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PROMISED LAND

作者: 羽場速雄



0.






「エレーナの奴、どこ行っちゃったんだろう。ちょっと目を離した隙にいなくなっちゃうんだもんなあ」

 祭り囃子と行き交う人々の歓声で賑やかな、社前広場の夜店通り。人混みをかき分けながら、少年は一緒に連れてきた一つ年下の少女を捜していた。そばで待っているよう言ったのにもかかわらず、自分が射的に夢中になっている間、小さな少女はいつの間にかにいなくなっていたのである。

 慌てて探し始めたがなかなか見つからない。

 衣装は普通の浴衣姿なのだが、少女は他の10才の子供とは決定的に違うので絶対目立つ。そのため、すぐに見つかると思ったのだが、得てしてそういうときは上手くいかないものだ。

「どこにいるんだよ、エレーナ。うん?」

 ほとほと参りながら、それでもきょろきょろと周囲を見回す。

 すると、夜店の列が丁度切れている人気のない場所で、見慣れた人影がしゃがみ込んで泣いているのが視界に飛び込んできた。ごく普通の浴衣姿ではあるが、夜店の灯りにキラキラと照り返している金色の髪の女の子――間違いなくエレーナだ。

「おーい、エレーナ」

 声を上げながら少女のもとへと駆け寄る少年。うつむいていて泣いていた少女はその声に反応し、顔を上げる。

「!? ケイシン!」

 泣き顔から一転、明かりが灯ったように表情をほころばせる少女。

 我慢できなくなったのか、彼女は駆け寄ってきた少年に抱きついた。

「ダメじゃないか、待ってろっていったのに、勝手にふらふらしちゃ」

「ごめ……ごめんな……さい……」

 泣きながら、少女は心を満たしていた不安をあたかも吐き出すように涙声で謝っていた。

 しかし、こう泣かれていては自分が泣かせたような気分になってきてばつが悪い。

 少年はどうしたものかと考えながら何気なく周囲を見回す。

 すると、立ち並ぶ夜店の中の一軒にふと視線が止まった。そこは、玩具のアクセサリーなどの小物を売っている夜店だった。

「そうだ! な、エレーナ、一緒においでよ」

 なにかひらめ閃いた少年は、まだ俯きがちに泣いていた少女の手を取り、例の夜店へと小走りに駆け出す。いきなり腕をつかまれ誘われた少女は、何がなんだかわからず泣き止み、目を丸くさせながら少年の導くままにともに走った。

 そしてアクセサリーの夜店前。

「どれが欲しい? 買って上げるよ」

 敷物の上に並べられた色とりどりのアクセサリーを示し、少年は少女に微笑みかけた。

 しかし、少女は遠慮がちに少年を見上げ、困ったような色の表情を浮かべている。普段からこういうことには控えめな彼女のことだ、遠慮をしているのだろう。それを察した少年は、彼女から心配を取り去ってやるために口を開く。

「いいんだ。だって、今日はエレーナの誕生日だろう? 誕生日のプレゼントだよ」

 そういってやると、ようやく少女は表情を輝かせ頷いた。

 そして、並べられたアクセサリーに目を移し、意外なほど真剣な、それでいて嬉しそうな表情でどれにしようか選び始める。

 数分後、あれこれ悩んだ上で、少女は小さな髪飾り――玩具のわりには意外と精巧にできている銀色のやつだ――を手に取った。

「それでいいの?」

 問うと、少女はにこやかに頷いた。どうやらかなり気に入ったようで、夜店の明かりに照らし、キラキラと輝いているのを楽しそうに見つめている。なかなかの上物 なので、かなり値段のことが気になったが、自分のなけなしの小遣いでもなんとかなる値段あったのでホッとする少年。ただ、ほとんど持ち金は吹っ飛んでしまったが。

 その後、二人は店を後にし、自宅への帰路へとついた。

 エレーナはどうやら至極満足しているようで、例のアクセサリーを度々見ては、満面の笑みを浮かべていた。

「なあエレーナ。それ、つけてやるよ」

「本当!?」

 髪飾りなのだから髪につけて当然、と思ったから言っただけなのだが、少女は心底嬉しかったようで、これ以上もないほど表情を輝かせていた。

 彼女から髪飾りを受け取った少年は、丁寧に少女の髪に髪飾りをつけてやる。それはとてもよく少女に似合っており、まるで身体の一部のようだった。

「うん、よく似合ってるよ」

「ありがとうケイシン。わたし、嬉しい。これ、ずっとずっと大切にするね」

 少女は素敵な笑顔を浮かべ、少年に最大限の感謝を表した。それに少年は気恥ずかしさを感じたが、悪い気はしない。

 しかし、少年が彼女のその笑顔を次に見るためには、10年という歳月を待たねばならなかった。




1.




「ねえケイシン。今日、なんの日だか覚えてる?」

 昼下がりにおける、歓楽街のブティック。陽気に鼻歌を歌いながら、半ばオーダーメイド化している特級長身用のビッグサイズコーナーで洋服をチョイスしていたエレーナ=アラベスフは、外国人にしては流暢な日本語で、なんの前触れもなくそう言った。

 しかし、休憩用の椅子に腰掛け、半ばぼーっとしていた紗月桂真(さつきけいしん)には寝耳に水だった。金髪碧眼の、ずば抜けた長身美女の呼びかけにもかかわらず、ぼけた顔をして頭の上に『?』マークを浮かべていた。

「なんか言ったか?」

「あ、聞いてなかったわね。今日がなんの日だか覚えてる? って言ったの」

 やや唇を尖らせ、不満の色を表情に出すエレーナ。それに対し、

「今日ねぇ。なんかあったか? 広島の平和記念日はもう終わっちまったし、かといって終戦記念日はもちっと先だよなあ。するってえと、ああ、館山の花火大会か」

 と、にべもない間延びした声で桂真は答えた。無理矢理ショッピングにつき合わされ、退屈な思いをさせられたのだから無理もないかもしれない。すると――

「違うわ。わたしに関係してることよ、もう。ちゃんと思い出して、『あの場所』へ夜十時に来てよね」

 ムッとした声色で、今度は頬を膨らませる彼女。

 さすがに少しまずいと感じた桂真は、昼食後の気怠い気分に少々活を入れて考えこんだ。

「あ、わかった」

「えっ、本当?」

 ポンと拳で手のひらを叩いて声を上げた桂真に、エレーナは顔をほころばせながら詰め寄る。その瞳は、あたかも星が浮かびそうなほど期待に輝いていた。

 ところが、そんな彼女の期待を裏切る言葉が。

「今日エレーナ、試合があるんだろ? でもさ、ちょっと今夜はダチと飲みがあるんだよな」

 絶句するエレーナ。対し、彼女の様子がおかしいことに首をかしげる桂真。すると、次の瞬間――

「ケイシンの馬鹿っ!」

 取り乱した声とともに、乾いた音が店内に響く。そして、音をたてた張本人であるエレーナは、そのまま一度も振り返らずに店内から走り去ってしまった。

 一方、桂真はというと、エレーナの平手打ちをくらい、椅子から吹っ飛ばされて半ば悶絶していた。

 痴話喧嘩を見ていた店員は、情けなくも張り倒された桂真の姿に必死に笑いを堪えていたが、彼にしてみたら笑いごとではない。手加減はしていただろうが、なんといっても『世紀の大砲』の平手打ちを受けたのである。口元を押さえている店員をにらみつけながら、桂真は腫れ上がった頬を押さえ、半泣きで呻いていた。




2.




 夜の帳が降りた頃、桂真が通う大学近くの飲み屋。彼はそこで友人と飲んでいた。

「くそっ。俺がなにしたってんだ、ったく」

 生中のジョッキをテーブルに叩きつけながら、ぶつぶつとつぶやく桂真。無性に腹が立ち、飲み屋特有の盛り上がっている周囲の声までなんだかむかっ腹が立ってくるほどだ。

「たしかに、そんだけ腫れちまうほどの平手をくらえば、愚痴りたくなるのもわからんでもないな」

 荒れ気味の桂真とテーブルを挟んで向かい合っている彼の中学来の友人・西原賢司にしはらけんじは、苦笑しながら親友の頬を見た。そこは昼間より幾らか腫れが退いたとはいえ、近くで見るとまだ赤みがさし、しっかり腫れてるのがわかる。

「だがな、それ相応の理由があったから相手も怒ったんだ。相手の女は、わけもなくひっぱたいてくるような暴力女なのか? そうじゃないだろう」

 すでに社会人として働き、桂真よりも世の中のことを知っている者ならではの発言。ムスッとしながらも、桂真はただ頷くしかなかった。

「しかし、お前に『女』がいたとはな。腫れ上がった顔も面白いが、そっちの方がかなりうけたぞ」

「余計なお世話だ。それに、べつに彼女じゃねえよ。古い友達だ」

「嘘つけ。ただの友達が思いっきしひっぱたくか? 友達を超えた感情があるからこそひっぱたいたんだ。わかんないのか?」

「わかんねえよ、そんなの」

 スルメの足をかじりながら、桂真はにべもなく答える。そっけない彼に、西原は肩を竦めて呆れていた。

 そんな友人などおかまいなしといった感じで、桂真は店内の壁に設えられたテレビを何気なく見やった。

 場末の飲み屋のくせにケーブルテレビに参入しており、あるCSチャンネルでやっている女子プロバレーボールリーグの試合中継が流れている。

 客の中には巨人戦に変えろと叫き散らす輩もいたが、どうやら店主が女バレ好きらしく、聞く耳を持たずにチャンネルをそのままにしていた。

 試合は、目下首位を行く東邦紡績と2位の陽立の対戦だった。東邦紡は今年の春までは最下位争いに低迷している弱小チームであったが、ロシアからの助っ人がチームを変えた。

(まさか、こんなにすごいバレーボールの選手になってたなんてな。思いもよらねえよ、ホント)

 桂真が見つめる画面の中で、サーブを放とうとしている190センチという最長身のゼッケン『8』の選手――エレーナ=アラベスフこそ、その助っ人だったのだ。

 まだ幼い頃の話である。

 彼女の祖父が日本人だったこともあり、数年間エレーナは日本いにいたのだ。

 その時、2人は出会った。完璧な金髪碧眼に可愛さを兼ね備えているという必然的に目立つ姿であり、それがもとで日本の子供たちにいじめられていたエレーナを、桂真が守ったことによって。

 以来、2人は当然のごとく親しくなり、特にエレーナが桂真に寄せる想いは誰にも推し量れないほどになっていった。

 しかし、エレーナは結局ロシアへと帰国し、それから手紙のやり取りはあったものの、互いの引っ越しなどで結果的に音信不通になっていたのだ。たまたま見に行ったバレーの試合をきっかけに、偶然エレーナと再会したのは実に10年ぶりのことであった。

 20歳になっていたエレーナは、昔の面影を残しつつも遥かに美人になり、しかも帰国してから始めたというバレーは、ロシア代表としてオリンピックへと出場するまでの実力を持っていた。

 にもかかわらず、彼女は昔と変わらずに、いやそれ以上に親しく接してくれる。それに戸惑いを覚え、どう接していいかわからずに素っ気なくなってしまうのも無理もなかった。

 そんなことを考えながら、ポケっと試合を見ていると、スコーンと割り箸でスッ叩かれた。

「おい、なに自分の世界に浸ってんだ。俺を忘れんなよな」

 眉間にしわを寄せた西原がこちらを睨んでいる。確かにすっかり忘れていた。桂真はスマンと頭を下げた。

「でも、エレーナちゃん可愛いよな。彼女、今日21歳の誕生日なんだぜ。俺が彼氏だったら、盛大に祝ってやるんだけどなあ」

 桂真の視線の先を追い、気色の悪いウットリとした表情で、西原は画面上のエレーナを見てそういった。

 誕生日?

『今日、なんの日か覚えてる?』

 蘇るエレーナの言葉。次の瞬間、桂真は椅子を後ろへ引きずり倒し、店の入り口に向けて駆け出していた。

「お、おい」

「勘定貸しにしといてくれ! じゃあな!」

 唖然としている西原にそう伝え、転がりそうになりながら店を後にした。




3.




(馬鹿か、俺は! エレーナの誕生日を忘れるなんてよ!)

 動かない窓の外の景色を見ながら、桂真は胸の内で自分に対して毒づいた。

 いくら昔日本にいて、日本語を流暢に話せるといってもエレーナはあくまでロシア人だ。

 祖父が亡くなったことにより、急速に日本での血縁を失った彼女は、再来日したばかりもあって親しい友人がいなかったのである。そんな彼女の唯一の知人として、彼女の記念すべき日を覚えておいてやらないでどうするのか。桂真は自分を責めた。

 とにかく、今は一刻も早く待ち合わせ場所――ブティックでエレーナが『あの場所』と言った神社そばの公園――へと向かうべきだった。

 ところが、こんなときだからかもしれないが、桂真を未曾有の不幸が襲ったのである。思い出の場所までにはまずJRを使わねばならなかったが、その路線は『恐怖の中央線』だったのだ。悪名高き中央線は人身事故が多発する、サラリーマン――特に営業マン泣かせの路線であり、桂真の場合も例のごとく突然発生した人身事故によって大幅に時間をロスしてしまったのである。

 しかも、なんとか目的の駅に着いたものの、なんとそこから『あの場所』までのバスまでもが、こんな時間にもかかわらず渋滞 に巻き込まれてしまい、どうにもならなくなってしまったのだっだ。

(やべぇ、もう10時15五分じゃねえか! 15分も予定の時間を過ぎちまった! 試合の終わったエレーナが待ってるってのに、畜生 !)

 もともと三白眼気味の目つきに加え、眉間にだんだんとしわが寄り、かなり威圧的になっている。周囲の客が引き始めているのなどおかまいなしで、桂真はギリッと奥歯を噛みしめた。そして、意を決する。

「すんません、ここで降ろしてもらえませんか?」

 車内の中ほどから降車口のある前部運転席側へと向かい、運転者に問いかける。が、

「ダメです。停車場以外では降ろせない規則ですから」

 と、にべもない。どうやら融通の効かない男らしい。

「頼むよ、俺、急いでるんだ」

「ダメと言ったらダメです」

 徹底してこれである。このままでは埒があかない。

 と、桂真の視線が前部降車扉のすぐそばで止まる。そこには赤線とハッチで囲まれた『非常用開閉コック』が取り付けられていた。

「金は払ったぜ。文句は言わせねえぞ」

 集金器へと金を入れ、運転手に向かってそうつぶやくと、桂真は意味が分からずポカァンとしている運転手の隙を突き、ハッチを開けてコックを捻った。

「あっ! こっ、こら!」

 彼の挙動に気づいた運転手が慌てて止めるがもう遅い。前部降車扉を開けた桂真は運転手の制止を振り切って脱出。そのまま『あの場所』目指して歩道を走りだした。

「待っててくれ、エレーナ! 絶対、絶対行ってやるから!」

 半ばやけ気味に絶叫しながら走る桂真。もはやペースもへったくれもなく、後先考えずに全力で走る、とにかく走る。

 信号待ちなど、どのみち渋滞でどこもここも車が動いていないから無視。踏切も電車が来ているのに強行して死にそうになりながらもくぐり抜け、挙げ句の果てにあまりの無謀さに不審に思った警官の職務質問をも振り切り走ること30分。一生分走ったような疲労感にボロボロになりながらも、桂真は社 の階段の下までたどりついた。

 呼吸困難になりそうなのを気合で押さえ、社の階段を必死で登る。百段単位の階段は、彼にとってかなりの致命的であったが、それでもなんとか耐え抜き、すべて登りきることに成功する。

 すると。

「よ、夜店?」

 時間的にすでに終了しているはずの、祭り用の夜店が一店だけ、社前の広場にぽつんと灯りをともしている。桂真は、息も絶え絶えになりながらも、その夜店をまじまじと見た。

 それは、小さな玩具のアクセサリー屋。

 しかも、どこかで見たような感じを受ける。既視感? いや、そうではない。たしかに彼は見た記憶があった。そして、そこであるモノを買った思いでも。

(これは……。そうか、そうだったんだよな。変わらねえよ、まったく)

 息苦しさにむせ、足どりもフラフラになりながら、桂真はそう胸の内で独りごち、夜店へと足を向けた。




4.




 夜の公園なものの街灯設備がしっかりしており、明るさを保っている。だからといって、この時間にこんな場所にぽつんと独りで、それも女性がいることなどまずない――はずだった。

 ところが、いたのである。

 芝生の広場を囲むように配置されているベンチ。その一つに、濃紺をベースにしてしつらえられた浴衣を身にまとった、大柄な若い女性が座っている。

 公園内に入った桂真は、ベンチの女性を見たとき、すぐにそれが誰だかわかった。

「エレーナ」

 彼女の元へと歩み寄りながら、ポツリと名前を呼ぶ。すると、寂しそうに俯いていたその女性は顔を上げ、こちらを見た。

 彼女――エレーナは元気のない沈んだ面持ちで、瞳を涙ぐませていた。そして、桂真の姿を確認した彼女は、信じられないものを見たように目を丸くする。

「ケイ、シン?」

「遅くなってごめんな。これでも急いだんだけど、こんな時に限って運が悪くて――」

 汗まみれに加え、しかも2、3回転倒して埃まみれになった自分の姿を示しながら謝っていたが、桂真は最後まで言うことができなかった。我慢できなくなったのか、バッと立ち上がったエレーナが飛び込むように抱きついてきたのだから。

「来てくれた。ケイシンが、ケイシンが来てくれた」

 泣きじゃくりながらそうつぶやくエレーナ。身長190センチの彼女に比べ、桂真は171センチのため、丁度自分の胸の中に桂真を抱き込む男女逆転状態になってしまっていたが、エレーナはまったく気にした様子もなく、あまりの嬉しさに顔をくしゃくしゃにしている。

「あたりまえだろ。今日はエレーナの誕生日なんだから」

 ふくよかな胸の中に抱き込まれ、気恥ずかしさと息苦しさに動揺しながらもそう言ってやると、エレーナはしゃくりあげながら頷いた。

「とりあえず落ち着けよ。そら、涙も拭いて。美人が台無しだぜ」

 ずっとこのままでいるわけにもいかないので、取り合えず身体を離させ、彼女をベンチへと腰掛けさせる。そして、ポケットからハンカチを取り出し、まだ肩を震わせている彼女の目元を拭ってやった。鼻をまだスンスンと鳴らしていたが、彼女はどうやら少しずつ平静に戻りつつある。桂真はようやく一安心できそうだった、

「昼間はごめんな。エレーナの誕生日を忘れちまってて」

 自分もエレーナの隣に座り、頃合いを見計らって謝る桂真。それに対し、彼女は首を横に振った。

「ううん、もういいの。それに、わたしの方こそ謝らなくちゃ。ひっぱたくなんてしちゃって、ごめんね」

 桂真の方を向き、彼の頬に手をやりながらエレーナはせつなげ謝った。しかし、自分が平手打ちをかました彼の頬から腫れが引ききっていないことに、彼女は再び泣きそうな顔をした。

「まだ腫れてる。本当にごめんなさい。もう絶対にしないから、嫌いにならないでね、わたしのこと」

「気にすんな。大切な人の誕生日を忘れてた、当然の報いさ」

 少々気恥ずかしさを覚えながらもそう言ってやる。と、頬をうっすらと朱色に染めたエレーナは、そっと桂真の腕に自分の腕を絡め、静かに彼の肩に身を寄せた。またしても、寄り掛かる方がでかいという男女逆転現象が起こっていたが、エレーナは満足そうに目を細めていた。

「でも、ケイシンが来てくれて本当に嬉しかった。この場所も覚えていてくれたし」

「ここを忘れるわけないだろ。なんてったって」

 途中で言葉を止める桂真。そして、なにを思ったか、ポケットの中を探り出す。

「そうだ、これを買ってきたんだ。本当はちゃんとプレゼントを買ってきたかったんだけど、時間がなくてさ」

 言いながら、ポケットから小さななにかを取り出す。それは、玩具の髪飾りだった。

「あ、それ――」

 意外な物を目にし、少々驚いたようだったようだが、エレーナは慌ててバッグ代わりの巾着をあさり、同じくなにかを取り出す。それは、桂真の物と寸分違わぬ――所々メッキが剥げ、古ぼけてはいたが――髪飾りだった。

「エレーナ、まだ持っててくれたんだ」

「当たり前でしょう。これは、わたしの大切な大切な宝物なんだから。いつも肌身離さず持ち歩いていたの」

 手のひらに乗せた古ぼけた髪飾りをなんとも言えない眼差しで見つめるエレーナ。そして彼女は、桂真の手のひらの中にあるまったく同一の髪飾りに視線を移した。

「ケイシンも覚えてくれていたのね、この髪飾りのこと」

「あんだけ喜んでいたエレーナの姿を見てりゃ、そりゃ覚えてるよ。でな、ここへ来るとき、あのときの夜店があったから買ってきたんだ。色々迷ったけど、思い出深い同じ物がいいと思ってな」

 懐かしい昔を思い出しながらそう言うと、エレーナが意外なことを申し出てきた。

「ね、つけてくれる?」

「え? あ、ああ」

 そう言われたものの、しょせん玩具である。まぶしいほどに綺麗になったエレーナに似合うとは思えない。自分で買ってきてそう思うのもなんだが、べつにつけてもらおうと思って買ってきたわけではなかった。しかし、彼女が望んでいるなら断る言われもない。桂真は髪飾りを彼女の金色の髪につけた。

 案の定、いくら精巧にできているからといって玩具は玩具である。大人の女性にはさすがに浮いて見える。それでもエレーナは、まるで子供のように喜び、微笑みを浮かべていた。そして――

「素敵な誕生日をありがとう。大好きよ、ケイシン」

 心のこもった言葉とともに、エレーナはさり気なく桂真の頬にキスをする。

 再会、そして新たなる道を歩みだした二人を、真夏の夜空が静かに見守っていた。






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