第52話 俺は暗闇に身を潜める
「ええっと灯りは……確かこの辺りに……」
階段を降りて来る謎の人物を警戒して飛び込んだ一室は真っ暗な部屋だった。アレックスは右手で室内の壁を弄って照明器具を探しているが、その小さな左手は俺の服を掴んだままだ。
「すみません、あんまりこの部屋には入らなくて……あ、有りました!」
アレックスの声色が変わると同時に、室内に明るさが広がった。
明るくなった室内を改めて見渡す。俺達が飛び込んだ部屋は、厨房だった。
広めの流し台、三口のコンロ、フリーグ家が売っているフライヤー、まだそんなに発売していない筈の水槽も有って、数種類の魚が元気そうに泳いでいた。
他にも氷結魔法の魔導具を用いた簡易的な冷蔵庫や、調理器具や食器を仕舞っている棚も有ったが、テーブルやイスなどの家具は置いておらず、ここは料理を作るだけの空間だった。
ここで誰かがカテリーナさんの食事を用意しているのだろうが、1人分にしては食材や食器が多いなという印象だ。
「あんまり隠れるのに適した場所では無いですが、物陰に身を潜めるくらいなら出来そうですね。場所を決めたら灯りを消しますよ」
ふむ。驚くほどアレックスが冷静だ。こういう事態に慣れているんだろうか。
アレックスは冷蔵庫の隣に積まれていた木箱を少し動かして、入口からの死角を作った。俺をその死角となった場所に座らせると、宣言通りに灯りを消し、火魔法で作った小さな炎を右手に灯して戻って来た。
「暫く風魔法に集中するので、話しかけないでくださいね」
俺の右隣に座ったアレックスは、左手で俺の上着を掴み、右手を天井の通気孔へ向ける。廊下と繋がっている通気孔を利用して、風魔法で音を拾って来るつもりなんだろう。
光源となっていた火魔法の小さな炎が消えると、それを合図に室内の風が動き始めた。
再び訪れた暗闇の中で知覚出来るのは、髪を揺らす風の動き、アレックスのゆっくりと大きく波打つ呼吸音、そして、小刻みに伝わる振動。
俺の服を掴むアレックスの左手は震えていた。
こういう事態に慣れている訳ではなく、冷静になろうと必死に取り繕っていたのだ。
俺もじっとしては居られない。今出来る事を考えよう。
俺は集中するアレックスの邪魔をしないように気を付けながら背中のリュックを下ろして、地下の狭い空間でも使える魔導具を吟味しようと動き出した。
4つ目の魔導具を選び出した頃、アレックスの左手がびくんと大きく震えた。それと同時に、複数の男女の言い争うような声が耳に届く。
「やめてください!そんなつもりで私は」
「司祭経由で話はついている。貰っていくぞ!」
「姉さん!俺達を騙したのか!?」
「きゃあああ!」
「やめろ!うぐっ」
若い女性の悲鳴と、それに続いた若い男性の叫び声、そして何かの衝突音を最後に音が途切れた。
アレックスの左手の震えと呼吸音が激しくなっている。感情が揺れて精神が安定せず、風魔法への集中が途切れてしまったのだろう。
「大丈夫か?」
震える左手にそっと右手を重ねる。アレックスの様子はゆっくりと落ち着いていき、
「最初に聞こえた声はグレーテさんです。間違い有りません。まだ此処に残っていたんだ……」
左手を離さないまま、アレックスは口を開いた。
「ど、どうしましょう。何か諍いがあったんですよね?相手はさっき階段を降りて来た人でしょうか?グレーテさんを助けに行くべきで」
「落ち着いて、アレックス。もう1度、音を拾って。助けに行くにしても、出来ればグレーテさん達が居る場所を特定したい」
「わ、わかりました。ふー、すー、はー。よしっ!」
アレックスは小さな胸を大きく反らして深呼吸し、再び通気孔へ右手を向けた。
「場所は、2部屋向こうの一室。グレーテさん達はまだそこに留まって争いを続けている。さて、アレックスはどうしたい?」
暫く厨房に留まって音を拾っていたが、事態は好転する事無く、断続手な女性の悲鳴が耳に届いていた。
「助けに行きたい!ですけど……」
アレックスは自信なさげに表情を曇らせている。
「よし、行こう。捕縛用の魔導具が有るから、それでなんとかなるだろう。ルトガーさんを呼びに行く時間が勿体無いから、早速行こう!」
俺はアレックスを元気づける為に殊更明るく振る舞い、アレックスの左手を掴んで勢い良く立ち上がった。
「ほら、アレックスも」
「あっ、その表情。アリーさんに似てますね。ちょっと、ホッとします」
「えっ?どんな表情?」
空いている手でペタペタと自分の顔を触っていると、アレックスは久し振りに笑顔を見せてくれた。
うーん、どんな表情なんだろう。凄く気になるじゃないか。




