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第八十五話 慈愛と殺意の目

 


「で、あの屋敷のバカ息子はどんな塩梅あんべぇなんでぇ?」


 永岡が肩を竦めながら震え上がっている北忠きたちゅうに問いかける。


「そ、それなのですが……。どんな塩梅も何も、屋敷に居るのかすら分かっていないのが現状でして、とにかく出入りを見張っていた次第でございます……。

 このまま見張りを続けていてよろしいのでしょうか?」


 流石に気まずそうに返した北忠は、真剣な表情で永岡に伺いを立てる。


「ったく、見張りも何も居眠りしていやがったくせに良く言うぜ」


 苛立たし気に返した永岡が溜息を吐く。

 北忠がどんなに真剣な表情をしようとも、涎で口元を光らせたままではいただけない。逆に相手を苛つかせるだけだ。


「い、いや、ですからあれは私を怪しむ者をやり過ごそうとですね……」


「おきあがれっ! 未だそんな寝言を言ってやがんのかぇ。ったく、はええとこ目を覚ましてその汚ねぇ涎をさっさと拭きやがれっ!」


 飛び跳ねるようにビクンとした北忠は、慌てて懐から手拭いを取り出して涎を拭う。

 そして北忠は永岡の視線を遮ぎるように手拭いを口に当て、永岡の後ろに控える松次しょうじに『教えなさいよ』と口をパクつかせながら非難の目を向ける。


『涎の面倒まで見れねぇってぇのっ!』


 との言葉を呑み込みながら、松次は永岡の背後から形ばかりに片手拝みで謝ってみせる。

 全く松次にとってはとばっちりもいいところだ。


「で、奴らは未だけえって来た様子はねぇんだな?」


「はい……」


「はいってな……。おめぇが居眠りしてる間にけえって来てるかも知れねぇじゃねぇかぇ?」


「そ、それは……」


「それはじゃねぇやい、忠吾。おめぇなぁ、そもそも何の為におめぇらを朝一から行かせたと思ってるんでぇ。屋敷からの出入りも分からねぇんじゃ話にもならねぇってぇの。ったく、しっかりしろいっ!」


 永岡の叱責に肩を竦めた北忠は、


「いや、聞いてくださいよ永岡さん。私もね、ただ単に到着が遅れた訳ではないんですよ?

 ここまでの道中で、探索に関わる重要な証言を聞けそうな人物を見つけたのですからね!」


 と、口を尖らせて抗弁する。

 しかし永岡は表情一つ変えずに北忠を見据えている。


「ま、まあ、見事なまでに隙を突かれて逃げられてしまったのですが……」


 永岡の無言の圧力に、北忠はポリポリと鬢を掻きながら尻すぼみに応える。


「その逃げられたってぇのは平六へいろくの事かぇ?」


「そう! 永岡さんも松次から聞いたんですね? それでしたら話は早い。ですから私は……」


「平六からは何も聞けなかったんだろい?」


「ま、まあ、とにかくすばしっこい奴でして……はい…………」


「大飯食らってる間に逃げられたくせしやがって、すばしっこいも何もねぇやい! いい加減にしろいっ!」


 永岡に怒鳴りつけられた北忠は、頭が体にめり込むほど肩を竦めながら目を瞑る。


「いいか、忠吾。おめぇが逃した平六ってぇのは、弥平の物乞い仲間でな。そこの旗本のバカ息子が弥平を斬り殺した現場を見てんのさぁ。おめぇの言う通りで、確かに重要な証言が聞ける野郎さぁね。せめてその平六の身柄を確保してりゃあ、このしくじりだって大いに穴埋め出来たんだろうが、おめぇって奴ぁ尽くしくじる野郎なんだな? 偶々にしろせっかく大事でぇじな証人を捕まえたってぇのに、飯食らってる間に逃がしちまっただなんて開いた口が塞がらねぇや。オイラ呆れちまってこれ以上怒る気にもなれねぇぜ」


 永岡の話を驚きとともに神妙に聞いていた北忠だが、永岡の最後の言葉て安堵の笑みを浮かべる。


「ちっ……」


 永岡から盛大な舌打ちが漏れる。


「とにかく、ここはもういい。この時刻で何も動きがねぇんなりゃ既に出掛けちまったにちげぇねぇ。こんなとこでただけえって来るのを見届けても何にもならねぇや。おめぇらは平六を見つけ出して奉行所へ連れて行け。いいな?」


「はい、お任せを!」


 即答した北忠は踵を返して歩き出す。


「ほら松次、何ぼーっとしているんだい。お前は永岡さんの話を聞いてなかったのかぇ。いいから早く私について来なさいなっ!」


 北忠は足を止めずに振り向きながら松次へと声をかける。


「いつもすまねぇが、あいつの面倒を頼むぜ?」


「い、いえ、とんでもござんせん。へぇ。では御免なすって……」


 永岡が片手拝みに頼むと松次は恐縮しながら応えて走り出す。


「少しはやる気になったみたいですね、北山さん」


 黙って見ていたみそのが永岡の傍らへ寄り、そう言って可笑しそうに笑う。

 それを鼻で笑った永岡は、


「バカ言うねぇ。ありゃあやる気も何も、あの野郎は一刻でも早くここから立ち去りてぇだけさね。どうせこの武家屋敷を抜けたらさっきの蕎麦屋に飛び込むにちげぇねぇ。おめぇの言った事が誠になるだけさぁね……」


 顰めっ面の呆れ声で返した。


 何も食べていなかった二人は、先程通りかかった蕎麦屋でさっと昼餉を済ませていた。

 その際にみそのが「北山さんが入って来たりしてね?」と、冗談めかして言っていたのだった。


「松次さんも大変ねぇ……」


「ああ。大変てぇへん大変てぇへんよう。ありゃ江戸でも特に割に合わねぇ仕事の一つさぁね……」


 二人が慈愛に満ちた目で自分の背中を見ているとも知らず、松次はちょこちょこ歩く北忠の後ろを面倒くさそうにゆるりと歩くのであった。



 *



「若、どうやら我らは何者かに尾けられて御座る。そこの茶店でも入って暫しやり過ごしましょう」


「ほう。面白いではないか? それが誠ならば人目の付かぬところへ誘い出して、村正の研ぎ上がり具合を試すとしよう……」


「わ、若、未だ先日の物乞いを斬ってから日も浅うござる。少しでも間を開けませぬとその内……」


「その内なんじゃ?」


「いや、現にたった今下っ引きらしき男に尾けられている訳で御座って……」


「だから始末すると言っておるのじゃ! そんな事も分からんのか!」


「………」


 コソコソと小声で話す二人は件の男達である。

 伊沢いざわ信秀のぶひでとそれに従う大村だ。

 最後は癇癪を起こして言い放った信秀だが、往来の多さを気にしてか然程大きな声では無い。

 そのくらいの分別はあるようだ。


 信秀は肩で風を切るようにして茶店へ入って行く。

 その後を大村はホッとした表情でついて行く。

 さっきの言葉は信秀の分かり辛い冗談であったと安堵したようである。


「若、茶だけでよう御座るか?」


「うむ」


 大村の問い掛けに腕を組んで長床机にどかりと腰掛けた信秀が頷く。

 その目はやけに細められ、今から茶を楽しむようには見えない。

 その証拠に注文を取りに来た茶店の娘が、そんな信秀を見て怯え顔となっている。

 そして娘は大村から注文を聞き取るや逃げるように立ち去った。


「あれかのう?」


「そ、そうかも知れませんが、何とも……」


 伸哉しんやが二人の前を素知らぬ顔で通り過ぎたのだ。

 流石熟練して来た伸哉と言うべきか、伸哉はチラリとも茶店の長床机に座る二人を見ようともせず通り過ぎて行く。


「やはり下っ引きかのう?」


「それも何とも……」


 信秀のねっとりした声に大村は動揺を隠せない。

 信秀がこうした声を出す時は決まって無茶な要求をするからだ。

 今の要求はきっとあの下っ引きを殺す算段をしろとの事だろう。


「お、お待ちどうさんで……」


 店主らしい店の老爺が茶を運んで来た。

 先程の娘は身の危険を覚えたのか奥に引っ込んだまま出て来ない。


「とにかく楽しみじゃ。茶を飲んだら委細構わず段取りは頼んだぞ」


「…………はは」


 信秀の言葉に顔を顰めた大村は、それを隠すように頭を下げながら了承する。

 大村は信秀が品川宿へ行くと言い出した時から半分は覚悟してはいた。

 ただせめてもう少し日を開けてからと、やはり出来得る事なら説き伏せたかったのだ。

 まあ、信秀が素直に説得に応じるとも思っていないので、こうなる事は見えていたのだが。


『その辺の女よりは下っ引きの方を斬らせる方が幾分気も楽か……』


 大村はそう思い直すと、殺意を纏った鋭い目を伸哉の背中に向けるのであった。



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