第八話 揶揄いたい気分
「おう、みそのじゃねぇかぇ。こんなところで奇遇だなぁ?」
「あら永岡の旦那。どうしたんです、こんなところで?」
みそのがお百合と別れ、せっかくだからついでに両国へ寄って、『丸甚』のお加奈の顔を見に行こうと、弁天一家のある本所の松井町を出て、両国橋を渡り切った広小路で永岡に声をかけられたのだ。
永岡の隣には短躯の智蔵が控えているので、みそのは永岡を今まで通りに「永岡の旦那」と、他人行儀に呼んでいる。
それにしてもここ広小路は人で賑わっているのだが、その中で目敏くみそのを見つけ出すあたり、永岡の目は尋常では無い。相手がみそのであるからかも知れないが。
「どうしたもこうしたもねぇやな。
オイラは町廻りが仕事でぇ。お前こそ何してやがったんでぇ?」
「ふふ、そうでしたね。永岡の旦那はお散歩がお仕事でしたね? 私はさっき…」
「散歩じゃねぇやい、散歩じゃよう!」
「あら失礼? ふふふ」
飄々とあしらいながら笑うみそのに、永岡の隣で聞いていた智蔵は、楽しそうな苦笑を浮かべている。
「で、お前は何していやがんでぇ?」
揶揄いに成功したとばかりにか、みそのがいつまでも嬉しそうな目をしているので、永岡は鼻の頭を指で掻きながら、みそのに話しの続きを促す。
「ふふ、そうでしたね。でも永岡の旦那が話しの腰を折ったんですからね?」
みそのが口を尖らせて言うと、永岡は面倒くさそうに手を振って先を促す。
「なんか私が悪いみたいなんですけど?
まあいいわ…。私はね、さっきまで弁天一家のお百合さんと会ってて、これからお加奈さんのところへ顔を出そうと思ってたところだったんですよ?」
満足ですか、とばかりに永岡を見上げるみその。
「そうかぇ、あのじゃじゃ馬んとこへ行ってたのかぇ。そりゃ大変だったな?」
「そんなじゃじゃ馬なんかじゃ無いですよ?
ーーーーーーー多分…」
みそのの反論に、永岡がみそのの目を凝視する事で答えると、みそのはそれに負けて弱々しく呟いた。
「なんか問題でも起きたのかぇ?」
一気に小さくなったみそのが可笑しくなって、永岡は頰を緩めながら問いかける。
「いえ、問題と言う程の事でも無いんですよ……って、そうだっ!」
「なんでぇ、急にでけえ声を出しやがって?」
「いえ、旦那。近いうち日中に時間取れません?
そうねぇ、半刻も要らないんですけどね?」
「日中かぁ、用件はどう言うこった?」
「永岡の旦那は剣術が強いんでしょう?」
「まあ強ぇって言われても上には上が居るからなぁ?
で、剣術がどうしたってぇんでぇ?」
「いえ、ちょいと永岡の旦那に、剣術の腕を見て頂きたいお方が居るんですよ?
そのお方のお住まいは緑町なんですが、多分旦那の都合に合わせられると思いますよ?」
「そうかぇ。こっからも近ぇっちゃ近ぇな。
まあ、暫くはこの辺りを彷徨く事になるだろうから、オイラが緑町まで行くんでいいぜ。
相手方の都合が決まったらまた教えてくんな?」
「ありがとうございます、永岡の旦那!」
みそのは話してて、永岡に順太郎の剣術の腕を見てもらう事を思いつき、その約束を取り付ける事に成功したのだった。
みそのは順太郎の出稽古の口を、新之助に打診してみようかとも思っていたのだ。
少し反則の様でもある。
新之助と言えば、徳川吉宗。将軍である。
将軍からの斡旋で断れる武家は無いだろう。
しかし、みそのも多少は弁えている。
推薦するに相応しい腕前でなければ、如何にみそのと新之助の仲でも無理は言えない、と。
みそのにとって永岡は、それを測る格好の人材と言えたのだった。
「では、そうと決まったら予定を聞きに戻りますね?
では永岡の旦那も、お散歩頑張ってくださいな?」
みそのが善は急げとばかりに慌ただしく踵を返し、両国橋へと歩いて行った。
「ちっ、なんでぇあの野郎は。それに散歩じゃねぇってんでぇ…」
永岡が弱々しくぼやくと、二人の遣り取りを苦笑しながら聞いていた智蔵は、堪らずに永岡から顔を逸らして笑うのだった。
*
「伸哉、どうしてぇ?
今日は早仕舞ぇで物足りなかったかぇ?」
「いえ、滅相もねぇ旦那。
今日は昼餉も団子くれぇしか食えなかったんで、腹ぺこで大助かりでさぁ」
「そうかぇ。その割にゃあ不満そうな面ぁしてやがんな?
まあいいか。とにかく昼餉の分まで取り返して食えや?」
「へい……」
最後の永岡の言葉にも、何故かシコリが残った様な顔で返事を返す伸哉。
ニヤついた松次に酌をされ、勢い良くそれを呷って顰めっ面をしている。
今は『豆藤』で、報告会を兼ねた少し早目の宴の最中である。
ここ『豆藤』は、智蔵がお上の御用の傍ら、口に糊する為に女房のお藤にやらせている居酒屋だ。
しかし今や、ここで出される料理が絶品という事で、この界隈では知らぬ者が居ない程の繁盛店となっている。
そも、智蔵とお藤の人柄あっての事だろうが。
みそのと別れた永岡は、両国界隈で聞き込みを続けていた広太達と合流し、別行動していた北忠と伸哉が帰って来たところで、早々に探索を切り上げ、この『豆藤』へと皆を引き連れて来たのだった。
それぞれ目ぼしい成果が無い事を察しての事だ。
成果の無い調べほど疲労する。
それが身に染みている永岡は、仲間の疲労の度合いを慮って早仕舞いを決めたのだった。
「未だ怒ってるのかぇ伸哉?
お前は案外根に持つ質なんだねぇ。ほれ、取って置きの付け汁をあげるから、機嫌なおしておくれよう?
これにお好みで七味なんかかけたら、そりゃあもう目が飛び出る事請け合いだよう?」
北忠が顰めっ面の伸哉の前にやって来て、手に持ったお椀を差し出して、嬉しそうに目を細めて説明している。
この二人の、いや、伸哉の蟠りは、二人で鎌倉河岸まで巾着切りの末吉に、聞き込みへ行った時の頃からのものだ。
鎌倉河岸に着き、難なく末吉を見つけられたところまでは良かった。
しかし、末吉を連れ出し団子屋へと向かう運びとなってから、沸沸と蟠りが増幅したのだった。
伸哉は出発前に豊島屋の田楽を却下されていたのだが、やはり空き腹だった為、甘いものよりもしょっぱいものが食べたくて、酒は抜きにしても、蕎麦屋でも煮売飯屋でも何処でも良いと、とにかく飯の食える店にしようと、歩きながら何度も懇願していたのだった。
しかし、北忠は余程団子が食べたかった様で、伸哉の再三の言葉にも良い顔をせず、終いには、
「分かった伸哉。団子のお代は私のここから出すよぅ。
今日は幾ら食べても良いから、今回は団子にしようよう?」
と、自分の懐を景気良く叩いて伸哉を折れさせたのだった。
しかも、北忠お目当てのその団子屋は下谷に有り、もう少しもう少しと歩かされ、なんと半刻ほども歩かされる羽目になった。
そうして目当ての団子屋に着き、団子を頼んで末吉から話しを聞いたのだが、結局のところ末吉は、今では熊手の弥五郎とは付き合いは無いとの事で、最近の弥五郎の話しは全く聞けなかったのだ。
伸哉は空き腹のところ、妥協した団子を食う為に半刻も歩かされた上、肝心の調べの方も全くのハズレとあって、さぞや消沈した事だろう。
それもあってか、団子屋では甘党でも無い伸哉が八本も団子を食べた。
この状況を考えれば、伸哉がやけ食いしたのも頷ける。北忠の奢りとあれば尚更だ。
しかし、団子八本のやけ食いも腹が満たされた訳でも無く、逆に甘いもので胸焼けしただけだった。伸哉にとっては踏んだり蹴ったりの珍道中と言える。
それだけでも伸哉にとって、十分不満の残る出来事だったのだが、だからと言ってここまで引きずるほど、伸哉も女々しい男では無い。いや、どちらかと言うとスパッとさっぱりした男だ。
それなのに、ここ『豆藤』で永岡に気遣わせるほどに、今の今まで引きずっているのは、『豆藤』に着いてから北忠に渡された物が原因だ。
「あ、いけないいけない、伸哉にこれ返しておかなきゃねぇ。
『豆藤』で一杯やったあとだったら、忘れてしまうとこだったよう」
などと言いながら北忠は、見覚えある三徳(財布)を懐から出して来たのだった。
そして、自分の懐に手を入れハッとした伸哉に、
「団子八本分は、ちゃあんとここから出しておいたからねぇ」
と、北忠が悪戯っぽく腰をくねらせて言った時、伸哉は怒りで立ち眩みを起こしたのだった。
そんな訳で、未だ四半刻も経っていないのだから、いくらスパッとさっぱりした男らしい性格の伸哉でも、立ち直れないのは頷ける。
ましてや付け汁で許せだなど、臍で茶を沸かす様なものなのだ。
先程から伸哉の機嫌を直そうと、北忠とも仲の良い弟分の松次が、あれこれと気を使っている。
今も松次は、
「今日の北山の旦那は悪戯が過ぎただけでさぁ。
悪りぃお人じゃねぇのは、兄ぃも承知じゃねぇでやすかぇ?
ほら、あの北山の旦那が、普段誰にも触らせもしねぇ付け汁ですやすよ。
腹が減ってるってぇ言ってたじゃねぇですかぇ。ほら、こいつを食って気分変えやしょうや?」
と、北忠特製の付け汁に程良く煮えた軍鶏肉を入れ、甲斐甲斐しく伸哉の世話を焼いている。
伸哉は松次が差し出す付け汁の椀を無視して、
「煩えやぃ、好きに食わせろってぇんでい!」
と、松次に当たる様にして酒を呷っている。
とは言え、
「そうでやすかぇ? なら、あっしが」
と、松次がその付け汁の椀から軍鶏肉を箸で摘もうとすると、無言でそれを取り上げ自分の前にそれを置き、不貞腐れた顔のまま手酌で酒を飲んでいるのだ。
付け汁を譲らない意思は伺えるが、中々機嫌は直らないらしい。
「どうでぇ?
そろそろ腹も落ち着いた頃合えだろうし、忠吾達の方はどうだったのか、聞かせてくれねぇかぇ?」
それぞれあれこれと摘んで腹に収めた頃合いに、おもむろに永岡が声をあげた。
「永岡さん、申し訳無いのですがね。例の巾着切りさんは、最近の弥五郎の事は何も知らなかったので御座いますよ。せっかく伸哉に案内してもらったのに、どうも無駄足になってしまいましてねぇ。
伸哉、今日はすまなかったねぇ?」
北忠が永岡に今日の成果を残念そうに話し、伸哉に片手拝みに謝った。
伸哉は話しを聞きながら、ちょうど軍鶏肉を口に入れていたところに、北忠から謝られたので目を向いて驚いている。
「美味っ!!」
いや、北忠に声をかけられて驚いた訳では無いらしい。
何気無く取って食べたのが、北忠の特製付け汁の椀からの軍鶏肉だったのだ。
伸哉はそれを知らずに食べて驚きの美味さに目を向き、思わず大声で叫んでしまったのだ。
「だぁろう?
ほら、七味なんかをパパッと振ってごらんよ。うふふ、ピリッと締まって、また乙なものに生まれかわるよぅ?」
北忠が嬉しそうに言うと、伸哉はコクコクと頷き、早速七味を振って一口食べる。
そしてニンマリと幸せそうな笑顔を浮かべ、北忠に大きく頷いている。
「なんでぇそれ?
いつも忠吾が作って食ってるヤツかぇ? そんなに美味ぇんなら、オイラにも回してくんねぇかぇ?」
永岡が手を伸ばして付け汁を催促する。
報告の途中での二人の遣り取りに、聞いていた永岡が興味をそそった様だ。
「永岡さん、これは選ばれた舌の持ち主が作った、特製の付け汁でしてねぇ?
半煮えを食べて喜んでいる様な舌の持ち主には、勿体無いと言うか、分からないと思うのですよね?
この味が分かるのは、この中では私くらいのものでして、伸哉は今日のお詫びにお裾分けしたので御座います。まあ、町廻りの先達の永岡さんに…」
「もういいやいっ!
長々と煩えやぃ、ったく…」
いつもの如く北忠の話しが長くなりそうだったので、永岡は途中で口を挟んでやめさせた。
「では、永岡さんもいずれその時が来たら…」
北忠がしたり顔で言う。
「ちっ、お前しか味が分からねぇってぇのに、伸哉も美味そう食ってるじゃねぇかぇ。ったくよぅ…」
永岡は北忠の顔を見ながら舌打ちをすると、隣の智蔵にだけ聞こえる様な小声でぼやく。
「まあまあ、今度お藤に作らせやすから、ここは収めてくだせぇよ。ささ」
智蔵が小声で言って、永岡の猪口に酒を注ぐ。
北忠の付け汁は、北忠が直接調理場まで行き、自分で材料を調合して作っているのだった。
智蔵はお藤に言い付け、北忠から作り方を教わって作らせる事を考えた様だ。
「これは秘伝中の秘伝ってヤツでやすねぇ!?
はぁ〜、こいつぁ絶品でやすよ、北忠の旦那っ?!
今日腹を空かしていたのは、この為だったんでやすね!」
「そうだろぅ伸哉。お前も良い舌持ってるんだねぇ。分かる男ってヤツだねぇ?
これで女子にもモテるんだから、私は勝てるところがなくなってしまうよぅ」
二人は肩を抱いて盛り上がり、戯れ合っている。
先程までの蟠りは嘘の様だ。
食べ物の力は偉大と言う事か。
「まあ、伸哉も元気を取り戻したみてぇだし、良しとするかぇ?
今日はオイラたち以外は散々だったみてぇだかんな?」
智蔵から酌を受けた永岡は、賑やかに飲み食いする面々を見ながら言って、智蔵に酌を返した。
「北山の旦那ぁ、あっしにも付け汁回してくだせぇよぉ。
いつもあっしが、色々と面倒みてるじゃねぇでやすかぇ?」
「そうだねぇ。松次にはいつも世話になってるのは認めるよぅ。
でも恩を押し付けるのはどうなんだろうねぇ」
「伸哉兄ぃも一緒に頼んでくだせぇよう」
「お前には未だ早ぇって事よぅ」
「そんなぁあ。旦那、お願ぇしやすよう?」
「なんなら、あっしもお願ぇしやす!」
「翔太お前、なに出しゃばって
やがんでぇ。お前はもっと早ぇってぇのっ!」
「なら旦那。あっしなりゃ、ようござんすかぇ?」
「留吉だったら渋いし、良いかも知れないねぇ?」
「狡ぃや兄ぃ、未だこっちの話しが済んでねぇんでやすよ。横槍はいけねぇや!」
「そうそう、この若芽と胡瓜、この三杯酢が絶妙なんだよねぇ〜」
「未だ話しは終わっちゃおりやせんよ、北山の旦那!」
益々宴は賑やかになって行く。
本来の報告会としての役割は果たしていないが、これで今日の疲れは明日に持ち越さないだろう。
「なんだか話しをする雰囲気じゃ無くなっちまったな?
取り敢えず儀兵衛から聞いた話しなんだが、今夜はオイラとお前だけで詰めるとするかぇ?」
「ふふ、そうしやしょう」
永岡は唯一成果のあった報告も出来ず、智蔵と二人、賑やかに盛り上がる宴の片隅で、明日からの手配りを話し合うのであった。