第八十話 駄々っ子
「うむ。いつもの茶がひと味もふた味も違うわい」
そう言って驚きの目で湯呑みを見る月旦。
そして満足げに頷きながら、
「やはり美しいみーさんを愛でながらの茶は格別じゃな?」
と続け、「ふひゃひゃひゃ」と奇妙な笑い声をあげた。
頗る上機嫌だ。
先程から月旦の顔は緩みっぱなしな上、いつもに増して饒舌になっている。
余程みそのが訪ねて来てくれた事が嬉しかったのだろう。
「兵さんったら、もうよして下さいな……」
「あのう……」
みそのが呆れ声で返した時、襖の向こうから気まずそうな声が聞こえてきた。
「なんじゃ、早よう用向きを言わんか」
先程の奇妙な笑い声とは別人のように、厳かに告げる月旦。
どうやら門弟の一人らしい。
「あ、はい……。例の男がうちの道場へ入門したいと願い出ているのですが、如何いたしましょう……」
「そんなもの捨て置けば良い」
「いやしかし……」
「熱が冷めたら勝手に帰るわい。ワシは今忙しいのじゃ」
「あ、え……はぁ……」
月旦のにべもない返事に、門弟の困っている様子が襖越しにも伺える。
「多少の無礼はあったにせよ、あのお方も武芸者のようですし、お話だけは聞いてあげてもいいのでは?
私とのお喋りなんかより優先させてくださいな」
門弟が気の毒に思ったみそのは、小声で月旦へ進言する。
「みーさんにそう言われては何も言えんじゃろうが……。
せっかくみーさんと楽しいひと時を過ごしておると言うに……」
月旦は口を尖らせながら同じく小声で愚痴をこぼす。
そして大きな溜息を吐くと、
「仕方あるまい。あの男には道場で話を聞くと伝えるが良い」
と、苦々しく襖を細く開けて言い放つ。
それを聞いた門弟は「承知いたしました!」とほっとしたように答え、みそのへ目を向けて「ありがとうございました」と口だけ動かして立ち去った。どうやら小声は無駄だったようだ。
「兵さん、実は明日も養生所へ顔を見せに行く予定なので、こちらへは明日またお邪魔しますよ。
そうだ。明日は美味しいお茶菓子も購ってきますね?」
みそのは不味そうに茶を啜る月旦へ笑いかける。
「…………約束じゃぞ?」
「ええ、お約束します」
みそのの言葉が信用出来ないのか、もう少し一緒に居たいのか、月旦は上目遣いで恨めしげにみそのを見ている。
みそのは駄々っ子のような月旦に苦笑しつつ、
「じゃあ指切りしましょ?」
と、明るく言いながら小指を立てるのだった。
*
「おっ、あれは鳴海屋のお凛ちゃんだねぇ。いつ見ても……」
思わず呟いた男が、やってしまったとばかりに顔を顰めた。
男の半町(凡そ55m)程先の辻からお凛が姿を見せたのだ。
お凛の方は亜門と話していて男には全く気づいていない。
「いつ見ても何なのさ、忠八。その続きを言ってみなさい」
男の前を歩いていた娘が立ち止まり、低く冷たい声で男を問い詰める。
この娘、色白で鼻筋が通ったまさに瓜実顔の美形である。涼しげな目元に小さめな口がなんとも男好きする美貌の持ち主だ。
忠八と呼ばれた男も男でなかなかの男振りで、切れ長の目に太い鼻筋が鯔背な色気を醸し出している。
誰が見ても美男美女と言っていいだろう。
しかし誰が見てもカップルには見えない。
明らかに一回り以上歳が離れている上に、格好からしてどう見ても大店のお嬢様と奉公人の手代にしか見えないからだ。
その割には男を見る娘の目に艶っぽいものを感じるが。
「お嬢様、人目も御座いますし、この話はこの辺で……」
「いいから言いなさい!」
男の方は年嵩の手代らしく落ち着いたものだが、娘の方は美しい顔に似合わずなかなか強情なようだ。
「いえ、いつ見ても洒落ていなさるってだけで、ただそれだけで他に何も御座いませんよ……」
「ふん、あんな薄汚れた黄八丈が洒落てるだなんて嘘くさいわ。
どうせいつ見ても別嬪だとかなんとか言おうとしてたんでしょうよ。詰まらない嘘をつくんじゃないわよ……」
娘は言い捨てると、ぷいと踵を返して歩き出す。
「お、お嬢様、確かにその通りで御座いますが、鳴海屋のお凛なぞお嬢様と比べたら月とスッポン。あちらは鉄火なところが人気なだけでありまして、美しさではお嬢様の足元にも及びませんよ」
男は慌てて取り成しの言葉を並べ立てる。
少々持ち上げ過ぎかと思える言葉だが、娘は満更でもない様子で薄っすらと笑みを浮かべている。
「私と比べるだなんて益々何かありそうねぇ?
それにしても忠八、女房が居ると言うのに、あちらこちらの女に目移りするんだねぇ?」
「…………」
男は娘の挑発する様な揶揄する言葉に黙ってしまう。
どうやら手代の男は女房持ちらしい。
娘は黙りこくる男に鼻を鳴らして歩みを速める。
そしてそのまま向こうから歩いて来たお凛へ自分の肩を打ち付けた。
「何処見て歩いてんのさっ!」
当然ながらお凛が吠える。
亜門との話に夢中でよそ見をしていたのはお凛の方なのだが、そこはやはりお凛だ。
「あら、言いがかりもいいところねぇ?
その言葉はそのままお返しするわ」
娘は鼻で笑いながら言うと「あらやだ、下品がうつってしまうわ……」と、パパッとお凛とぶつかったところを払ってみせる。
「誰かと思ったら白子屋のお熊じゃないかっ!
相変わらず陰気な……ちっ」
お凛と娘は顔見知りのようだ。
ただ、お熊と呼ばれた娘とは犬猿の仲のようで、お凛は言いかけた言葉を舌打ちに変え、さっさと歩き出してしまう。
亜門は何が何やらと言った表情でお凛の背中とお熊を交互に見ていたが、お凛が歩みを速めた事で慌ててお凛を追って走り出した。
お熊とは日本橋新材木町の材木問屋、白子屋の娘で、日本橋小町として江戸でも有名な小町娘なのだ。
ただ、お熊は大店の娘なだけあってプライドが高いのか、啖呵が名物の小町娘として熱烈なファンが多いお凛の噂を聞いてからと言うもの、こうした嫌がらせ染みた事をちょいちょい仕掛けていたのだ。
しかもお凛とは同い年。お熊のライバル心に火がついたのだろう。
お凛も最初はムキになって吠えていたのだが、ある時からそれも馬鹿らしくなって相手にしない事に決めていたのだった。
お熊としてはそれも癪に障るようで、最近では今日のように明からさまな敵意を見せるようになっている。
「白子屋のお熊ってぇと、日本橋にある材木問屋のあの白子屋お熊かぇ?
はぁ〜、噂にゃ聞いてたが、とんでもねぇ……」
「とんでもねぇ何さっ!」
立ち止まったお凛が吠えて亜門の言葉を打ち消した。
お凛の鬼のような形相に亜門は一瞬にして顔を引きつらせる。
「あ、いやあれでぇ……とんでもねぇ……無礼な女だなってところかい?」
「…………」
逆にお凛に聞くように答える亜門。
お凛の眉間には盛大に皺が寄って行く。
そしてプイッと亜門から顔を背けてプリプリと歩き出した。
「とんでもねぇ何って言えばいいのさぁ〜」
情けない声で呟いた亜門は、またお凛を追って走り出す。
どうも忠八ほど上手く立ち回れないようだ。
「随分と年が離れてるようですが、あの二人はいい仲なんですかねぇ?」
お凛と亜門の様子を見ていた忠八の呟きに、
「なんだい忠八、良くもまあその口が言えるねぇ。あの男は忠八と同じくらいじゃないかぇ?」
揶揄うようにお熊が返す。
忠八は今年三十三、亜門は三十四だ。確かにお熊の読みは当たっている。
しかし忠八の女房は三十なので、良くもその口がと言われるほどの事でもない。
「だから言っているのですよ?」
忠八がお熊の耳元で囁く。
その手はお熊の尻を撫でている。
「さっき人目がどうのって言ってたのは空耳かねぇ?」
吐息混じりの甘い声を上げたお熊は、今度は自分が忠八の耳に口を寄せ、
「夜が待てなくなるじゃないかぇ……」
と、喘ぐように言ってその耳を噛んだ。
どうやらこの二人はできていたようだ。
忠ハは女房持ちの手代でありながら、自分が奉公する店のお嬢様と密通していたのだ。
お熊とお凛は同い年で今年十八。忠八が三十三で亜門が三十四だ。
確かにお熊が言った年の差の事は言えまい。
そして実はお熊、数日後には婿を迎える運びになっている。全くもって質が悪い。
「木場での用事が済んだらちょいと休んで行きますかね?」
忠八が嫌らしい笑みを浮かべるとお熊が妖艶な笑みでそれに応える。
二人は初めからそのつもりだったのかも知れない。
このお熊と忠八はこれより凡そ五年後、享保十二年に揃って獄門、即ち晒し首になる。
それは借金で傾きかけた白子屋が持参金付きで婿を取った事から始まる。まさにこの少し後の話だ。
お熊はその婿である又四郎を好きになれず、お久と言う古参の下女に手引きさせてこの忠八と密通を続けていた。しかもそれは母親のお常も容認の事だ。
お熊は離縁を望んでいたのだが、離縁すれば持参金を返さなければならない。
そもそも白子屋の財政難はお常の浪費癖が元だった事もあり、お常もやっと金に余裕が出来た現状を手放したくはない。そんなお常は婿の又四郎を病死に見せかけての毒殺を考え、娘のお熊と共謀してそれを実行したのだ。しかし、忠八の手引きで毒薬を入手し又四郎へ飲ましたものの、又四郎は腹を下した程度で死には至らず、今度は若年の下女、お菊を誑かして心中未遂として又四郎を殺害するよう命じたのだった。
ただ、心中未遂もなにもお菊に襲われた又四郎は、凶器の剃刀で頸部を切られたもののお菊を取り押さえ、又四郎の殺害自体が未遂に終わったのだった。
そして白子屋は又四郎の実家へ示談を申し込む事になったのだが、又四郎の両親は白子屋を疑い、奉行所に訴え出た事で事件が明るみになったのだった。
裁いたのは大岡越前守忠相である。
大岡が出した判決は下記の通りだ。
父、白子屋庄三郎は妻子の監督不行き届きに世間を騒がせた罪で江戸所払い。(白子屋は闕所、取潰し財産没収)
母、お常は従犯で遠島。
下女、お菊は下手人と言う事で死罪。
下女、お久は密通をそそのかした罪で町中引廻しの上死罪。
手代、忠八は密通の罪で町中引廻しの上獄門。
主犯、お熊は密通と夫の殺害未遂の重罪で町中引廻しの上獄門。
お熊の町中引廻しの当日は、江戸一番とも評された美女であり、夫殺しを画策した悪女を一目見ようと沿道には黒山の人だかりが出来ていた。
そんな中を裸馬に乗せられたお熊が白無垢の襦袢に『黄八丈』を着て、首から水晶の数珠を下げて現れた。
お熊は悪びれる様子もなく背筋を伸ばして静かに「南無妙法蓮華経」と唱えていたと言う。
この芝居がかった姿が江戸で大変な波紋を呼ぶ事となり、この事件を元に後に落語や講談、歌舞伎にもなっている。また、武功年表などの史料にも事件が取り上げられている。
このお熊の『黄八丈』はお凛へ見せつける為に又四郎の持参金で購ったのだとか。
ただ、お熊が最期のパフォーマンスで黄八丈を着用した理由が、お凛への当てつけだったかどうかは不明である。
お読みくださりありがとうございました。
時代劇で町娘が良く着ている黄八丈(黄色地に黒の格子柄だったりのアレですね)ですが、絹物ですし当時は大変高価な着物でした。
江戸時代初期までは大名や御殿女中に愛用され、江戸時代中期になって歌舞伎や芝居の舞台衣装として用いられるようになり、町人が憧れる着物となりました。
そして、実際に町娘がお洒落着として着ていたのは江戸時代末期から明治のようです。
僕も最初に知った時は「へぇ〜」って感じでしたので、みそのさんに着てもらう形で町人の間で流行り出すお話を書こうと思いました。
ただ、黄八丈と言えば『白子屋お熊』です。
どうせならこちらのお話も絡めて書きたい。
そう言う訳でして、みそのさんではなくお凛さんに着てもらいました。
それにしてもお熊たちの仕置きです。
見てわかるように密通の罪は随分重いのです。
お菊の死罪は可愛そうな気もしますが、なんと言っても下手人なので……。
とにかく、密通はいけませんね。
ん? この時代に生まれなくて良かった?
そんな事思っちゃダメですよー!
今年最後の更新なのにこんなシメですみません m(_ _)m
良いお年をお迎えください!




