第九十四話 静かな門前
「なんでぇ、未だ起きてやがったのかぇ……」
細く灯りの漏れたみそのの仕舞屋を目にした永岡は、急いでいた歩みを止めて独り言ちる。
その声は咎めるでもなく、寧ろホッとしたような安堵の滲む声音だ。
永岡は奉行である大岡越前守忠相に談判せんと、独り奉行所へ向かっている最中である。
夜四つ(凡そ午後10時)を報せる時の鐘も遠に鳴り、もうすぐ暁九つ(凡そ午前0時)の鐘が鳴る頃合い時刻だ。
通りに面した表店は勿論、お菊等の住まう裏店もすっかり寝静まっている。
ーーコンコン
永岡が控えめに戸を叩く。
流石に周りの住民を気にしたのだろう。
「 みその、起きてんのかぇ?」
囁くように声をかけた永岡は、そのまま戸に耳を寄せて中の様子を伺った。
灯りが漏れているだけで、みそのは既に寝ているのかも知れない。もしそうならば、このまま遣り過すつもりなのだ。
ガタガタと、中から何かの物音が聞こえる。
どうやらみそのは未だ起きていたようだ。
それを聞いて永岡の頬が緩む。
閂を外す音に次いで戸が開き、みそのが顔を出した。
「ど、どうかしましたか、旦那?」
「そいつぁこっちのセリフでぇ。大丈夫かお前。どっか具合が悪りぃのかぇ?」
みそのの言葉に被せるように返す永岡。
永岡が持つ提灯に照らされたみそのの顔は青白く、額には薄っすらと汗を浮かべている。
何より口を手拭いで押さえているところからしても、明らかに何処か具合が悪いように見受けられる。
「ああ……。はい、もう大丈夫です。伸哉さんの事を考えながら思いに耽っていたら、突然気分が悪くなってしまって……」
「もしかしてお前、戻したのかぇ?」
みそのが持つ手拭いが濡れている事に気づいた永岡は、心配そうに眉を寄せながら問いかける。
「え、ええ……。なんですかね、少し疲れも溜まっていたのかも知れませんね……。でももう本当に大丈夫です」
みそのはそう言って笑みを作ると、小さく拳を握ってみせる。
顔色こそ青白いが、確かに本人が言うように表情は然程辛そうには見えない。それに、永岡にはみそのの笑顔が無理に作ったようには見えなかった。
「そ、そうかぇ? でも大丈夫か大丈夫じゃねぇかは自分で決めんじゃねぇぜ。翔太も大分落ち着いたんだろうし、今夜はさっさと寝ちまいねぇ。とにかくお前は戻すくれぇ疲れてるって事なのさ。今は少しでも体を休ませるのが得策さぁね。分かったな?」
みそのの額に手を当てた永岡は、特に熱がない事に安心しつつもそう続け、最後にみそのをひと睨みする。
「はい……」
実は徹夜で翔太の看病をするつもりのみそのだったが、思いのほか自然に出た肯定の返事に自分でも少し驚いている。大丈夫だと思いつつも、やはり弱っていたのだと思い直す。永岡のひと睨みが効いたのかも知れない。
「わかりゃいい」
永岡はいつになく素直なみそのに拍子抜けするも、そう言って破顔する。
「みその、明日の朝はちょいと忙しくなっちまうんで、このまま昼くれぇまで翔太の面倒を頼めねぇかぇ?」
「勿論ですよ。もし翔太さんに何かあれば道庵先生にでも繋ぎを付けますし、こちらは心配しないでくださいな。それに伸哉さんの為にも、旦那には心置きなくお勤めに励んで欲しいですし」
「ありがとうよ。とにかく昼くれぇまでに奉行所から誰か寄越すんで、それまでは宜しく頼まぁ」
「はい」
頷いたみそのの額にもう一度触れる永岡。そしてそのまま瞼を閉じるようにその手をずらし、
「とにかくオイラが帰ったら寝ちまいねぇ」
そう言って最後には人差し指でみそのの鼻を小突く。
「旦那もお疲れのようですし、寝られる時に少しでも休んでくださいね?」
みそのは口を尖らせつつも心配そうな目を潤ませる。
みそのを気遣う永岡自身、酷く疲れた顔をしているからだ。
確かに一日中歩き回ったのもあるが、今日は信頼していた手下の一人が死んだのだ。心身共に疲れ果てていて当然だ。
「おう。ありがとよ」
努めて声を弾ませた永岡は、
「よし。じゃあオイラはもう行くぜ。閂忘れるんじゃねぇぜ」
自分に言い聞かせるようにそう続け、別れを惜しむ気持ちを隠すように勢い良く踵を返すのだった。
*
「……これは何だ?」
永岡は懐から取り出した物を門番へ翳している。
永岡達は今、三千五百石の旗本、伊沢忠信の屋敷の門前に居る。
永岡の他には智蔵と松次、北忠の顔も見える。
これは昨夜奉行所に戻った永岡が大岡と面談し、無事願いが叶った事を意味する。
配下の深夜の訪いにも関わらず、大岡は快く永岡を部屋へ招き入れ、その話を聞いたのだった。
そして今朝、大岡は登城するや否や目付の井出鎚伍一郎と面会し、永岡の願い通り、目付としての調べを町奉行所に委託する旨の書状を、その場で一筆認めさせたのだった。大岡と井出鎚は普段から親交があったのもあるが、この様な急な願いを聞き入れたのは、まさに大岡の人徳が成せる技だろう。
「目付であられる井出鎚伍一郎様の書状で御座る。これを御当家の主にお渡しくだされば、我らが来訪の意もわかり申す」
「目付……。こ、ここで待たれよ」
門番は慌てた口調で言い放つと、一旦門扉を閉ざして中へ消えた。
バサバサと大袈裟な衣摺れの音とともに、足早に門番の足音が遠ざかって行く。やはり目付との響きに動揺しているようだ。
皆、中の様子を伺うように耳を澄ますべく、複雑な顔で口を閉ざしている。一気に静寂が訪れたようだ。
「目付と聞いただけであの慌てようでやすよ。やってられやせんぜ。ったく……」
松次が顰め面で愚痴をこぼす。
永岡が書状を出すまでは随分と横柄に対応していただけに、滑稽とも言える門番の豹変ぶりを見てつくづく嫌気が差したのだろう。
「気にするねぇ、松次。奴等にとっちゃオイラ達町方なんて、不浄役人って目でしか見てねぇのさ。所詮取るに足らない存在って事さね。癪は癪だが、奴等もそう思ってねぇとやってられねぇってだけの話よ。でもまあ、これで不浄役人云々も言ってられねぇって事さぁね」
「へい……。それにしても呆気ないもんでやすね……」
永岡の言葉に肩を竦めながら頷く松次だが、不満を隠しきれずに口を尖らせる。
智蔵はそんな松次を咎めるでもなく苦笑いを浮かべながら見ている。
「しかし旦那、ここの殿様は息子にゃ滅法甘えって話でやす。目付絡みだとは言え素直に応じやすかねぇ?」
「村正所持の件も書かれてんだろうし、応じるは応じると思うんだがな……。まあ確かに甘々な親なりゃ素直に応じねえのも考えられんな? しかしそん時ぁそん時でぇ。無理矢理にでも乗り込んで大暴れしてやらぁ」
智蔵に返した永岡は太刀の柄を握り不敵に笑う。
元々そうした心算があったのかも知れない。
永岡は直ぐに笑みを引っ込めると、ただ静かに閉ざされた門扉を眺めている。
その横顔に凄味を見たのか、松次の喉がゴクリと鳴った。




