第八十二話 言わずとも通じる思い
今回は少し長くなってしまいました。
更新間隔もですね……m(_ _)m
「ごめんください」
腰高障子を叩く音と同時に訪いを告げる声が聞こえ、店の中の老武士は筆を持つ手をピタリと止めた。
「はて、この声はみそのさんでは……?」
そう呟きながら腰高障子へ向けた顔は、総髪に白髪が混じる程の年の割に肌艶がいい。
身に纏う着流しはすっかり色あせて草臥れているが、そうみすぼらしく見えないのは、引き締まった身体としゃんと伸びた姿勢のせいかも知れない。
老武士はすっと立ち上がり、ガタガタと建て付けの悪い腰高障子を開ける。
「やはりみそのさんで御座ったか?」
老武士の顔が柔らかく綻ぶ。
「急の訪いですみません、中西様」
老武士は順一郎の父、中西周一郎だったようだ。
みそのが向かった先は中西周一郎、順一郎父子の住まう長兵衛長屋だったのだ。
ちなみにこの長兵衛長屋、ここらでは食いっぱぐれ長屋と言った方が通じる。
他にも腐るほどボロ長屋が建ち並ぶ中でこの言われようだ。物理的にも格別のボロさなのだろう。
「いえいえ、こんな所で宜しければいついらしてくれても構わないのですぞ。
しかし今日は生憎と順一郎はお百合さんと出掛けておるので御座るよ……」
周一郎は鬢を掻きながら申し訳なさそうに言う。
「いえ、中西様。今日は中西様にお話があって来たんです」
「某に……?」
みそのの言葉に首を傾げる周一郎。
が、先日の事もあるので直ぐに顔を引き締める。
「ではどうぞ中にお入りくだされ」
「あ痛たたた……」
周一郎に促されて中へと入ろうとしたみそのだったが、足を一歩前に出した途端に腰を押さえながらふらついてしまった。
「ど、どうしました……」
慌ててみそのを支える周一郎。
周一郎は先日の会話を思い起こし、あれこれ考えを巡らせていただけに、みそのの異変に慌てた様子だ。
「腰を痛めてるので御座るか?」
「え、ええ……。急いでお知らせしようと思って駕籠に乗ったら、腰を……」
やはり嫌な予感は当たったらしい。
しかしみその、駕籠賃に二朱(現代の価値で凡そ13,000円くらい)以上も支払ってこれである。
確かに歩くよりも四半刻(凡そ30分)ほど早かったにせよ、それ以上に高くついたのは否めない。
兎にも角にも急いでいたのは間違いないようだ。
「某に急いで知らせる……為に?」
「痛つつつつ……え、ええ、そうなんです……」
周一郎の呟きに、老婆のようにくの字に腰を折り曲げながら応えるみその。なんとも情けない。
ただ、その顔は痛みで顰めつつも何処か嬉しそうだ。
周一郎はそんなみそのの表情に訝しげに首を傾げつつ、
「と、とにかく、中で話を聞きましょう。ささ、気をつけてお入りくだされ」
老婆を介護するかの如くみそのを支えながら案内するのだった。
*
「旦那、あいつらに銭なんかくれてやる事ぁなかったんでやすぜ?」
智蔵が非難めいた口調で言いながら、遠ざかる手下らの背中から永岡へ視線を戻す。
「ん? まあそう言うねぇ。今から吉原、千住、品川、内藤新宿まで行くとなりゃ、どう急いだって日も暮れちまうじゃねぇかぇ。あいつらだって一杯くれぇ引っ掛けてから帰りてぇだろい?
それに色町じゃあ聞き込みすんのにも何かと銭がかからぁ」
「しかし旦那、なるべく銭を使わずに聞き出すのも腕の内でさぁ。あいつらの為にもそう甘やかす事ぁねぇんでごぜぇやすよ」
「ふふ。それもそうなんだが、偶には息抜きも必要じゃねぇかぇ?」
「やっぱりそっちでやすかぇ……」
智蔵が呆れ顔で首を振る。
永岡の視線の先では、広太、留吉、伸哉、翔太の四人が丁度二手に分かれたところだった。
広太、留吉の二人が吉原、千住。伸哉、翔太の二人が品川、内藤新宿へと向かったのだ。
若い二人が距離のある方を担当したようだ。
ただ、二人の足は軽やかだ。
永岡から報告は明日でも構わないと言われていたからだ。
それは色町で一晩泊まっても良いとも取れる。
永岡もそれを見越して過分な銭を渡している。
若い二人の足も軽くなる訳だ。
「さてと。まさか明るい内から辻斬りなんぞしねぇとは思うが、オイラ達も見廻りに行くとするかぇ?」
パシリと手を打った永岡は、呆れ顔の智蔵へ声をかける。
「へい、そうしやしょう。辻斬りでなくても女子を攫うかも知れやせんからね?」
智蔵も呆れ顔を引っ込め目を光らせる。
どうやら小井平左衛門の探索を手下達に任せたのは、研ぎ上がった刀を手にした信秀が白昼堂々凶行に及ぶ恐れを危惧しての事だったようだ。
永岡と智蔵の二人は手下とは別に、町廻りをしながら番所経由で信秀を見張っている北忠と繋ぎをつける予定なのだ。
「まあ今日んところは北山の旦那が跡を尾けていやすんで、大丈夫だとは思いやすがね」
「おいおい、そいつぁ本気で言ってんのかぇ?
相手は忠吾だぜ? 彼奴ほどムラのある奴ぁいねぇじゃねぇかぇ。てんで当てにならねぇぜ」
永岡は呆れたように言うと、首を振り振り歩き出す。
「単に口に出して安心してぇだけなんでやすから、そう真面に返さねぇでくだせぇよ……」
口を尖らせつつ永岡に続く智蔵。
やはり希望的観測であって本気で言ってはいなかったようだ。
「ちょいとあれ見てみねぇ?」
歩き出してすぐの辻を曲がったところで、永岡がそう言って側にあった用水桶に身を寄せた。
永岡が顎で指し示した先には、道行く商人の主従にするすると近寄って行く男がいる。
こちらに向かって歩いている商人の主従に後ろからすり寄っている形だ。
「巾着切りでやすかね?」
永岡同様用水桶の陰に隠れた智蔵が声を潜ませる。右手は自然と腰の十手を掴んでいる。
「かも知れねぇな?」
永岡が智蔵の問いに答えた時、件の若者が後ろから主人の方に軽く身体を打ち付けた。
「おっと、こいつぁすいやせん。ちょいと急いでたもんで勘弁してくだせぇ。あ、お怪我はありやせんかぇ?」
「いえ、驚きはしましたけど怪我をするほどの事でもありませんよ。しかし急がば回れですぞ? 気をつけてお行きなさい」
「へぇ、ごもっともでさぁ。ありがとうごぜぇやす。そんじゃ、あっしはこれで。御免なすって……」
大した衝撃でもなかったせいか鷹揚に応える商人に、男はペコペコ頭を下げてその場を後にする。
「ちっ、仕事を増やしやがって……」
永岡が小走りで近づいて来る男を見ながら呟く。
永岡は男がぶつかった際、商人の懐に右手を差し込む瞬間を見ていたのだ。
「全くでさぁ。しかしこう言っちゃなんでやすが、頗る間の悪りぃ奴でさぁね?」
同じく掏摸の瞬間を見ていた智蔵が呆れたように首を振る。
同心と岡っ引きが見ている前での犯行だ。
しかもお縄にしてくれとばかりに近づいて来るのだ。間が悪い事この上ない。
「ちょいと待ちねぇ」
永岡が目の前を通り過ぎようとした男の手首を掴んだ。
「何しやがん……」
急に手を掴まれた男は怒鳴りかけるも言葉が続かず、あんぐりと口を開けている。
なんせ永岡は一目で同心と分かる格好。おまけに永岡の傍には十手を半分抜いた智蔵が立っているのだ。掏摸を働いたばかりなだけに驚きもするだろう。
「あ、あっしに何か御用で?」
「用が無けりゃあ、好き好んでお前なんぞの手なんか掴まねぇや。
ちょいと懐の中を検めさせてもらうぜ?」
「あ、ちょ……」
永岡は有無を言わさず懐を探る。
「ん?」
何も見つからなかったのか永岡が首を傾げる。
「や、やめてくだせぇよ旦那、あっしが何をしたって言うんでやすかぃ……」
「ちょいと袂を裏返してみろぃ」
男が口を尖らせながら文句を言うも、すかさず智蔵が厳しい声を被せる。
「だからあっしが何したって言うんでさぁ……」
言いながら男は自らの袂をひっくり返してみせる。
すると、ジャリっと然程入っていないであろう銭の音をさせ、小汚い巾着が地面に落ちてきた。
どう見てもあの商人から掏摸取ったような代物ではない。
「どう言うこって?」
智蔵が小首を傾げながら永岡を見る。
永岡も眉を寄せながら小首を傾げる。
「こいつぁ一体なんなんでやすかぇ。あっしが何したって言うんでさぁ?」
男は迷惑千万とばかりに露骨に顔を歪ませ同じ言葉を繰り返す。
「お前があの商人の懐に手を差し込んだのを見たんだが……」
「勘弁してくだせぇよ旦那ぁ。そりゃあ、旦那がそう見えただけでやすよ。確かにぶつかった時に手が出たかも知れやせんが、ただ単にそれだけのこってやすぜ。そんなんであっしを盗っ人扱いしねぇでくだせぇよ。お願ぇしやすよ旦那ぁ」
腑に落ちないとばかりに呟いた永岡に、男はうんざり顔で言い募る。
そして地面に落ちた小汚い巾着を拾い上げ、
「ったく、だったらこいつの中身も検めてくだせぇよ!?」
と、開き直ったように永岡の前に突き出しながら気色ばむ。
「まあ、そいつぁ仕舞っとけ。どうやらオイラの見間違ぇだったようだ。すまねぇな」
「へ?」
男が永岡の言葉を受けて目を丸くする。
永岡があっさり謝ったせいか、男は拍子抜けしたようだ。
「急いでるとこ引き留めて悪かったな。もう行っていいぜ」
「はぁ……」
続く永岡の言葉に男はすっかり毒気を抜かれたような面持ちだ。
そしてペコリと頭を下げると、
「で、では御免なすって……」
気が変わるのを恐れてか、片手拝みをしてとっとと立ち去った。
本当に急いでいるのか、やはり後ろ暗い事があるのか、男は次第に小走りになり逃げるように去って行く。
そんな小さくなって行く男の背中を永岡は難しい顔で眺めている。
「悪りぃが……」
「合点でさぁ。後は任せておくんなせぇ」
永岡が言い終える前に返事を返して歩き出す智蔵。
どうやら男を追うようだ。
二人とも何か引っかかりを覚えたようで、男の身元を調べておこうと思ったらしい。
同心と岡っ引きの勘と言うべきか。
「ああ、頼むわ」
ポツリと智蔵の背中に投げかけた永岡は、フッと声もなく小さく笑う。
「まるで古女房さぁね……」
肩を竦めた永岡は踵を返して歩き出すのだった。
*
「ほう。その男が己れを斎藤承太郎と名乗ったので御座るか……」
「ええ。確か中西様のお知り合いに同じお名前のお方がいましたよね?」
「左様。面目次第も御座らん……」
周一郎が沈痛な面持ちで静かに頭を下げる。
周一郎が泥沼の加平の盗みに加わったのは、この斎藤承太郎に誘われての事だ。全く魔が差したにしても大きな過ちを犯してしまった。
当の加平は周一郎へ声をかけるつもりはなかったのだが、周一郎の境遇を知った承太郎が余計な世話を焼いたのだ。
周一郎も知ったからには見過ごせない。
断るにしてもこの事を奉行所に知らせなければならない。
加平の生業はともかく、人としての加平や承太郎は好ましく思っていただけに、その二人をお上に売るような真似もしたくはなかった。
しかも加平の盗みは一度たりとも殺しや女子を手篭めにした事がなく、盗まれて難儀する者を標的にしないと言う。
更に今回は裏で悪どい金貸しをしている悪評高い商家だと。
主人から奉公人まで誰もが寝静まっている間に盗み出す計画で、周一郎の役割は主に商家の外での見張りと金の運搬だと聞き、最終的には引き受けてしまったのだった。
まさに魔が差したと言えよう。
しかし、それがまさか今回に限って死人が出ようとは。
結果的に、周一郎にとって悔やんでも悔やみ切れぬ誤った判断となった。
「頭をお上げください、中西様。その事は皆が心の奥底へと仕舞った事です」
「みそのさん……」
顔を上げた周一郎が言葉を詰まらせる。
「それに、私なんか仕舞った事すら忘れてしまいましたからね?」
みそのは斜め上に視線をやりながら首を竦め、戯けた笑みを浮かべる。
そんなみそのの仕草に、周一郎の沈痛な面持ちも堪らずくしゃりと綻んで行く。
その笑みは泣き顔のようにも見える複雑な笑みだが。
「それよりも中西様。これからどうなされます?」
湿った空気を変えるように声音を弾ませるみその。
「どうとは、某が斎藤殿に会いに行くかどうかで御座るか?」
「はい」
「それでしたら、せっかくみそのさんが報せてくれたので御座る。この写本も急ぎの仕事でも御座らんし、これよりゆるゆると足を運んでみる所存で御座るよ」
周一郎に自然な笑みが戻る。
「そうですか。ただ、私がお名前を聞いた時に気づいていれば、斎藤様をお引き留め出来たのでしょうが、なにせ月旦先生の道場を出て半刻以上も歩いてから気づいたものでして、未だ斎藤様が道場に居るかどうかはわからないのですよ……」
「なあに、斎藤殿と入れ違いになったところで、あわよくばあの高名な辻先生と手合わせ願えるかも知れぬ。さすれば、何れにしても行く価値はあると言うもの。それに、わざわざ駕籠まで使い某に報せてくれたみそのさんの心配りを考えれば、入れ違いなど何事でも御座らん。真にかたじけない」
そう言って改めて恭しく頭を下げる周一郎。
みそのはドギマギと慌てて周一郎の頭を上げさせると、
「お会い出来るといいですね?」
真っ直ぐ周一郎を見据え、しみじみとした声音で投げかけた。
みそのは周一郎が斎藤承太郎と話をする事で、周一郎の悶々とした心の内が少しでも晴れるのではと思ったのだ。
今後の人生を、仕切り直した新たな気持ちで送って欲しい。そう切に願っているのだ。
周一郎はそんな願いのこもったみそのの瞳に、言葉なくゆっくりと頷いて応えるのであった。
誤字報告ありがとうございました!
一応読み返したりもしてるのですが気づかないものですね。すごく助かります。
またよろしくお願いします!m(_ _)m




