第八十七話「冷たい輪」
「いいからいいから。兄さん、今夜はたっぷり可愛がってあげるからウチへ泊まってお行きなぁ」
「そ、そうかい?」
翔太が留女に捕まり口説き落とされている。
小井平左衛門の足取りを追って聞き込みを続けていた翔太は未だ品川宿に居た。
流石に一人での聞き込みでは時間もかかるのであろう。
勿論小井平左衛門について何も掴めてはいない。
『いや、これは流石に不味いだろ?』
翔太が別れ際の伸哉の後ろ姿を思い起こして考え直す。
「ほら、すぐにあちきで温めてあげるさね」
「うっ……」
留女に耳元で囁かれながらチロリと股間を撫でられた翔太は、間抜けな呻き声とともに前屈みとなる。
「うふふ。もしかして兄さん初めてかぇ? それならそれで優ぁしく可愛がってあげるよう」
「…………」
前屈みの翔太が半ば強引に旅籠へと引き摺られて行く。
遠目からだと腰の曲がった老人が手を引かれているようにも見える。
やはり翔太の若さではこうした色欲には抗えないのだろうか。
*
「すっかり暗くなっちまったぜ……」
空を見上げた伸哉が独り言ちる。
その額には玉のような汗が見える。
その汗玉は何度も眉を乗り越えて目に入り込み、これまで伸哉を苦しめていた。
伸哉の着流しは汗で一色濃くなっており、ぱっと見でも尋常ではない事が伺い知れる状態だ。
確かにこれまで早足で歩いてはいたが、それだけでここまでの汗はかかないだろう。
それはやはり絶妙な距離感で尾行する大村の存在が故だろう。
と言うのも、途中から信秀が駕籠を拾って別行動に出た事で、足手まといがいなくなった大村は一人の身軽さを発揮し、執拗に伸哉を尾行していたからだ。
『そろそろ一気に走り抜けるかぇ?』
もうじき芝の増上寺が見えて来る頃だろうか。
伸哉は尾行を撒く為に無駄に同所をぐるぐると回ったのだったが、大村の執拗な尾行に舌を巻き、土地勘のある地元を目指していたのだった。
増上寺から日本橋まで一里半程(現在地より凡そ5キロ)である。
それなりに足に自信がある伸哉だ、全力で走れば四半刻(凡そ30分)もかからない距離であれば、力尽きる事なく逃げ切れると思ったのかも知れない。
「このまま一気に豆藤まで走って、熱々の湯豆腐でも摘みながらきゅっと一杯ってぇのも悪くねぇな?」
伸哉が独り言ちて苦笑する。
『へへ、親分、こんな事口に出して言っても平静じゃいられねぇやな。さて、吉と出るか凶と出るか……』
伸哉が引き攣った笑みを貼り付けて走り出した。
そして明からさまに後ろを振り返り尾行の有無を確かめる。
今まではチラとしか見てなかっただけに、伸哉はもうなりふり構わず逃げる一事に決したようだ。
「ったく、しつけぇ野郎だぜ……」
そんな伸哉の目は追走する一つの黒い影を捉えていた。大村だ。
大村は厳つい体格にも関わらず中々に身軽だ。
足に自信がある伸哉に悠々とついて来ている。
チラチラと後ろを振り返りつつ走る伸哉は、その迫り来る黒い影に焦る。
大村が腐っても剣術家だった事を思い出し、外見だけで判断し見くびっていた自分を悔いているのかも知れない。
悔いながらも伸哉はぐんと足の回転を早める。全力疾走と言っていい。
とにかく距離を広げたい伸哉は、一里半を走りきる事は諦めたのかも知れない。
走る伸哉を疎らになって来た往来の人々が、立ち止まって物珍しそうに見送っている。
この時代、町を走るのは御法度だ。
それを守って走る者がいないと言えば嘘になるが、この夕暮れ刻に血相を変えた男が大汗をかいて走る姿は流石に目を引いているようだ。
「はあ、はあ、な、なんなんでぇ。はあ、はあ、はあ、ち、畜生っ。はあ、はあ……」
伸哉は後ろを振り返り乱れた呼吸で毒づいた。
流石に全力疾走ともなれば息も上がる。
黒い影は先程よりは離れたにせよ、それでも執拗に伸哉を追い続けている。
「ッ!!」
伸哉の半町(凡そ55m)ほど先の橋の袂に駕籠が横付けされており、その中から信秀が出て来たのだ。
信秀は太刀を閂差しに差しながらゆっくりとこちらへ歩いて来る。
「閂差し」とは刀身を地面と平行に差す差し方で、居合術のような抜き打ちの抜刀に適している。要は刀が抜き易い差し方だ。
太平の世の江戸時代では、時代劇で良く見る斜め上に柄頭が来る「落とし差し」と言う差し方が主流で、「閂差し」をしようものなら抜刀の準備有りと見られ、それだけで喧嘩沙汰になる事もあったようだ。
『ええぇい、ままよっ!』
伸哉は逡巡するも、裏店へ抜ける路地に逸れるでもなくそのまま真っ直ぐ突き進む。
伸哉は抜刀の意思を剥き出しにした信秀の閂差しも見えている。
ただ、往来には未だちらほらとだが人の姿もある。
幾らなんでも信秀が人目のある場所で抜刀し、更には斬りつけて来るはずはないと踏んだようだ。
裏店へ抜けて袋小路となれば大村に追い詰められる。袋小路でなくても信秀に先回りされれば挟み討ちとなってしまう。
そうしたリスクを考えれば、瞬時に判断した割には妥当な判断だったのかも知れない。
信秀が道を塞ぐようにゆるりと歩いて来る。
その手は横一文字となった刀身の柄頭へと載せられている。
その距離凡そ十間(凡そ18m)、あと数歩で信秀の間合いの内だ。
伸哉が走りながら身体を左右に振って牽制し、一気に信秀の右脇を通り抜けようとしたその時、
「その者は物盗りで御座る!」
後方から怒鳴り声が聞こえた。大村だ。
声より先に抜かれていた信秀の太刀がギラリと閃く。
次の瞬間、赤い鮮血が弧を描き、伸哉が走る勢いそのままに転がった。
血振りをくれた信秀が転がる伸哉の元へとゆっくり歩いて行く。
伸哉はうつ伏せで唸り声を上げている。
その背中はグニャリと曲がりながらザックリと割れていて、大量の血で着物を濡らしている。
「ほう、これかのう?」
さも伸哉の袂から取り出したかのようにして、信秀は自分の巾着を掲げて見せる。
「忝い。助かり申した」
「うむ。以後気をつけられよ?」
信秀は駆けつけた大村に巾着を渡す。
三文芝居もいいところだ。
ただ、誰もそれを咎める者はいない。
変に口を出しては自分も斬られ兼ねないとでも思っているのだろう。
実際に今の状況は、武士に掏摸を働いた町民がまんまと無礼討ちとなったとしか言えない。
まさに斬捨御免、江戸時代の武士に与えられた殺人の特権である。
「誰かこの不届き者の始末をな……」
冷笑とともに呟いた信秀が踵を返して歩き出す。
大村は伸哉の傷口に目をやりながら顔を顰めるも、輪となって遠巻きに見ている町民達に気づき己もその場を後にした。
立ち去る二人の武士の背中を十数人の町民達がただ呆然と眺めている。
伸哉の呻き声はその間にも小さくなって行く。
信秀と大村が遠去かると、町民達は次第に伸哉の元へぞろぞろと集まって来た。
町民達は輪の中心で横たわる伸哉の呼吸が浅くなるのを見届けると、首をふりふり一人二人と立ち去って行く。
謂わばこれは切捨御免である。
冷たいようだが致し方ないのかも知れない。
皆関わり合いになりたくないのか、それを機に蜘蛛の子を散らすように輪が崩れ、何もなかったかのようにそれぞれが帰途につく。
散った輪の中心には物のように伸哉が取り残されている。
極々浅い呼吸となった伸哉は寒気も和らぎ、次第に意識も遠退いて行くのであった。