第91話 俺は切り札の大切さを知る
男爵家が作り出した霧の中に、アプリちゃんを抱えたドーラさんが飛び込んで来た。
よし、作戦開始だ。
濃霧発生と共に赤いつば付きニット帽を脱いだロジーちゃんが、観客席まで飛んで来たアプリちゃんと、グレーのニット帽及びマントを交換する。もちろんマントの中にはアミーラが潜んでいた。
ローズさんと一度しっかり抱きついた後、ロジーちゃんはドーラさんに抱えられて飛び去る。
ぐえっと言うアミーラの悲鳴は聞こえなかった事にしよう。
濃霧から飛び出して競技場を離れるドーラさん達を、遅れて貴賓席から飛び出して来た賊達が追いかける。
ロジーちゃんごめん。アミーラを利用してアプリちゃんの身代わりを任せられるのは君しかいなかったんだ。ドーラさんとアミーラが一緒だから大丈夫だと信じているよ。
アプリちゃんは赤いつば付きニット帽を深く被り直し、村の大人達に守られながら、俺達と一緒に身代わりになったロジーちゃんの無事を祈っていた。
貴賓席の騒動が有っても、急に競技場内に濃霧が発生しても、そんなことは自分達に関係無いとばかりにジークさんとサンダリオさんは戦いを止めなかった。
お互いが無手で殴り合う。審判ももはや2人を止めようとはせず、ちらちらと貴賓席の方を気にしている。
クルトさんも多少戸惑った言葉を発していたが、父さんは気にせず2人の試合を解説していた。
戦う2人とは違って観客は騒ぎ出し、席を立って逃げ出し始める。この騒動の関係者が逃げようとしているのか、それとも単純に無関係の人間が身の危険を感じて立ち去ろうとしているのか。恐らくは後者だと思うが。
「ゲオルグ様、我々はどうしますか?」
観客席の出入り口に走る人々や飛行魔法で飛んで行く人達を見て、マリーが俺に判断を委ねる。
貴賓席から飛び出して来た連中は全てドーラさんを追いかけて飛んで行った。貴賓席は既に状況が落ち着いたようで、ガラスの穴から顔を出したバスコさんがこちらに合図を送っている。
矢を放った犯人を追いかけて行った姉さん達はまだ帰って来ていない。
よし、決めた。
取り敢えず今は防御に専念して待機だ。皆に周辺を警戒するよう伝えて。半分以上の観客が居なくなって出入り口の揉み合いが解消されたら、試合が終わっていなくても姉さん達が戻って来ていなくても、俺達も退避しよう。
「了解しました」
マリーとロミルダが周囲に座る子供達に指示を伝えていく。
大人達も居るのに俺の判断で良いのかとも思うが、護衛に付いている村の大人達は俺の答えに口を挿まない。
まあ何か間違った判断をしていたらきっと止めてくれるだろう。
俺は周囲の警戒を怠らずに、暫く試合の流れを見守ることにした。
「貴賓席の中で何か起こったようですが、試合の方はまだまだ続いています。しかし、徐々にジークさんの動きが鈍くなってきました。左脇腹に刺さった矢は折れ、鏃は体内に残ったままです。矢傷を受けた影響が少しずつ出ているのでしょうか」
「う~ん。私には先程のヴァルターさんと同じような症状に思えますがね。なんにしても早急に試合を終わらせたいとジークは考えているでしょう。そう上手く行くかは別問題ですが」
「そうですね。先程までとは違いサンダリオさんは敢えて攻めずに守り続けているように思えます。ジークさんがいずれ動けなくなることを見越しての行動でしょうね」
「卑怯、とは言いません。試合を止めようとした審判の判断を拒否したのはジークですからね。こうなる事は解っていたはずです。ただし、飛来する矢を確認してジークの陰に隠れたサンダリオさんの行動は、褒められたものではないでしょうね」
「おっと、ここでジークさんが片膝を付きました。その姿を見たサンダリオさんはゆっくりとジークさんに近づいて行きます。長らく続いた試合もここで終わりを告げるのでしょうか」
ジークさんは片膝を付いたまま動かないが、今度は審判も止めに入らない。
思わぬ反撃が来ないよう警戒しながらゆっくりと歩み寄ったサンダリオさんは、蹲るジークさんの左脇腹目掛けて蹴りを放つ。
観客席にまで響く呻き声を残して、ジークさんは蹴りの衝撃に耐えられずに吹き飛ばされる。
これで審判が止めに入って試合終了かと、未だ客席に残って試合の行方を見守る者達皆がそう思ったその時。
「身を分かち、十重に二十重に、飛翔する。その白刃で、敵を斬り裂け」
地面に仰向けに倒れているジークさんの声が、途切れ途切れに微かに聞こえる。その右手には、いつのまにか随分前に手放した大剣が握られていた。
異変に気付いたサンダリオさんも、それを止める為にジークさんの下へと走り出す。
「飛剣」
しかしサンダリオさんの動きよりも早く、ジークさんの切り札が発動した。
「ふふふ、こっそり父に言霊を伝授した甲斐が有りました。相手が勝ちを確信して油断している完璧な状況です。これぞ、切り札ですね」
マリーが自慢げに言葉を漏らす。
ここで勝負有ったな。観客も随分と居なくなったから、俺達もここを出る事にしよう。
俺達が歩いて堂々と観客席の出入り口を通過しようとした時、クルトさんの声でジークさんの勝利が宣言された。




