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彼がこの世に生まれた経緯について私が知っていることは何もない。だけど、今も彼は私の傍にいます。  作者: 大野 大樹
一章 「お化け屋敷」の住人は「お化け」ではない。
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3.優磨の日常に関係ないこと

そんな一夜が明け、学校では斎藤が休み時間になく、放課後になく、面白おかしく昨夜の様子を物語した。

そんなことどこ吹く風と、相変わらず無関心を貫いた優磨は、帰宅部なので、今日も授業が終われば一人でさっさと帰路につく。

夕方から雨が降り始めていた。

「あら、優磨帰ったの? 気付かなかったわ」

 キッチンの方から明るい声がした。

 優磨の母親の孝子だ。


 優磨は母親と二人で住んでいた。父親は、優磨が物心つく前に亡くなっていたらしく優磨に父親の記憶はない。

八幡神社のある場所よりも、ずっと海側の一軒家だ。八幡神社までは、自転車でも十五分はかかったが、緑がいっぱいで登って遊べる石がある(注灯篭の事らしいが普通は登ってはいけない)この神社は、優磨の最もお気に入りの場所だった。

もっとも、少し大きくなったらさすがに石(灯篭だ)に登って遊ばなくなったが、近所の友達と広い境内で鬼ごっこやだるまさんが転んだをして遊んだ。そんな友達の中に、時々大島の姿はあったが、この時は男女ということもあり、それほど親しくなかった。

 大島と今の様に親しくなったのは、尊が加わってからだったろう。

 人懐こい尊は、後から入ってたのに、皆の輪にするりと溶け込んでいった。


 尊と優磨が出会ったのは、雨の日だった。

 雨が降れば、遊び友達はみんなここにこない。しかし、優磨は傘を持って長靴を履いてここに来る。雨の音を聞くのが好きだった。晴れより曇りが好きだった。雨が降っているよりも、曇りの方が好きなのだけど、誰もいないのなら、雨だ。

 一人が好きなわけではない。

 一人も好きなのだ。

 一人でいるしかない状態で一人でいる。

 そんな日も、必要なんだ。

 それなのに

 尊はそこにいた。

 にこにこと、傘もささずに、雨の中ぼんやり立っていた。

 優磨を見つけると、ぱっと明るく笑い

「待ってた! 」

 といった。

 シトリントパーズの綺麗な大きな瞳。常にはない、だけど人を惹きつけてやまない宝石みたいな目で見あげられたら、目が離せなくなった。

 普通だったら、「人がいたのか」って帰ったのに、だ。

「待ってた? 私を? 」

 優磨が尋ねると、ニコニコした顔で頷く。

 ‥誰?

 と思ったが、何故か不快な感じはしなかった。

 寧ろ、「ああ、ここにいたんだ」って思った。

 やっと、会えたって思った。


 背が低くて、童顔な彼を優磨は初めて見たときは、自分より年下の女の子だと思った。名前を尊と言ったっきり、通っている学校も、家も分からないといった尊に、面倒見のいい優磨は

「家においで」

 といって、連れて帰ったんだっけ。

 尊が男の子だと分かったのは、その後の話。尊の苗字「大和」は優磨の祖母の実家の苗字をとった。

 つまり、尊と優磨は本当は従兄妹でも何でもないのだ。

 今日みたいな雨の日は、決まってそんなことを思い出した。

 尊がいるときは、笑い話だった「思い出話」だった。

 もっとも、懐かしそうに語ったのは優磨だけで、尊は困ったような顔をして「覚えてないなあ」って言うだけなんだ。「恥ずかしいよ」って。


孝子がキッチンから出てきて、ずぶ濡れになっている優磨を見る。

「外、雨が降ってたのね。髪の毛が濡れているわ。洗面所に行って拭いてきなさいな。ぼうっとしちゃって、ほら。優磨がこの頃元気がないから、母さん心配だわぁ」

 通学カバンを優磨の手から受け取る。

「‥元気がないのは確かだけど、私はいつもこんなもんだと思うけど」

 優磨がぼそっといって、洗面所に向かう。

 明るいのは、尊だった。尊が居れば、そこは電気がついたみたいに明るく感じられた。

「そうだったかしらね? 」

 優磨の背中に、孝子が明るく言う。

 パタパタと、スリッパをはいた孝子の軽い足音が遠ざかる。

 洗面所で、鏡の前に並べられた歯ブラシスタンドに、青い歯ブラシを見ると、涙が出そうになる。

 母親の黄色い歯ブラシ、自分の緑の歯ブラシ、尊の青い歯ブラシ。

 そっぽを向いて立っている尊の歯ブラシを、自分たちと同じ正面に向き変えた。

 歯ブラシだってまるで変わらないのに、尊だけいない。

「さあさ、早く席について! 夕飯の準備できてるわよ! 」

 キッチンからまた孝子の声がする。制服をハンガーにかけて鴨居に引っ掛けて、優磨は席に着いた。

「いただきます」

「いただきます」

 二人きりの食卓にはまだ慣れない。

 学校ではあまり人と話さない尊も、家ではよく話した。

 まるで、孝子を本当の母親のように慕っていた。

「美味しいね! このニンジン切ったの、ボク! 」

 食卓は話し声が絶えず、もうそれがすっかり当たり前のようになっていた。

 火が消えたような、という表現は本当に正しいな。優磨は実感した。

 こんな寂しさ、今まで想像もしなかった。否、したくなかった。‥いつかは、こうなるかもしれないって気付いてても、考えたくなかったんだ。


「‥もう、秋刀魚の季節なんだね」

 だから、優磨は食事の時間、なるべく話すようにしている。孝子の為と、自分の為に。

 いつも何でもないことを話す。

 今まで聞き役だった優磨は、会話っていうのは難しいものだな、と今更ながら思う。

「そうねえ、でもこれは冷凍だったわ」

「まだ季節じゃなかったか‥」

「もう少し後かしらね」

 孝子も、口には出さないが、無理に明るく振舞っているのは分かる。孝子にしたって、尊は七年以上も毎日一緒に過ごして来た、家族も同然なのだから。

「学校からね‥」

 優磨がぽつりと言った。

「どんどん尊の存在が消えていく気がする。急に転校したってことにしたから、最初はみんな驚いて戸惑ってたけど、今ではもう、尊の名前も出ないんだ‥。気になっているのは、大島と私だけ」

 諦めた顔をしようとしたら、悲しそうな笑顔になった。

「いっても、付き合いの長さが違うわよね」

 孝子が頷いた。

 優磨も頷いて、今は空席になっている尊が座っていた椅子を見つめる。

 孝子もその視線の先を見る。

「まるで元からいなかった、みたいになっていくのかな‥」

 力なく、優磨が呟いた。

 周りの雑多にかき消されて、やがて影みたいに、別の大きな影に消されていくのかもしれない。影は、そこに依然としてあるのに、大きな影に消されて見えなくなる。

 人気だ噂だ。世の儚いものを思うたびに感じる寂寥感。

 世間にとっての尊も、そのようなものだったのかもしれない。

 じゃあ、尊にとって、私たちって何だったのだろう。

 考えても仕方のないことばかりが浮かんで、消えない。

「すぐに帰ってくるわよ。でも、そうしたら学校のことどうしようかしらね」

 立ち上がって、孝子は優磨の席の後ろに立つ。

 優磨の肩に、やわらかく両手を置く。

 冷え切っていた肩に、孝子の暖かさがしみこむ。

「‥別の学校に編入すればいいよ。その時は私も一緒に行くし」

 ‥簡単にいうなあ。

 なんて、孝子が苦笑する。

 でも、本当になればいいのに。ふらっと帰ってくればいいのに、そう思う。


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