第九十三話 涙
「野郎は指を斬り落とされてやす。伸哉を殺った証拠にゃなりやせんが、指がなけりゃあ、みそのさんと翔太を襲った何よりの証拠でやすよ。取り敢えず明日にでもそれを確認しに屋敷へ行きやしょう。まずは野郎を取っ捕まえるのが先決でさぁ」
「お前が言うのも分からなかねぇが、相手は大身旗本だぜ? 余程の事がねぇ限り、門前払いにされるのがオチさぁね。きっと面会どころか屋敷にも入れてもらえねぇだろうよ?」
智蔵の言葉に言い出した松次が顔を顰める。
そして、また振り出しに戻ったとばかりに場が静まり返った。
永岡を除く他の面々は、亡骸となった伸哉と一緒に『豆藤』へと場を移していた。
伸哉は今、彼がいつも座っている場所のすぐ後ろに寝かされている。
その胸の上には智蔵愛用の十手が添えられ、このいつもは触る事すら許されない十手を胸に、伸哉の顔は心なし自慢げにも見える。
伸哉の顔はお藤により薄化粧が施され、白布で覆う事なく綺麗に整った顔が晒されている。
いつもの負けん気の強いやんちゃな目が閉じられているせいで、いつに無く穏やかな表情に見える。それは武家や公家を思わせる凛とした威厳ささえ感じさせる表情だ。
化粧と一緒に月代も綺麗に当て直している事もあり、元々精悍で整った顔立ちの伸哉なだけに、物言わぬ今は特にそう見えるのかも知れない。
「やっぱりあっしら町方ではお縄にすんのは難しいんでやすかね……」
静まり返った部屋に松次の蚊の鳴くような呟きが宙に浮く。
皆それには応えず俯くだけだ。
そして示し合わせたかのように、皆の視線が自然と伸哉へと向けられる。
伸哉は今にもむくりと起き出し、「揃いも揃ってしけた面してんじゃねえやぃ!」と、皆に発破をかけて来そうだ。
しかし当然ながら伸哉は物言わぬ。
数瞬後、皆はほぼ同時に俯き、そして溜息が漏れる。
「親分、野郎の刀なんでやすが……」
留吉がぼそりと口を開いた時、
「翔太は大丈夫そうだったぜ」
永岡の弾んだ声が重なった。
実は永岡、ここ豆藤には少し前に到着していたのだが、この沈んだ雰囲気にタイミングを逸していたのだ。
「おっ、智蔵の十手かぇ。いいじゃねぇか、伸哉。しかしいい顔してやがるじゃねぇかぇ。なぁ?」
伸哉を覗き込むように見た永岡は皆に笑顔を向ける。
「へぇ、旦那。今日の伸哉は格別に男前でさぁ」
智蔵が永岡の意図を見抜いたように戯けた口調で応える。
これに皆の口元が少し緩む。
「ところで留吉。野郎の刀がどうしたってぇんでぇ?」
永岡は先程の留吉の言葉が耳に入っていたようで、おもむろに留吉に話を向けた。その眼光は力強く鋭い。
「へぇ。報告が遅くなっちまって面目ありやせん……。伸哉がこんな事になっちまってあっしも……」
「わかってらぁ。んな事ぁ気にするねぇ」
つい眼光に力みが出た自分に反省しつつ優しく応える永岡。その瞳は既に柔らかいものになっている。
「…………へえ。あっしら、運良く小井平左衛門を見つける事が出来やして、奴からから話を聞けたんでやす」
「ああ、あの研ぎ師の貧乏御家人だな? で、どんな話を聞けたんでぇ?」
永岡の催促に智蔵、北忠、松次と、留吉と一緒に話を聞いた広太以外の面々が思わず身を乗り出した。
これを受けて留吉は思わず広太に目をやった。
ここへ来て口下手な自分よりも広太から話した方が良いと思ったのだろう。
しかし留吉の意に反して広太はゆっくりと頷いてみせる。小井平左衛門を見つけ出したのは留吉だ。ここは留吉に任せる事にしたようだ。
留吉は意を決して頷き返すと、一つ咳払いをした後に語り出した。
「あの御家人の話でやすと、やはり伊沢ってぇ野郎は辻斬りを繰り返してやすね。最初に研ぎに持ち込んで来た時ぁ、試し斬りで犬猫を斬ったって話だったんでやすが、一月も開けずにまた試し斬りだとかで持って来て、そのうち一月も開けずに持ち込むようになっていたんだとか。それに最初から勘づいていたみてぇなんでやすが、犬猫だけであんな血曇りは出ねぇそうで。しかし単純に金払いがいいってぇのと、いざとなったらこの事をネタに大金を強請り取る事も出来るんじゃねぇかと思って、何も言わずに研ぎを引き受けていたようなんでやす」
「しかし血曇りの出方だけで人を斬った証にはならねぇだろぃ。それにその肝心の血曇りは、手前で研いじまって跡形も無く消えちまってんだろうしな? そんなどうにでも言い逃れできるネタで大金は強請れねぇだろ?」
眉間に皺を寄せた永岡が疑問投げかける。
留吉は「へぇ。そうなんでやすが話は他にもあるんでやす。すいやせん」と、口下手な自分に嫌気がさしたように眉を下げた。
「そりゃそうだな。口を挟んじまってすまねぇ」
永岡も前のめりに口を挟んだ事を詫びる。
「とんでもねぇ、旦那。とにかく旦那、血曇り云々はほんの前座みてぇなもんなんでさぁ。強請りのネタの真打ちは野郎の刀なんでやすよ、刀」
「刀?」
永岡の眉間に皺が寄る。
「へぇ。野郎の刀は千子村正、あの妖刀の村正らしいんでぇ。もしもの時の為に銘も写し取っているって言ってやした。直接見てやせんが、あの口振りだと嘘は言ってねぇと思いやす」
「ほう。確かに村正だったら強請りのネタにはなるな? ただ逆に斬り殺されちまうオチしか見えねぇがな?」
永岡が吐き捨てるように言った時、
「永岡さん!」
今まで黙っていた北忠が声を上げた。その目は赤く、いつに無く真剣だ。
そんな北忠の前には鍋がくつくつと煮だっている。
いつもなら伸哉や松次にやんややんやと指示を出し、一人で盛り上がっているところなのだが、今夜は別人のように大人しい。
その仲の良かった伸哉が死んだのだ。大人しいのも無理もない。
北忠は今の今まで思い詰めた表情で俯いていたのだった。
「ああ、わかってらぁ。目付へ話を通した上でオイラ達の調べとして進められるよう、お奉行に掛け合ってみらぁ。忠吾、野郎は必ずオイラ達でお縄にするぜ」
「はい!」
永岡の言葉に力強く応える北忠。
皆も口には出さねど北忠と同じ目をして頷いている。
「そうと決まればオイラはこの足でお奉行の屋敷へ行ってくらぁ。皆んなは伸哉と一緒に居てやってくんな。忠吾、お前もな。いつも通り賑やかに鍋を突いて伸哉を盛大に送ってやれ」
「………………」
「そんなしけた面してっと伸哉に叱られちまうぜ?」
「永岡さん…………」
永岡が智蔵に目配せして立ち上がる。
それを受けて智蔵も立ち上がり、永岡の傍らへと寄って行く。
「そう言うこった。後は頼んだぜ……」
「へい。それと旦那、念の為、明日あの貧乏御家人を奉行所へ引っ張って行きやしょうかぇ?」
永岡は言わんとした事を智蔵から聞いて声もなく笑う。
「宜しく頼むぜ」
「合点でぇ」
小声で言葉を交わす永岡と智蔵。
その声を搔き消すように北忠の声が上がる。
「松次っ! ぼーっとしてんじゃないよ、アクだよアク! そんなんじゃシメの雑炊が台無しになっちゃうじゃないのさぁ! 何度言ったらわかるんだいお前は!」
鼻にかかった声の北忠は言葉とは裏腹に、その目からは止めどもなく涙が溢れていた。
*
「あの伸哉さんが…………」
みそのは手拭いを絞る手を止めてポツリと呟く。
永岡が出て行ったあと、俄かに翔太が熱を帯びて来たので濡れ手拭いで汗を拭いつつ、額を冷やしていたのだ。ただ今は熱も引き、翔太は安らかな表情で眠っている。
「………………」
伸哉の人懐っこい笑顔がみそのの脳裏に浮かぶ。
ついこの間見たばかりなのに、もうあの笑顔を見られない……。
ーーー死。
現代で暮らしていても身近な人の死に直面する事はある。
しかし殺されたとあっては話は別だ。
確かに痴情の縺れからの殺し、無差別殺人、猟奇的な殺人……と、現代でも殺人は数多く行われている。
ただそれはあくまでテレビやネットニュースから得る情報で、そこまで身近に感じる事はなかった。
江戸では風邪をこじらせて死んでしまったり、野犬に噛まれて死んでしまったり、貧困故に飢えで死んでしまったりと、今まで現代よりも死が身近なことは実際に見聞きして理解していた。
ただ、やはりそれも理解していたつもりで、実際ごく身近で起こった訳ではなかった事もあり、どこか遠くに感じていたのかも知れない。
しかし現代に比べ江戸は格段に人の死が身近だ。
陽気に暮らしている裏店の人々も必ずと言っていい程親兄弟を亡くしている。
皆それを呼吸するかのように当たり前に受け入れ、そして時に神に縋り、小さなコミニュティで支え合いながら逞しく懸命に生きている。
みそのは改めてその事を深く理解するのだった。
「私にその覚悟があるのかしら……」
みそののか細い声が蝋燭の火を揺らす。
そんな薄暗い部屋には翔太の寝息だけが静かに聞こえ、蝋燭の仄かに揺れる灯りが、みそのの横顔を照らしている。
そして、テラテラと儚く光るものが、みそのの頰を伝って行くのだった。




