表情だった。
「別に、構わない」
彼は、うんざりと吐き捨てた。君はもう成人しているだろう。どうしてこのぐらいの判断も出来ないのかね、という説教を頭から振り払う。休日には仕事に関わる事はしない、と決めているのだ。
利益に繋がらない関わりや面倒事も好きではなかった。しかし、憲明の苛立ちに気付いた女性が、その原因を勘違いしてこう言った。
「あのドーナツ、最近出来た美味しいやつですよね。食べるのを楽しみにしていたのに、私がぶつかってしまったから……本当にごめんなさい」
何故そんな事を言うのだろう、と憲明は露骨に顔を顰めた。どことなく暑さを覚え、前髪をかき上げながらこう答える。
「いや、本当に構わないんだ。一つは食べてみたが、思っていた味とは違っていたから」
君が原因で苛立っているのだから放っておいてくれ、それが何故分からないんだ?
彼は自分で、胸がぞわぞわと不吉な鼓動を立てるのが分かった。不快感と怒りが、嫌悪感へと発展しそうな気配がした。これは会社にいる時よく感じるもので、これが恋とは全く違う感覚である事だけは確かである。
女性は、すまないという想いを話し続けた。彼にはドーナツの良さなど分からないから、思わず「君はそこまで『あの』ドーナツを信仰しているのかね」と尋ねそうになったほどだった。弁償する、なんて事になったらたまらない、と憲明はますます苛立った。たった数百円の物のために、どうして俺は足を止められているのだろう?
彼は口こそ挟まなかったが、自然と片方の革靴の先で、アスファルトをトントントントンと叩いていた。胸のあたりに感じる嫌な具合の心音と同じぐらいに速いテンポで、組んだ腕の指も同時にトントントントンと動かした。彼女の話のタイミングを見計らって、さっさと帰る考えだった。
けれど、どんなに賢くて優秀な彼でも、運命までは見通す事も出来ない。彼の前でころころと表情を変えながら謝罪とお喋りを挟んでいた女性は、ふと顔を上げ、無垢な顔に花を咲かせたのである。
ドキリ、と憲明の心臓が一度跳ね上がり、そして狂わされたペースは一気に鼓動を潜めた。こんな表情を異性に向けられたのは、今までで初めての事である。
「な、なんだね?」
「私、いい事を思いつきました! 一緒に食べに行きましょう! ちょうどお昼の休憩に入っていますし、お勧めのメニューを紹介しますよ」
「だから、こちらとしては別に……」
「新発売の抹茶、本当に美味しいんですよ。会社の男性職員も皆気に入ってくれていて、あ、そうそう、珍しい組み合わせのドーナツがあるんです。あれは本当に、意外といけるんですよねぇ」
彼女は話しながら、まるで食べている時の幸福感を思い出したかのように、緊張感も気品もなく「えへへへ」と無邪気な顔で笑った。
憲明は自身の胸の辺りから、動揺の余韻が残っているらしい、トクトクトクトクという小さな音を聞いた。「そ、そうなのか」とよく分からない返事をするのが精一杯だった。指先や耳は熱く、けれど見逃してしまいそうなほどのトクトクトクトクが、何故だか心地も良いような気もしてくる。
この時、彼はすっかり怒りを忘れていた。二十二歳の彼女と、これから長い付き合いになるだろうとも全く想像してもいなかった。家族や友人からも大事に見守られた彼女は、恋を全く知らなかったし、彼は年相応に成熟した精神や年齢などが、自身の恋とは無関係である事を知らなかった。
二人の恋は、これから時間をかけて育ってゆくのだが、彼はその間、愛読書であった「指南書」の事を次第に忘れる事となる。それは、大事に箱につめられて仕舞われてしまった。
結婚して新居を構えることになった頃、部屋の奥から、その擦り切れた文庫本を彼女が見つけた時、憲明はやや照れ臭そうにこう言った。
「当たり前の事が書いてあるだけの本さ」
そんな彼は結婚式の際、愛しい妻に一つの言葉を送っていた。
『寄り添う相手を見つけた僕らの間に、孤独はない』
彼に贈られたその言葉を、彼女は結婚指輪と共に、今でも大事にしている。