第八十四話 多趣他用
「……そうだな、しっかりしているとは言え、千太もまだ子供だからな。まあ、お千代と二人、悔いのねぇ時間が過ごせるといいな?」
「ええ。せめて数日でもいいから太平さんの体調の良い日が続いてくれて、ゆっくりお話が出来るといいんですがね……」
みそのと永岡が言葉を交わしながら歩いている。
二人はこうして会話しながら歩みを進め、駿河台まで来ていた。
外神田を抜けて昌平橋を渡ったあたりからは商家も減り、厳しい武家屋敷ばかりが目につくようになっている。
今では道行く者の姿も武家の装いが目立ち、その武家達は皆、決まって二人を物珍しそうに見送っていた。
町人と同心が仲睦まじく並んで歩いているのだ、違和感を覚えるのも致し方ない。
とは言っても、二人の話題は自然と千太お千代の兄妹の方へと向かってしまう様で、二人とも表情は微妙なものになっているのだが。
「あら、あれって松次さんじゃありません?」
みそのが前から歩いて来る松次に気付く。
「ん? そうだな。ありゃ確かに松次だな……」
ひょろりと背の高い松次が背を丸めてとぼとぼと歩いて来る。
永岡はそんな松次の様子に嫌な予感を覚えてしまう。
「ちょいと様子見るかぇ」
と、永岡はみそのと武家屋敷の塀に寄って松次を待つ事にした。
松次はぶつくさ言いながら近づいてくるも、下を向いてるせいで一向に永岡達には気がつかない。
それを見たみそのはクスクス声を忍ばせて笑う。
そんなみそのにも気づかず、そのまま松次は二人の前を通り過ぎる。
松次を目で追っていたみそのが悪戯顔で永岡に目で合図を送ると、永岡は呆れたように頷いた。
「松次さん!」
「ひぇっ!」
みそのの大声で飛び上がって驚く松次。
「あ、み、みそのさんじゃねぇですかぇ。って、永岡の旦那まで……」
コロコロ笑いながら近づくみそのの後ろから永岡が現れると、松次は途端にバツの悪い顔になった。
「どうやらまた忠吾に振り回されてるみてぇだな?」
「い、いや…………へ、へえ。実は……」
諦めた松次は事の顛末をポツポツと語り出した。
永岡が苦虫を潰したような顔で聞いている中、みそのはクスクスと声を殺して笑っているのだった。
*
「伸哉兄ぃ、あれってもしかして伊沢信秀とか言う例の旗本じゃねぇですかぇ?」
「ん? お、確かにあの人相書きの男に似てやがるな……って、翔太、ちょいと隠れるぜっ」
伸哉が翔太の袖を掴んで側にあった用水桶の陰に隠れる。
信秀の後ろから大村と見られる厳つい武士が現れたからだ。
伸哉はいよいよ本人に違いないと感じたようだ。
「伸哉兄ぃ。これ、どうしやしょう?」
自分達には研ぎ師をしている貧乏御家人の小井平左衛門の探索がある。
未だ品川宿に着いたばかりで、聞き込みもこれからってところだ。
「そうさなぁ……。こんなとこで奴らを見ちまったからには捨ておけねぇ。ここは二手に分かれるしかねぇな?
お前、聞き込みくれぇ一人で出来るだろぃ? 俺はあの二人を尾けてみらぁ」
伸哉はそう言うと、目の前を通り過ぎた二人に十分距離を取ってから歩き出した。
「そ、そんなぁ……」
永岡からもらった心付けを渡された翔太が心細げな声を上げる。
ただ、意外な心付けの重さに思わず表情が緩んでいるのは気のせいか。
*
「千太、お前はオイラに似ねえで賢い。それがせめてもの救いだ。千太、これこらもお千代と仲良くな。とにかく頼んだぜ……」
「何言ってんだよ父ちゃん…………。
でも……。でもわかったよ父ちゃん。オイラ、これからもお千代と仲良くするし、お千代が嫁いで行くまではオイラがお千代を守ってみせるよ!」
弱々しく何度も頷く太平の頬に一筋の涙が伝う。
ただ、目の前の息子が頼もしくも希望となって映っているようで、涙に濡れた太平の目は体調とは裏腹に生き生きしている。
「お千代も兄ちゃんの言う事をちゃんと聞いて、いい子にするんだぞ?」
「うん! 兄ちゃんの言いつけを守って、ちゃんといい子にする!」
そう言って元気に笑うお千代に太平の涙腺は崩壊する。
お千代は止めどもなく流れる父親の涙を手拭いで拭きながら、その元気な笑みを崩さない。
「お父ちゃんはお千代の笑った顔が大好きなんだよ?」
と、千太の言った言葉を忘れずに、お千代なりに父親の為に頑張っているのだろう。
「いい子にするから安心しててね、お父ちゃん」
「…………」
お千代の言葉に太平は声も無く肩を震わせ、何度も何度も頷くのだった。
*
「あの野郎、何処へ行きやがったんでぇ……」
智蔵が苛ついた声で独り言ちる。
智蔵は一度は掏摸と疑った男を追って来たのだが、その男が蕎麦屋に入ってしまい、外で出てくるのを待っていたのだ。
だが、その男は一向に出て来ない。
痺れを切らした智蔵は尾行がバレるのを覚悟して蕎麦屋に入ったのだが、件の男の姿が見当たらなかった。
店主に聞くと、用を足すついでに裏口から出て行ったとの事だったのだ。
「ったく、してやられちまったぜ……」
智蔵はそれでも目星を付けた方角へ歩みを進めた。
「こんなんじゃ、旦那どころか手下にも顔向け出来ねぇぜ……」
そう独り言ちた智蔵は、苦虫を噛み潰したような表情で歩みを早めるのであった。
*
「広太こっちだ。奴さんは見つけたぜ」
「流石、留吉兄ぃ。持ってやすね?」
広太が揶揄うように言いながら、自分の左腕をポンポンと叩いて笑う。
二人は吉原は後回しにして、先に千住宿まで足を伸ばしていた。
千住宿は日本橋から一つ目の宿場町で、江戸四宿の一つである。
他の品川宿、板橋宿、内藤新宿と同様、千住宿は旅籠に飯盛女を置く事を許されている為、江戸周辺の遊郭として発展を続けている宿場町である。
二人は着いて早々、手分けしてその四、五十軒あると言われる旅籠へ聞き込みをしていたのだ。
隠れて商売している旅籠を含めれば三桁に近づく気の遠くなる作業だ。
それを留吉は小一時間もしないで当たりを引いた事になる。
確かに広太が言うように、留吉は持っているのかも知れない。
「それで小井平左衛門からは何か聞けたのかぇ?」
「いや、奴さんは酒食らって寝ちまってらぁ。取り敢えず旅籠のもんに心付け渡して、俺が帰って来るまで留めておくよう言ってある」
「今回の俺ぁ、足を引っ張っちまってるみてぇだな……」
「何言ってんでぇ。二手に分かれた時点でどちらかがそうなる事は決まってらぁ。気にするねぇ」
「とにかく今日中に帰れそうだな?」
「ああ。やっぱり色町なんかよりも、一日の締めは豆藤で一杯やるに限るからな?」
二人は逸る気持ちを抑えつつも笑いながら互いに頷き合うのだった。
*
「で、なんでお前がこんなとこで寝てやがるんでぇ?」
「今夜はお店に泊めてくださいよぅ、お藤さん……」
川縁で気持ち良さそうに眠る北忠を、永岡が苦虫を噛み潰したような顔で覗き込んでいる。
その後ろではみそのがクスクスと笑い、松次が呆れ顔で首を振っている。
「おう、起きろ忠吾! 武士がこんなところで寝るんじゃねぇやぃ!」
堪らず永岡が北忠の脇腹を蹴り上げる。
「痛つつつつつー。お藤さん、酷いじゃありませ……」
口を尖らせた北忠は永岡と目が合い、途端に血の気が引いて行く。
北忠はゆっくり立ち上がると、ぱっぱと着物に付いた土を払う。
「えーと。私を怪しむも居なくなったようですので、そろそろ寝たふりも終わりにしますかね……って、永岡さんじゃありませんか!?」
「おきあがれっ!」
永岡の剣気を帯びた叫びに北忠は元より松次までもが震え上がる。
ただ一人、みそのだけは「ぷははははは」と、堪らず声を上げて笑うのであった。




