表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
86/97

第八十三話 結跏往来

 


「では中西様もお気をつけて。へいさ……いや、つじ先生に宜しくお伝えください」


「それはもう。紹介状まで書いてくださり誠にかたじけない」


 周一郎が深々とみそのへ頭を下げている。

 二人は今、浅草橋御門の前にして別れの挨拶をしていたところだ。


 浅草橋御門とは現在の浅草橋の南側(中央区側)に建てられていた門で、当時は浅草口とも呼ばれていただけあり、ここを抜けて真っ直ぐ北へ向かえば浅草寺に突き当たる。

 みそのは小握り屋のある鳥越へ向かうので、この門を潜って北へと向かう。このまま直進する周一郎とはここでお別れと言う訳だ。


「ほらほら、お侍さんがこんな町の往来で頭を下げないでくださいな。それに礼には及びませんよ。紹介状は、辻先生が居留守でも使わないか心配なだけです。せっかく足を運んだのにそれじゃあんまりですからね?」


 みそのは慌てて周一郎の頭を上げさせると、冗談めかして理由を述べる。

 みそのは斎藤さいとう承太郎じょうたろうに対する月旦の扱いを見ているだけに、心配無用と思いつつも一筆認めてお節介を焼いたのだった。

 まさか承太郎の時のようにいきなり殴りかかる事はあるまいが、月旦の事だ、知らぬ相手となれば確かに面倒くさがって居留守を使いかねない。


「では順太郎さん達の事もありますし、また近い内にお邪魔させていただきますね?」


「あんなボロ長屋で宜しければ、いつにてもお待ちしておりますぞ。

 まあ、直に同じ長屋に入りますから、この先、毎日のように顔を合わせるのでしょうがね?」


「そうでしたね、お隣さんになるのでしたね!」


 嬉しそうに返すみその。

 一部を剣術道場に改装した棟割長屋の普請も近々終わる。

 そこに周一郎も店子たなことして入り、その棟割の背中合わせにみそのも入るのだ。

 みそのの場合はラー油を製造販売する拠点とするだけで、今まで通り呉服町に住まうのだが。

 ちなみに向かいの割長屋には亜門あもんが暮らしている。

 中々賑やかな長屋になりそうだ。



「入れ違いにならなければいいんだけど……」


 周一郎を見送りながら独り言ちるみその。

 みそのは承太郎に会えなくとも月旦と手合わせ出来るよう文に認めているのだが、やはりせっかくの機会を逃して欲しくないようだ。


 みるみる周一郎の背中が小さくなって行く。

 一人となった周一郎の足は頗る速い。


「ふふ、私に付き合わせちゃったわね……」


 そう呟いて肩を竦めたみそのは踵を返し、ゆるりと門の方へと歩き出す。

 足取りはゆるりとしたものだが、しゃんとした姿勢を見る限り、駕籠で痛めた腰は大分いいようだ。


 *


「おう。こんなとこで何してんでぇ?」


「あら、旦那じゃないですか!」


 思わぬ偶然に、みそのの顔がパッと明るくなった。

 橋を渡り一町(凡そ109メートル)ほど行ったところで、前から永岡が歩いてきたのだ。

 永岡は本所を巡った後、東橋を渡り浅草寺をぐるりと見廻り御蔵前を歩いて来たところだ。


「何してるって、善兵衛さんのところへ行くところですよ。旦那の方こそ一人で何やってたんですか?

 あ、親分さんが居ないのをいい事に、まさか吉原に行ってたんじゃないでしょうね?」


「おきゃあがれっ! 勝手に方向だけで吉原帰りにするんじゃねえやい。こうした見廻みめぇりがオイラの仕事なんでぇ!」


 みそのの軽口に永岡が唾を飛ばしながら答える。

 しかしその顔はみその同様、なんとも嬉しそうである。

 そして永岡はツカツカとみそのに近寄ると、みそのと横並びとなって歩みを合わせた。


「それより今日は一日千太達と一緒だと思ってたぜ。なんかあったって訳じゃねぇんだろう?」


 声を落とした永岡が心配顔で聞いてくる。

 永岡も千太達の事が気にかかっていたようだ。


「そうよね。私がこんなところに一人でいたら何があったんだろうって思うわよね?

 養生所へは無事に送り届けたんですけど、やっぱりお父様の具合が芳しくないので、一日に面会出来る時間があまり取れないんですよ。だから少しでも長くお話出来るよう、二人は暫くの間養生所に泊まり込む事になったんです。それで私だけ帰って来って訳です」


「そうかぇ。やはりそんな悪りぃのかぇ、アイツらの親父。わかってた事だけどな……」


「そうね……」


「…………」「…………」


 暫し沈黙が流れ、今まで気にならなかった往来の声が二人を包む。


「まあ、これから辛い思いをすんだろうが、アイツらにゃオイラ達がついてらぁ。二人でアイツらを笑顔にさせてやろうじゃねぇかぇ?」


「そうよね……」


 永岡は殊更明るい声でがしりとみそのの肩を掴む。

 そしてそのまま数回肩を揺すり、


「そう言うこってぇ。だからそんな顔するねぇ。おめぇは馬鹿みてぇに笑顔でなきゃいけねぇ」


 と、揶揄うように言い、ニカリと笑ってみせる。

 みそのがコクリと頷くと、


「んじゃ、この話はしめぇだ」


 永岡はそう言って顔を引き締める。

 そしてモゾモゾと懐を探り、


「ところでこいつを見てみねぇ?」


 と、折り畳んだ紙切れを懐から取り出した。

 永岡はそれをハラリと開いてみそのへ見せる。


「あ、それは……」


「見覚えあんだろぃ?」


 見覚えがあるもなにも、それはみそのが亜門に描いてもらった信秀のぶひで大村おおむらの人相書きだった。

 昨日みそのが永岡に渡していたものである。


「こいつらに辻斬りの疑いが沸いてきやがったんでぇ。

 もしもまた出喰わす事があったら、知らぬふりして逃げるんだぜ? 間違っても跡を追うような真似はすんじゃねぇぞ」


「辻斬り……ですか……」


 まじまじと人相書きを見ながら呟くみその。


「ああ、そうだ。昨夜から辻斬りの話は上がっていたんだが、いよいよ濃厚になってきやがったんでぇ」


「確かにあの人、人を殺してそうな恐ろしい目をしてました……」


 みそのは信秀に睨まれた時の事を思い出し、ブルリと身震いしてしまう。

 亜門の画才も助け、あの時の場面がありありと蘇って来たようだ。


「一連の心中騒動もこいつらの辻斬りだったのかも知れねぇ。いいか、くれぐれも昨日みてぇに跡を尾け回すような真似はすんじゃねぇぜ」


 永岡が厳しい声で念を押す。


「わ、わかりましたよ。辻斬りしてるような人を尾け回すなんて、そんな無茶な事する訳ないじゃありませんか」


「おめぇなら有り得るから言ってんでぇ」


 眉間に皺を寄せる永岡。

 前例があり過ぎるだけに内心ヒヤヒヤしているのだろう。

 それもあってか執拗に睨め付けている。


「……あ、そうだ旦那。ちょいと面白いと言うか、気になるお方に会ったんですよ?」


 みそのが思い出したかのように話し出す。

 永岡の厳しい視線に堪え兼ね、話をすり替えたとしか思えないが。


「な、なんでぇ。一体いってぇ誰に会ったって言うんでぇ?」


 永岡がみそのへ疑いの目を向けつつ聞き返す。

 やはり誰なのか気になるようだ。


「斎藤承太郎ってお方です。覚えてます?」


「斎藤承太郎?

 斎藤承太郎ねぇ…………ああ」


 思い出したように間の抜けた声を上げる永岡。


「ふふ、思い出したみたいですね。中西様を例の事件にお誘いしたお方です。

 まあ、辻先生の道場でお見かけしただけで、本人かどうか確認していませんので、お名前が一緒なだけかも知れませんがね?

 さっきそれを中西様にお伝えしに行ったのですよ。

 中西様はお会いになるって事で道場へ向かわれてます。ちょうどさっき浅草口で別れたところだったんですよ」


「そう言や辻先生の道場は小石川だったな……」


 永岡はそう呟くと、何か考えるように上を見上げた。


「どうかしました?」


「ん? いや、確かコイツの屋敷が小川町だったと思ってな?」


 みそのの問いに、永岡が人相書きをヒラヒラさせながら答える。


「小石川は小川町のちょいと先でぇ。ちけえっちゃちけえんで、オイラも足を運んでみようかってかんげえてたのよ」


 実は永岡、みそのと出会う前から町廻りのルートに頭を悩ませていたのだ。

 どうせなら智蔵と一緒に掏摸と疑った男を追っていた方が良かったと、今となって後悔していたのだった。


「あ、そしたら私も付いてっちゃおうかな?」


「おいおい馬鹿言うねぇ……って、こんな往来でベタベタするんじゃねぇやい」


 みそのが腕を絡めるように身を寄せて来たので、永岡はあたふたしてしまう。

 その顔は言葉とは裏腹にすっかり緩んでいるが。


「それにおめぇ、これから善兵衛んとこへ行くんだろい? 何度も言うが町廻まちめえりは遊びじゃねえんでぇ。おめぇはおめぇで自分の用事を済ましやがれってぇんでぇ」


「善兵衛さんなら約束していた訳じゃありませんから心配いりませんよ?

 偶には一緒にゆっくりお散歩しましょうよ?」


 永岡の反対もなんのその、みそのは嬉しげに見上げながら言い返す。


「おめぇなぁ、オイラの町廻まちめえりを何だと思ってるんでぇ。それにあれだぞ、おめぇのこんなちんたらした歩きに付き合ってたら日が暮れちまうぜ? おっ、そうだぜ。おめぇと行ったらけえりは確実に夜になっちまうぜ。そりゃ駄目だな。駄目だ駄目だ、絶対ぜってぇ駄目だ。同行なんて有り得ねぇ。絶対ぜってぇ駄目だっ!」


 呆れ顔の永岡はだんだんと早口となり、最後には声を荒げて言い放った。

 しかし次の瞬間、みそのを見据えたまま永岡が固まってしまう。


「…………そ、そんな風に言わなくってもいいじゃない…………」


 みそのが湿った声で呟き、俯いて肩を小刻みに揺らし出したからだ。

 確かに自分の気持ちを素直に言っただけで、そこまで否定される謂れはない。

 みそのとしては、ただ純粋に永岡と一緒に居たかっただけなのだろう。


「…………最近一緒に居る時間が、あまりないし…………せっかくだから、少しでも、一緒に居たかった、だけなのに…………」


 みそのは俯いたまま、先ほどより鼻にかかった声で言い募る。すっかり泣き声のそれだ。

 そしてズズズと鼻をすする。


「わ、わかった。すまねぇ。そう言うつもりじゃなかったんでぇ……」


「……………………」


 みそのは俯いたままズズズズズズと鼻をすする。

 ひっくひっくと、肩の揺れもだんだん大きくなっている。


「…………そ、そう言やオイラが一緒ってぇのを忘れてたぜぇ。だったら夜になろうが心配しんぺぇするこたぁねぇやな?

 心配しんぺぇでついああ言っちまったが、おめぇさえ良かったら一緒に行くかぇ?」


「行ぐ…………」


 間髪入れずに答えるみその。

 その声音は相変わらずの湿った鼻声だが、俯いて見えない口元はキュッと上がっていた。


「そ、そうかぇ。分かった。そんじゃ一緒に行こうじゃねぇかぇ。

 お、おい。で、大丈夫でぇじょうぶかぇ?」


 永岡はそう言ってみそのの肩に手を掛けると、みそのは俯いたままコクリと頷く。


「ま、まぁ、それほどこたぁねぇや。休みながらでいいんで、ゆっくり行こうじゃねぇかぇ」


 永岡の言葉に漸く顔を上げて頷くみその。

 目尻に薄っすら光るものが見えるものの、悪戯っぽいニンマリ顔だ。

 完全な嘘泣きとまでは言わないが、まあ確信犯なのは間違いない。


「やっぱり駄目だっ!」


 みそのの思惑に気づいた永岡は慌てて前言撤回して歩き出す。


「駄目ですよ旦那っ。武士に二言はないんでしょ? 男はそう簡単に口にした事を変えちゃ駄目なんですからね!」


 後の祭りとばかりに口を尖らせるみその。

 もうすっかり行く気満々な嬉しげな顔で、小走りとなって永岡を追いかけている。


「煩え、最初に駄目だとも言ったから二言じゃねぇ。そんなこたぁいいから、さっさとおめぇは善兵衛んとこへ行きやがれっ」


「とかなんとか言って、親分さんが居なくて心細いし、本当は私についてきて欲しいんでしょ?」


「んな訳あるかぇ。単純におめぇがついてきてぇだけじゃねぇかぇっ」


「またまた〜。私と一緒に居たいって、顔に書いてありますよ〜」


「おきゃあがれっ!」


「でも、あれですよ。旦那の居ないところで辻斬りさんが現れたら大変ですよ? そしたら私、死んじゃいますよ? 旦那が一緒だったら安心なんだけどな〜」


「…………ったく、勝手にしろいっ!」


 少し口籠った永岡が自棄気味に言い放つ。

 こうした言い合いは、なんだかんだ永岡が折れるのが常だ。

 永岡もそれを見越してか、途中からみそのに合わせて歩調を緩めていた。


「ふふ、良かった。偶には駕籠に乗るのもいいものね……」


「なんでぇ、おめぇ駕籠で行きてえのかぇ?」


「へ? いや、違います違いますっ。さっき中西様へ伝えるのに駕籠を使って……」


 永岡がニヤリと悪い笑いを浮かべる。


「ちょうどそこの番屋で智蔵に繋ぎつけようと思ってたとこでぇ。一緒に駕籠も頼んでやるから、ちょいとここで待ってろぃ」


 言うや永岡は自身番へすっ飛んで行く。


「え、ちょ、やめて旦那、駕籠だけは絶対やめてーっ!」


 みそのの叫び虚しく、永岡は自身番へと消えて行った。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ