第5話 窮鼠ネズミを噛む
風か何かで揺れただけであってくれという俺の願いも空しく、果たして現れたのはやはり魔物だった。
鼠型の魔物で、体長は俺より少し小さい程度。せいぜい1mと少しだろうか。鼠としては破格の大きさである。
容姿は普通の鼠と大差はない。爪が鋭いのと牙の自己主張が強い程度だ。
現れた魔物は鼻をすんすんと鳴らしながらこちらを見ている。赤く淀んだその瞳は俺を捉えて離さない。
故郷が壊滅した際にも魔物は見たがあの時とは状況が違う。あそこは管理区域で周りには他にも人が居たし開拓者だって居た。ここは危険区域で俺と魔物のタイマンだ。弱肉強食の残酷な外界では弱い方が悪い。弱者は殺されるのみだ。果たして俺は……。
震える体を抱きしめる腕が筒に触れた。魔血入りの特別な代物だ。アラクネの言葉がよぎる。魔血は常に摂取していろ。何を置いても生き残るにはこの物騒な液体を体内に取り込まなければいけない。
右手に掴んでいた筒を左腕に突き立てようとした瞬間、魔物が勢いよく飛び込んで来た。
震える体に鞭を打ちながら無様に横へ倒れ込んだ。
鼠は倒れ込んだ俺のすぐ横を通り過ぎ、後ろにあった木に噛み付いた。直径1mはあるであろう巨木はそれはもうあっさりと噛みちぎられた。巨木が倒れる音を聞きながら、俺は自分が噛みちぎられる様を想像してしまった。無残にも真っ二つだ。嫌だ。死にたくない。
ほとんど無意識的に筒を左腕に突き立てていた。針のように尖った筒の先端が皮膚を突き破る痛みに歯を噛み締めた。
変化は劇的であった。
筒を突き立てた左腕から何か熱いものが全身を駆け巡るのを感じた。そして理解する。これが鼠の感覚だと。今まで二足歩行をしていた自分をおかしく思い笑いがこぼれた。なんであんな非効率的な動き方をしていたのか、と。最適解はこれだ。
両腕を地につけ四足歩行。これが正解なのだ。
さらに変化はこれだけに収まらない。
先ほどまでは魔物の鼻息しか聞こえなかった耳には、鼻息に加え魔物が巨木を咀嚼する音や踏みしめる地面が擦れる音に木々の揺れる音、どこか遠いところで鳴いている生き物の声まで聞こえる。耳をすませば微かに聞こえるこれは魔物の心音であろう。
そして最後の変化は鼻だ。
濃い緑の匂いに汗と糞尿が混じった鼻が曲がるような魔物の匂い。そして微かに感じる明らかにこの場にそぐわない何かの匂いはアラクネの匂いの残滓であろうか?
口内の木々を噛み砕き尽くしたのであろう、魔物がこちらを向く。
今の一撃で俺を殺せなかったことを後悔するといい。脆弱な人間を超えて、俺は今、お前と同じステージに立っているぞ。さあここからが本番だ。待たせたな。
魔物は先ほどと同じようにこちらに突進してくる。さっきは人間であったからあんな無様な真似を晒したが、今は違う。突進を見極め、左にステップして躱す。そのまま突っ込んだらそこがお前の終着点だ。
先ほどのように魔物が何かに突撃した際の隙を突こうと後ろ足に力を入れた瞬間、魔物の前足が軋む音がした。これは先ほどとは違う。突進は一回ではない。二回だ!
地面に突撃すると思われた魔物は前足で踏ん張り、予想通りこちらに向き直り、再度飛び込んで来た。
魔物に飛びかかろうと力を込めた後ろ足のせいで一瞬、身動きが取れなかった。なんとか重心をずらすことで横に転がることができたが、完璧に躱すことはできなかったようだ。
右肩から背中の中程までをその鋭い爪で切り裂かれた。それほど深くもないが浅いとも言えない傷だ。ぱっくりと割れた傷口から血が滴り落ちる。
流れ落ちる血液から魔力も共に流れていくのが感覚でわかる。ただでさえ短い魔物でいられる時間がこれでさらに削られたようだ。
これは手痛いミスだ。魔物の感覚に溺れた結果だと言える。肝に銘じよう。二度と油断はしない。
そこからしばらくは膠着状態であった。
魔物が飛び込んで来ては躱し、俺が飛び込んでは躱され。その繰り返しである。
お互い魔物同士で体長もほぼ変わらず。身体的なスペックはほぼ互角である。
同格の闘いならばどちらが勝つか。そんなものは明白だ。
頭が良い方が勝つのだ。