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第八十六話 判示窮す

 


「ちっ、気づかれちまった……か?」


 伸哉しんやが小間物屋で巾着を手にしながら独り言ちる。

 伸哉は茶店を素通りして十五間(凡そ27m)程先の小間物屋で足を止め、小間物を物色する振りをしていた。


「こいつを頼まぁ」


 伸哉は女物の巾着を店の老婆へ渡す。

 先程からねっとりした嫌な視線を背中に感じているので、ここで買わずにやり過ごすのも気が引けたのだ。

 しかもここは主に女物の品物ばかりで、男が立ち寄るような店では無かったから尚更だ。


「はいよ。お兄さんみたいな男前にこんなのもらったら、お目当ての女なんてみんなイチコロだよう?」


「へへ、これで目当ての女はイチコロって訳かぇ? まあそのめぇに、他の女に見られた日にゃ俺の方が殺されちまうぜ。そうなっちまったら責任取ってくんな?」


 伸哉は自分で戯れ言を言ったにも関わらず、背中に冷たいものを感じてしまう。


『こいつぁ深追いしねぇ方がいいかも知れねぇな?』


 そう思いながら、手汗でヤケに濡れた手で代金を渡す伸哉。


「はい、毎度あり。お兄さん、殺されそうになったら逃げてくるんだよ? あたしで良かったらいつでも歓迎さぁね。あははは」


「ありがとよ。その時ぁ世話んなるぜ」


 伸哉は戯れ言を戯れ言で返すと、後ろを振り向きたい衝動をぐっと堪えて小間物屋を後にする。

 思わずぶるりと身震いしそうになるも、それもぐっと堪えて自然を装うのだった。



 *



『ふふ。全然気がつかないのね』


 みそのは少し前からお千代ちよを見ている。

 お千代は養生所の庭にしゃがみ込み、小枝片手に夢中で何かを地面に描いている。


 みそのは月旦の道場へ行く永岡には同行せず、千太せんたお千代兄妹のいる小石川養生所を再び訪れていた。

 斎藤さいとう承太郎じょうたろうの為人次第では荒事になり兼ねないとの思いが永岡にはあったのだろう、念の為みそのを先に養生所へと行かせたようだ。

 そんな訳で永岡も用を済ませ次第こちらへ顔を出す事になっている。


 みそのがそおっと後ろから近づき、お千代が描いている地面を覗き込む。


「へぇー。上手に書けてるわねぇ?

 これはお父さまで、こっちが千太さんとお千代ちゃんね。ふふ、私と永岡の旦那まで描いてくれたのね?」


「みそのお姉ちゃん!」


 みそのに気づいたお千代は驚きのあまり目を丸くすると、それを一瞬にして花が咲いたような満面の笑みに変えた。


「どうしたの? 用事は済んだの? 次に来るのは明日じゃなかったの? もしかしてみそのお姉ちゃんもお泊りするの?」


 お千代が矢継ぎ早に問い掛ける。


「うん。用事は済んで一旦帰ったんだけど、途中でまた用事が出来てまた来る事になったのよ。このおじちゃんも後で来るわよ?」


 地面に描かれた絵を指差しながらお千代の問いに応えるみその。

 左から太平、千太、お千代、みその、永岡の順で描かれた絵は、それぞれがVの字の線で繋がっている。

 お千代は皆が仲良く手を繋いでいるところを描いたのだろう。


「永岡さまもくるの!」


 お千代は手を合わせながらキラキラと瞳を輝かせて喜びを露わにする。

 今の今まで自分が絵に描いていた構図が現実のものとなる事に、お千代は喜びを隠しきれないようだ。


「そうだ。お千代、お父ちゃんとお話しできたんだよ? お父ちゃん、泣いてたけど笑ってくれたんだよ? お千代の頭を優しくなでてくれたんだよ? また明日話そうって言ってくれたんだよ?」


 嬉しそうに矢継ぎ早に語るお千代。

 その顔は喜びで溢れている。

 みそのもそんなお千代の様子に自然と笑みを浮かぶ。

 そして心の底からほっとするのであった。



 *



「おい、待ちねえ」


 坊主頭の痩せぎすの男がびくりと固まった。

 男は下足番が出した自分の草履を履いていたところだ。


「危ねぇところだったぜ」


「全くでぇ。ったく、誰が漏らしやがったんでぇ」


 広太こうたに応えた留吉とめきちがじろりと店の奥へと目をやると、柱から覗いていた黒い影がさっと引っ込んだ。

 先程留吉が出て行った時にすれ違った留女とめおんなだ。

 留女とは読んで字の如し、旅籠に泊まるよう客を引き留める女だ。要は客引きの女である。

 飯盛女はこの留女の役も果たしているので、下っ引きが探していた事を知らせて、次に呼んでもらう為に媚を売ったのかも知れない。


小井こい平左衛門へいざえもん様とお見受けしやすが?」


「ワ、ワシに何用じゃ……」


 広太に名前を呼ばれた男は動揺を隠し切れないようで、人違いと惚ける訳でもなく声を震わせながら応えた。


「ちょいと聞きてぇ話がありやしてね。これは御用の筋なんで協力した方が身の為ですぜ?」


 留吉が男の前に回り込みながら鋭い目を向ける。


「これでもワシは御家人であるぞ。御用であろうが何であろうが、お主らのような町人風情に話す話などないわい」


 言葉とは裏腹に、男の目は留吉を見返す事なくキョロキョロと虚空を彷徨っている。

 やはり何やら後ろめたい事があるようだ。


「俺たちじゃ話にならねえってぇんなりゃ、同心の旦那を連れて来るまでなんでやすがね。でも本当にそれでいいんでやすかぇ?

 もうウチの旦那は北割下水の屋敷へも足をお運びになってるんでやすぜ。これ以上手間を取らせやすと、せっかく見逃してやろうと思ってた旦那の気も変わっちまいやすぜ?」


「そうでやすよ、小井様。初めに言っておきやすが、今のところ旦那は小井様を捕らえようなんて思っちゃいやせんからね?」


「そ、そうなのか?」


 留吉に続けた広太の言葉で、男は虚空を彷徨わせていた目を広太へと向ける。


「へえ。この留吉が見てるんでやすよ。ある男が小井様の屋敷へ出入りしてるところをね?」


「へい。伊沢ってぇ旗本の大村ってぇ剣術指南役でさぁ。どうでやす? 勿論大村ってぇ男をご存知でやすよね?」


「…………ああ」


 男が留吉の問いに一瞬迷いながらも首を縦に振った。


「もうお気づきでやしょうが、その大村が持ち込んだ刀について幾つかお聞きしてぇだけなんでやすよ?」


「へい、そうなんでやすよ。どうせ犬猫を斬ったとか言って研ぎに出して来たんでやしょう?

 小井様はいよいよ不審に思ってあっしらにお話になった……と、今お話になりやすと、そんな塩梅あんべぇで話を進める事が出来るんでやすがね?」


 留吉と広太の巧みな返しに男が顔を歪ませる。


「な、ならば外聞を憚る話もあるで……。上で話をいたそう……」


 男は履きかけていた草履を下足番へ返すと、全てを諦めたような目を二人へ向けて歩き出す。

 留吉と広太は互いに頷き合うと、その背中を追って旅籠の中へと入って行った。



 *



「ほう。おめぇさんが全て被るって事かぇ?」


「被るも何も全てワシがやった事。この中西殿はワシに言われるまま何も知らずに動いていただけじゃ。まあ薄々は気づいていたにせよ、それはワシを信じていたからこそで、罪を受けるには価せぬ。ワシ一人お縄になれば全て丸く収まるであろう?」


 永岡は斎藤さいとう承太郎じょうたろうと対峙していた。

 二人の会話を中西周一郎が苦渋の表情で聞いている。

 ここは月旦の道場の客間で、この三人の他は人払いされていて誰もいない。

 道場を訪れた際の意味深な永岡の目配せもあり、月旦が気を利かせて部屋を貸してくれたのだ。


 ちなみに斎藤承太郎は既に入門を許されたとの事だった。

 承太郎も入門早々、八丁堀の世話になるとは何ともついてない。

 いや、今まで世話にならなかった事自体がついていたとも言えるのだが。


「で、おめぇさんはどうしてえのさ?」


「え? いや、然ればこうしてお縄になろうと……」


「何の咎でお縄にしてもらいてぇのさ?」


「何の咎も何も泥沼の加平の……」


「ああ、あの潔い盗賊かぇ? ありゃ盗賊にしとくのはもったいねぇ輩だな?

 しかしそれとこれとは話が別でぇ。加平は全ての罪を認めてやがるし、他の事など一切口にしてねぇからな?」


「…………」


 承太郎が困惑した表情で周一郎を見る。

 周一郎も困惑の表情で見返し、永岡へとその視線を向ける。


「おめぇさん達は何やら似た境遇にあるのかも知れねぇな?

 きっと今後は助け合って世の為になるよう互いに励むんだろい?」


 永岡の言葉に二人は黙って俯いている。


「オイラは見ているぜ?

 とにかく話はそれだけでぇ。おめぇさんは辻先生との出会いを大事でえじにするんだぜ?」


 永岡がパンと膝を打って立ち上がる。


「そう言う訳でぇ、中西殿。二人共これからが大事でぇじなのさぁ。オイラ達をがっかりさせねぇよう、宜しく頼むぜい?」


 襖に手を掛けながら戯けたように言った永岡は、周一郎の返事を待つ事なくそのまま部屋を後にした。


「………………」


「………………」


 困惑顔の男達は暫し言葉にならない。

 その代わり互いの目には光るものが溢れていた。



 *



「しかしやべぇ事になってきやがったな……」


 伸哉が堪らず身震いしながら独り言ちる。

 その背中にはびっしょりと嫌な汗をかき、それが冷たい風に晒され物理的にも寒気を誘っていた。


 あれから伸哉は無理に尾行を続ける事を諦め、何食わぬ顔でなるべく信秀と大村から離れるように歩いていたのだが、当の信秀と大村が絶妙な距離感で伸哉の跡を尾けて来ていたのだ。


 しかと振り返って見た訳ではない。

 辻辻でチラと後ろを見ての事だ。

 普段は自分が尾行しているだけに、明らかに尾けられている事が分かる距離感であった。


『下手に人通りのねぇところへは行けねぇな……』


 表店から裏店へ抜ける狭い路地に目を奪われるも、ぐっと我慢をする伸哉。

 背中に感じるねっとりした視線から解放されるにも、思い切って裏店へ抜けて相手を撒いてしまいたいところだ。

 ただ、伸哉もここらは然程土地勘がない。

 街道筋とは言え大概は店の作りは似たようなものなのだが、思わぬところでどん詰まりになっている場合もある。

 ここが両国や深川あたりならば伸哉も熟知してもいるのだが、流石に品川宿となるとそうもいかない。

 信秀と大村に尾行されている今、一つの間違いが死に繋がる恐れもあるのだ。


「ちっ。俺ぁ完全に粋がってやがったぜ……。あれだけ親分に一人で尾行するなって言われてたのによぉ……」


 伸哉は思わず自分を戒めるように独り言ちる。

 その目は裏店へ続く路地から今は未だ人通りの多い往来へと向かっている。


『とにかく人通りのあるうちに何とかしねぇと、いよいよやべぇ事になりやがるぜ……』


 焦る思いが伸哉の足の運びを早くする。

 それに呼応するように、後方に見え隠れする二つの影の足の運びも早まるのであった。



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