第八十八話 一筋の涙
「しかし凄えもん見ちまったな。やっぱりあの巾着切りは死んじまったんかね?」
「ありゃ助からねぇだろ。侍から掏り取ったのが運の尽きでぇ。まあ、侍も斬る事ぁねぇと思うがよ」
「全くでぇ。まさに問答無用だったぜ。幾ら巾着切りだったとは言え、ありゃねぇやな」
キョロキョロと周りを見回しながら歩いていた翔太がすれ違いざまの会話に歩みを止める。
職人らしき二人組だ。
「ちょ、ちょ、ちょいと待ちねぇ!」
すかさず二人を呼び止める翔太。
留女に旅籠へ連れ込まれそうになっていた翔太だったが、やはり伸哉が気になり留女の手を振り解いて伸哉を探していたのだ。
「すまねぇが今の話、詳しく聞かせてくれねぇかぇ?」
「ん? ああ。この先をちょいと行ったとこで巾着切りが侍に斬られちまったのさぁ」
「そ、その侍ってぇのは二人組かぇ?」
翔太は勢い込んで聞き返す。
動揺を隠し切れない翔太の顔は強張っている。
「いや、一人だったぜ。もしかしてお前さん、下っぴきか何かかぇ?」
職人の一人だったとの言葉に安堵しつつ曖昧に頷く翔太。
「って事ぁ、悪さしてる二人組の侍がいるって事かぇ?」
「それを言ったらあれだぜ。斬った侍は一人だったけど、掏り取られた方も入れれば二人組って事にならねぇかぇ?」
「まさかあの二人が通じていたって事かぇ?」
「そのまさかよぅ。自分が掏られたんでもねぇのに、いきなり刀を抜くってぇのは幾らなんでもおかしいだろぃ?」
「確かにそうさね。確かめもしねぇで斬り殺すのぁ流石にやり過ぎでぇ。って事ぁ……」
二人の職人が翔太へ目を向けた時には既に翔太は走り出していた。
「なんでぇあれ……」
職人は脱兎の如く駆けていく翔太をポカンと眺めている。
『兄ぃじゃねぇよな……? 兄ぃはそんなドジ踏まねぇよな……?』
念じながらもひた走る翔太。
全速力で走る翔太の顔はすっかり青ざめるている。
「…………」
職人の話通り、半町《凡そ55m》も行かぬ内に橋が見えて来た。
その袂に横たわる黒い塊を目にして息を呑む翔太。
「う、嘘だろぃ……」
翔太が黒い塊の前で膝をつく。
「あ、あ、兄ぃっ! 伸哉兄ぃ! しっかりしてくだせぇ!」
うつ伏せで倒れている伸哉の背中はザックリと割れていて、大量の血で着物が黒く変色していた。
翔太の声が届いたのか、伸哉が微かに唸り声を上げる。
「し……し、しくじっちまったぜ…………翔太……」
「喋らねぇでくだせぇ兄ぃ! と、とにかく今医者へ連れていきやす!」
翔太は弱々しく口を開いた伸哉に声をかけるも、伸哉の状態が酷過ぎて動かしていいのか分からずに運ぼうにも運べない。
「ひ、人を呼んで来やすんで待っててくだせぇ。兄ぃ、絶対諦めちゃいけやせんよ!」
「…………」
伸哉は翔太の呼びかけに口を開きかけたが声にはならず、ただ一筋の涙が鼻筋を伝うのだった。
*
「二人とも思いのほか良い顔してたんで安心したぜ」
「そうですね。やっぱり太平さんとお話出来た事が良かったんですね?
とにかく少しでも長く保てばいいんですが……」
「そうだな……」
みそのと永岡が語らいながら歩いている。
小石川養生所を出た二人は今、神田明神を抜け湯島横丁まで歩みを進めていた。
すっかり陽も落ちているせいか、往来を行く人々の足は帰路を急ぐ為忙しない。
みそのたちの足も自然に早くなっているようだ。
「そう言えば旦那。今朝ウチに志乃さまがお越しになられましたよ?」
「そ、そうなのかぇ…………。で、その……なんだ、何か言われたのかぇ?」
永岡が気まずそうに眉をひそめる。
永岡も母親がみそのへ言った言葉を覚えている。
その後も何度となく取りなしてはいたが、志乃の「跡取りを産めぬのは論外です」との言葉に閉口していたのだった。
「いえ、丁度出掛けるところでしたし……。志乃さまはお千代ちゃんの顔を見に来たと仰ってましたよ」
「そうかぇ。お千代の顔ねぇ……」
「はい。昨日千太さんがお屋敷へ行きましたでしょ?」
「ああ、そうだったな?」
「志乃さまは旦那から二人の事を聞いてて気になってたみたいで、実際に千太さんとお話してみたら聞いてた以上にしっかりしてたから、お千代ちゃんにも会いたくなったと仰ってました」
「ほう。千太はあの母上殿の御眼鏡に叶ったって事かぇ……」
「ふふ。そうみたいね。千太さんは何処に出しても恥ずかしくない賢い子ですからね?」
「まあな……って、ありゃ翔太じゃねぇか?」
永岡が前から走って来る人影に目を凝らす。
「そうですね。翔太さんですね……」
みそのが不安気な声で同意する。
近づいて来た事で翔太と確信したみそのだが、それと同時に尋常ではない翔太の表情にも気づいたのだ。
永岡も不安が過ぎったのか、顔を強張らせながら頷いた。
「だ、旦那……はあ、はぁ、て、大変……はあ、はぁ……」
肩で息をする翔太は息が上がって言葉にならない。
「落ち着け翔太。話は息を整えてからでいい。とにかく大きく息を吸ってみろぃ」
永岡の言葉で大きく深呼吸をする翔太。
何度か深呼吸した翔太が語り出す。
「伸哉兄ぃが侍に斬られちまいやした。増上寺に運び込んで今は寺のもんに診てもらってやす。この事を知らせに走ってた途中で親分と会いやして、とにかくあっしは永岡の旦那へ知らせるよう言われて、番屋で旦那からの繋ぎを聞いて小石川へと向かってたんでやす。親分は伸哉兄ぃんところへ道庵先生を連れて行くと……」
話しながらも目に涙を滲ませる翔太。
最後は胸が詰まり言葉が出て来なくなってしまう。
「そ、そうかぇ……。侍ってぇのはもしかして例の二人だったのかぇ?」
永岡の言葉に首を振る翔太。
「下手に喋らせねぇ方がいいと思いやして、伸哉兄ぃからは何も聞いてやせん。ただ、伸哉兄ぃはあの二人を追って行きやしたんで、あっしはあの二人の仕業だと思ってやす。畜生っ、一人で行かしちまったあっしのせいでやす。なんて言われようが付いてかねぇと駄目だったんでやすよ……」
翔太は俯き、握った拳を震えさせる。
それを見たみそのは永岡の袖を掴み、
「とにかく行ってあげて」
と、呻き声のように囁いた。
永岡はそれに小さく頷くとガシリと翔太の肩を掴み、
「そう自分を責めんじゃねぇ。とにかく顔を上げろぃ」
「へ、へい……」
顔を上げた翔太は永岡へ赤い目を向ける。
その目は今にもこぼれ落ちそうな程の涙で溢れているが、並々ならぬ闘志が漲っている。
「オイラもこれから行って伸哉の様子を見てくらぁ。お前はこれから豆藤へ寄って、この事を忠吾や広太達に伝わるようお藤に言伝してからみそのを送ってやってくんねぇかぇ」
「へ、へい……。その後はあっしも伸哉兄ぃの所へ行っても?」
「何が出来るって訳じゃねぇが、その辺はお前の好きにするがいい。とにかく豆藤への繋ぎとみそのを頼んだぜ」
「へい、合点でぇ」
「そう言うこった、みその。お前は翔太と豆藤へ寄ってから家まで送ってもらうんだぜ。分かってると思うが、帰ったら外へは絶対出るんじゃねぇぞ」
「はい……」
永岡がみそのへ向き直って言い聞かせる。
みそのも永岡の真剣な眼差しに『ここからはもう近いので送ってもらわなくても大丈夫ですよ』との言葉を呑み込み素直に頷いた。
「みその、気ぃつけて帰るんだぜ。
んじゃ翔太、宜しく頼むぜ」
言うや駆け出す永岡。
やはり永岡も気が気でないのだろう。
みそのはそんな永岡の背中を両手を組みながら心配そうに見送るのだった。




