ナナカの花嫁修行③
「……『亜王院本家 秘録 陽の一』?」
五冊の内一冊を手に取り、その表紙に書かれている文を読む。
一番上の本が『一』、一番下が『五』。
どちらも墨が擦れて読みづらい。
紙もボロボロで、摘むだけで今にも崩れ落ちそうに見えるけれど、なぜか不思議と一枚も破れていなかった。
「シズカお義母様。この書物は––––––一体?」
僕の手の本を覗き込みながら、ナナカさんは母様に問う。
「それは歴代亜王院の嫁が、永きに渡って紡いできた秘録。つまり亜王院の『女』の本でございます」
母様はそう言うと、残る四冊の内一冊を手に取り開く。
「生姜ひとつまみに胡椒少々。醤油は匙で味を見ながら調節し、鍋で煮立たせたら溶き卵を回し入れ、また一煮立ち」
ん?
「塩で味を整え、輪切りのネギを散らしたら味見を忘れるべからず」
んん?
「添え物としては、多少塩気の多い小鉢などが男には好ましい」
あ、あれ?
「冷える時期こそ、鍋これ至高。手間暇かければなお良し」
「母様?」
淡々と内容を読み上げる母様を慌てて静止する。
「何ですかタオジロウ」
「あ、あの大変申し上げにくいのですが––––––」
一度ナナカさんの顔を見る。
パチパチと可愛らしく目を閉じたり開いたりして、ナナカさんも僕を見ていた。
僕と同じように困惑している。
なんだか物々しい感じで呼び出されて、話を続けて来たけれど、この本ってもしかして––––––。
「りょ、料理書……なんですか?」
「ええ。料理指南書ですよ?」
「だ、だってさっき修行って––––––」
「花嫁修行です。嫁たる者、里の食を美味しく作れなくてどうしますか?」
そ、そりゃそうだけれども。いや、そうなのか?
「タオジロウ。ムラクモの里における食事とは––––––何ですか?」
「しょ、食事ですか?」
なんだろう。禅問答みたいな事を聞かれてしまった。
母様が改まって聞くと言うことは、腹拵え以外の答えがあると言うこと。
少し考えてみよう。
僕らムラクモの里の者は朝と夕を各自の家で、昼は食堂で全員で食べる習慣がある。
だから里の女の人達は、一日のほとんどを調理に費やしていると言っても過言ではない。
朝飯の支度は明け六つ頃から始めているし、それを食したらすぐにみんな食堂に集まって昼の支度を開始する。
昼の片付けが終わり夕方になるまで細々とした仕事をし、休む暇無く夕飯の支度。
里の男は畑仕事や剣の稽古で忙しいが、それより忙しいのが女の人達だ。
裁縫・掃除・洗濯・子守に商いの雑事まで含めると、ずっと何かの仕事をしていることになる。
もちろん男衆だってそれに負けないぐらい仕事をしている。
ムラクモの里は鬼の里。
里の住人の半分ぐらいは外––––––下界から父様に連れられて来た、元人間だった人ばかり。
純粋な鬼こそ居ないけれど、皆一角の傑物ばかりだ。
その無限とも思える体力の根幹にあるのはやっぱり––––––食事だ。
「––––––里の食事とは、体力の源です」
「半分、正解です」
半分なのか。
「タオジロウ、貴方や貴方の弟妹達は生まれながらにしての『鬼』です。この里で生まれ落ちた子達は皆、ただの人間から見たら比類なき潜在能力を持っております。だけど、ナナカやヤチカ––––––それにこの里の外から来た者は、これから『鬼』となろうとしている」
「は、はい」
例えば、鍛治衆の見習いであるサイゲンさんと言うおじさんは、二十年前に邪鬼に襲われた村の生き残りだ。
焼け落ちた村の瓦礫の中で虫の息で今にも死にそうなところを、父様が救い上げてこの里に連れて来た。
例えば、ウスケさんの奥さんであるカエデさんは今では母様の右腕として里の女衆の一角を取り仕切っているいるけれど、大分昔は戦災孤児として奴隷になりかけているところを救われて来たと聞いたことがある。
「その身を『鬼』と化すのには、長い時間と辛い鍛錬が必要になります。里の空気に身体を馴染ませ、身から溢れる鬼力を制するために鍛え上げなければなりません。今ナナカやヤチカがそうしているように」
「は、はい」
それは僕も知っていた知識だ。
それに加えて、『鬼』と交わると言う手段があるのは最近知った事。
「なればこそ、『食』なのです。心身ともに鍛え上げ、その弱き身体を作り替えるのであれば、内側からも補助するのは当然の事」
そう言って母様は、勢い良く本を畳に打ち付けた。
パンっと甲高い音が鳴り、僕とナナカさんは驚いて身を竦める。
「ムラクモの里の料理はただの料理ではございません! その名も『ムラクモ活身食』! 正しき知識と正しき技法! 良い食材の選定から、食材の持つ力・栄養を余す事なく身に取り込むための! 代々、亜王院の嫁に受け継がれた秘術!」
母様がこうも大声を張り上げるなんて、珍しいどころの話じゃない。
もしかしたら初めて見たかも知れない。
「調理過程に仕込む鬼術然り! 食材を切る技術然り! 無駄なく無理なく効率良く! この母とて未だ極めるに至らない奥の深い技法が、この五冊の書に記されております!」
ナナカさんが僕の着物の裾をギュッと掴む。
母様からの物凄い圧力に怖気ているのだろう。
僕だって隣にナナカさんが居なければ、涙目になって逃げ出したいぐらい怖い。
「良いですか!? 母はナナカ、貴女を我が子と同じ様に愛しております! 愛しているが故に! 一切の妥協も致しません! これはナナカ、ひいてはタオジロウ––––––更には亜王院一座の未来がかかった修行なのです! たかが料理と侮るではありません!!」
「は、はい……」
「か、かしこまりました。お義母様……」
ただただ圧倒されている。
襖がその勢いでビリビリと音を立てて揺れていた。
屋敷の外で、子狼達の遠吠えが聞こえてくる。
「返事が小さい!」
『ハイッ!』
僕とナナカさん、二人して声を合わせて返事を返す。
「……宜しい。明日から本格的な修行に入ります。一度台所に立てば、義母・義娘ではありません。母は心を鬼に––––––いえ、元々鬼でした。修羅にして指導に当たります」
ぎろり、とひと睨み。
それだけで心胆寒からしめられた僕とナナカさんは、慌てて姿勢を正す。
「何か、他に質問は?」
一転してにっこりと、母様は微笑んだ。
その顔はいつもの優しい母様。
僕の知ってる、僕の母様だ。
質問……そういえば一個だけ、気になるところがある。
「はい」
「タオジロウ、どうぞ」
手を挙げた僕の名前を呼んで、母様はそっと目を閉じた。
「あ、あの。この五冊なんですが、『陽』って書かれてるみたいなんですが」
一冊を持ち上げ、母様に表紙を見せる。
次いで中をパラパラとめくって見ると、所々筆跡の違う箇所が見受けられて、歴代の亜王院のお嫁さんが書き足していったであろうことがなんとなく理解できた。
でも、それで五冊は少ない気がする。
「『陰』の書って……あるんです––––––」
「タオジロウ」
「––––––か?」
質問に食い気味に、母様は僕の言葉を遮った。
笑顔なのに、なんかめちゃくちゃ怖い。
「『亜王院本家秘録』に『陰』の書など––––––ございません。もし貴方が今後その様に書かれている物を万が一見つけたとしても、決して触れずに私かトモエを呼びなさい」
「え、あの」
「良いですね?」
「あ、あると言うことで––––––」
「––––––良いですね!?」
「は、はい」
つまり、あるってこと……なんですね?




