第30話 俺はニコルさんの診療所に駆け込む
「やっぱり、ゲオルグ様には、私が、付いてない、と、ダメですね」
真っ白なシーツが張られたベッドの上で目を覚ましたマリーが、ニコルさんに呼ばれて近寄った俺の姿を確認して無理矢理作った笑顔をこちらに向け、ゆっくりと言葉を切りながらもいつもと変わらない調子で挑発して来た。
俺を庇って負傷した時の血の気の失った表情よりは生気を取り戻しているが、目覚めた直後で、完全に元通りと言える程には回復していない。
ここはニコルさんの診療所内の一室。室内に4床有る入院患者用のベッドを男爵家が2つ埋めている。
俺がサンダーバニーと対峙している間に競技場内に到着したニコルさんの判断で、2人の患者は診療所へと運ばれていた。俺の戦いに介入して来た重力魔法は競技場を離れる直前に残して行ったものらしい。
「手術から目覚めた直後なんだからそれ以上は無理して喋らない。ゲオルグも、迎えが来ているから今日はもう帰りなさい。もうすぐ消灯の時間だし、こっちの子はもう大丈夫だから」
マリーにどんな言葉を返そうかと考えていたところにニコルさんが割って入って来る。マリーの開腹手術が終わり、目を覚ますまで待っていたらどっぷりと日が暮れてしまった。入院室内の時計を見て時刻を意識すると、なんとなく空腹も感じるようになって来た。そういえば、終わったら屋台で兎肉を食べようと思っていたのにすっかりと忘れていた。
「それから、向こうに居る獣人族の子とエルフ族の子も連れて帰りなさい。深夜は付き添い不可。他の入院患者に示しが付かないからダメ」
隣のベッドを指差しながらニコルさんが俺を追い立てる。他の2つのベッドはカーテンで遮られているが、もう1つは同じ男爵家の関係者だからカーテンは開け放たれている。
あっちのベッドで眠っているのは姉さんだ。マリーを助ける為に魔力を放出し続け、クロエさんの心配通りに無茶をした結果だ。ニコルさんが到着したのを確認し、マリーにバカと言い放って以来、姉さんは意識を失ったままだ。
そのベッドの横に用意された椅子に座って姉さんの寝顔を見続けているクロエさんとエステルさんに、帰りましょうと伝える。しかしクロエさんが首を横に振って抵抗した。
「ニコル先生。診療所内の別の部屋でアリーと一晩過ごす事は出来ませんか?」
エステルさんの質問に、ニコルさんも首を横に振る。
「残念だけど、ここには男女別の4人部屋しか入院室は無い。入院患者が多いと宿直の者達の負担も増えるから、不満が有るなら退院してくれていいよ」
ニコルさんの突き放す言葉に、エステルさんが黙り込む。
姉さんが目覚めない原因は魔力の使い過ぎ。
怪我はしていない。
呼吸はしている。
体温も正常。
個人の力で自然に魔力を回復させる以外には医者としても回復魔導師としてもやる事が無いから、退院しても構わないとニコルさんは考えてるはず。例えば血液検査や画像診断を行えば、何か異常が見つかるんだろうか。
「取り敢えずゲオルグは出なさい。ゲオルグが居ると私の忠告を無視して動こうとするダメな患者が居るから」
すみませんというマリーの言葉を背に受け、ニコルさんに連れられて入院室を出た。
ニコルさんと一緒に廊下を歩きながら、マリーは何時頃退院出来そうなのかと質問した。
「大人しくしていたら3、4日ってとこ。回復魔法で細胞分裂は促してあるけど、損傷した組織や失った血は直ぐには元通りにならないからね。まあ瞬時に復元する事も出来るけど」
ニコルさんはマギー様から頂いた回復魔法を大っぴらには使用しない。幼少期にその力を悪用されたから。でも、投薬や外科手術で治せない時に限って、こっそりと使ってくれる。男爵家にだけじゃなく、診療所を頼って来た人には誰でも。そのお陰で、最近は隠れた名医として有名になって来ている。
「あ、ん、た、が、誕生祭の屋台に無理矢理引き込んだからでしょうが。そのせいで毎日大変なんだから。さあ、あんたはさっさと家に帰って、アンナを呼んで来なさい。あの2人の説得はアンナに任せるから」
ニコルさんは大変だと口では言いつつ、毎年屋台には参加してくれてるし、お金が無い患者でも見捨てない。頼られたら完全に拒否する事が出来ない良い人なんだ。
「はいはい、帰れ帰れ」
はーい。
照れ臭さを隠そうとしてぶっきら棒になるニコルさんと別れ、待合室で待っていたルトガーさんと合流した。
武闘大会の決勝戦は日を跨いで行われることになった。1日延期したのは、サンダーバニーの雄が暴れ回った事で観客の多くが避難して戻って来なかった点と、その雄ウサギがどうやって競技場内に侵入して来たかを調査する必要があったからだ。準決勝で疲弊した選手や屋台を開く人達は延期を喜んだ事だろう。
しかし調査結果は、侵入経路不明。
もっとしっかり調査しろ。絶対西方伯の関係者が連れて来たんだよ。
「例えそうだとしても、西方伯は関係無いと言い張るでしょうね」
俺の苦言にマリーが答える。昨日よりは随分と顔色も良くなり、言葉遣いもしっかりして来た。朝食も残さず食べたらしい。
「あの雄ウサギは捕えたんですよね。そのまま屠殺されてしまうんでしょうか」
さあ。雌ウサギ5匹と一緒に西方伯に突き返してやろうかなって父さんは言ってたけど。
「受け取ったら面白いですけどね。そういえば、切り落とした雄ウサギの角はどうしたんですか?」
リュックを経由して村の倉庫に保管してる。冒険者ギルドが買い取りたいって言ってるみたいだけど、どうしようかね?
武闘大会決勝戦が行われている時刻、俺は久し振りにマリーとゆっくり会話した。4月に西方伯領へ行って以来、マリーは憑き物が取れたようにすっきりとした表情だった。
しかし。
マリーを助けてくれた姉さんは、まだ目覚めない。




